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戦を終わらせようと焦るあまり、あってはならん方向に研究の舵を切る范増。
人食いの病の拡大に対処できた実績が、必ずしもいい方向に働くとは限らない。油断とか驕りとかになってしまうこともある。
そしてやっぱり、かつての誰かさんと同じように悪意が全くない。強く正しいと信じているほど、危険なものを握らせると厄介です。
劉邦軍サイドは、陳平の喜悦の瞬間。彼がとことん飢えていたものとは。
この章全体に、范増VS陳平な感じです。
一方、范増は毎日遅くまで仕事をしていた。
元々戦のことで仕事が多いのに加え、自分に鞭打って研究を強引に加速させたからだ。
范増は項羽の機嫌を損ねず成果を出してさらに研究を進めるため、研究の方針を大きく変えてしまった。
目標とするのは、穏やかな不老不死でも治療薬でもない。
これまで趙高以外の誰もがもう二度と作るまいと思った凶暴な変異体だ。
范増はこれに、状況を一気に打開する希望を見出していた。
(退路のない敵がこもる城を手っ取り早く落とすには、どうしても兵を幾らか犠牲にせねばならん。それも兵が恐れず突っ込んでくれれば少なく済むが、怖気づいたり命を惜しむほど戦が長引き犠牲も増える。
だが、こいつを……恐れも理性もない化け物を突っ込ませれば……!)
これがあれば、本来長引くことの多い攻城戦で一気にけりをつけられるはずだ。范増はそれを項羽に伝え、承諾を得た。
「なるほど、それなら味方の犠牲を減らせるな。
ただその変異体とするのも人間を使わねばならんし、感染の危険はあるが……」
「検体には敵の捕虜か、味方の中でも傷病で使えなくなった者を用いる。戦いたがっている者にその手段を与えるなら、文句は出まい。
それに、幸いこの戦いは既に包囲した城を落とすもの。
たとえ感染者が出たとしても、一人も漏らさず殺せば問題はあるまいよ。どうせ、敵も民も皆殺しにするのじゃろう?」
「おお、言われてみればそうだな!
さすが亜父、よく考えている!」
項羽は納得して、范増の策を称えた。項羽の頭で考える限り、范増の策に悪いところは見当たらない。
自分のために戦いたい味方を有効活用するのはいいことだし、自分たちには感染者が出ても対処できる力がある。
なら、天下泰平という大きな目的のためなら使えるものは使わねば。
ただ、項伯にそれを話すとひどく怯えて文句を言ってきたが。
「人食い死体でも恐ろしいのに、もっと危険なものを作って使うだと!?
頼むからやめろ、考え直してくれ!
己の考えで世のためになるから手段はどうでもいいなど、あの趙高と同じではないか!そんなことをしていたら……うぐっ!?」
突如、項羽の大きく武骨な手が項伯の襟首を掴み上げる。
項羽の、憤怒に満ちた顔が項伯に迫った。
「趙高と同じだとぉ……?
亜父に向かって、二度とそのような口を利くな!!」
次の瞬間、項伯は数メートルも投げられて地面に叩きつけられた。項羽は地面が割れそうな圧を伴って項伯に歩み寄り、叱りつける。
「いいか、亜父も俺も世界を私物化しようとしてやっているのではない!世界を安心安全にするために、早く戦を終わらせようと手を尽くしているのだ!!
見よ、亜父はぜいたくもせず仕事をし続けているではないか。それでいて気力に満ち、背筋など前よりしゃんとしているくらいだ。
あれのどこが趙高と同じだと!?
ずっと若いくせに時々年だとのたまう貴様より、ずっとできた人間だ!!」
そこまで言われると、もう項伯は恐ろしくて言葉も出ずがたがたと震えながら下がった。項羽はそれを見て、フンと一つ鼻を鳴らした。
范増は感謝しつつも、内心こう思っていた。
(守ってもらえたのはありがたいが……背中はそういう問題ではないんだがのう。
むしろ儂も、たまには背中を丸めて休みたいわい)
范増は最近、背中に痛みとこわばりを感じるようになっていた。それが曲げると悪化するため、曲げたくても曲げられないのだ。
そのため、最近は寝床に入るのも便所も一苦労である。
(さすがに、疲れが溜まってきたかのう。
しかし、ここは踏ん張りどころじゃ!この戦を終わらせて劉邦軍を根絶やしにすれば、だいぶ楽になるじゃろう。
この大事な時に、弱みは見せられんわい)
范増は何食わぬ顔で、粛々と仕事に戻った。
(幸い、変異体を作る方向の目処はついておる。
検体数を増やせば、そう時間はかからんじゃろう)
范増は、劉邦軍から使者に来た元研究員も留め置いて強制的に手伝わせている。監督のできる者が増えたからと検体を増やし、もし仕事を断って何か起こったらおまえの責任だぞと脅したのだ。
こうなっては、元研究員も従わざるを得ない。
こうして人を脅して危険なものを作り出すやり方がまさしく趙高と同じなのだが、項羽も范増も気づいていない。
手段は似ていても目的が違うから同じではないと、思い込んでいる。
悪意など欠片もない使命感に駆られて、范増は着々と研究を進めていた。
一方、劉邦軍では陳平が作戦の予算をもらうのを待っていた。
大人しく座って待つ陳平の前に、重たそうな小箱が運ばれてくる。その中には、黄金がぎっしり詰まっていた。
(あらあら、これだけじゃちょっと……)
陳平は内心不足に思ったが、すぐに次の箱がやってきた。これで全部じゃないと分かって待っていると……箱は次から次へと運ばれてくる
たちまち、陳平の前には黄金の入った箱が山と積み上げられた。
「えっ……こんな、に……!?」
軽く驚く陳平の前で、劉邦がニカッと笑った。
「どうだ、四万斤あるぜぇ!
一気に運ぶと重いしでかいままだと使いづれえだろうからさ、細かくしといてやった。おまえの使える人脈に、派手にやってくれよ。
あ、どう使ったか明細とかいらねえから!」
その言葉に、陳平は驚愕した。
黄金四万斤といえば、今この城にある財産のかなりの割合を占めるはずだ。それを、こんなに簡単に出してくれるのか。
しかも、よそから来たどこの馬の骨とも知れぬ自分に詳しい使途も聞かずに預けるときた。
そこまで、自分を信じてくれるのか。
そこまで、自分を頼りにしてくれるのか。
陳平は、思わず劉邦に尋ねていた。
「こんな事して……いっぱい反対されなかったの?」
ただ一緒に働いているだけで良く思わない者が多いほど自分は悪評に塗れていると、陳平は知っている。
だからこそ、信じられなかった。
劉邦は、笑顔のままうなずく。
「ああ、そりゃーもう文官どもの反発がすごかったぜ。ただでさえ補給できねーのに、敵から来た奴や敵そのものに金をやるなんてって。
でも結局、城が落ちて皆殺しにされちまったらいくら残ってても意味ねえし。
だったら、少しでも助かる可能性に全額突っ込んだって惜しくねえ!
それに、項羽軍のどこにどんな使える奴がいるか、一番知ってんのはおまえだろ。下調べ込みの額だと思えばな」
劉邦は、陳平の肩に手を置いてささやいた。
「つー訳だから頼む、俺らの命預けたぜ。
うまくいったら、釣りはとっとけよ……ま、惜しまずやって残りゃの話だがな!」
気前よくそう言って、劉邦は見張りの一人も残さずに去っていった。
陳平はしばらく、呆然と固まっていた。まばゆいばかりの黄金の輝きだけが、静かな部屋に満ちている。
やがて、陳平の息が荒くなり体がぶるぶると震え出した。
火山の噴火のように胸の奥から突き上げてくる熱さに、居ても立ってもいられない。
陳平は、弾かれたように黄金の山に飛びついてものすごい勢いで頬をすりつけた。
「あ、ああっ……しゅごっ……しゅっごおぉ~い!!!
こんなっこんなの、初めてええぇ!!!」
あまりの興奮に体をくねくねして、喜悦の表情で叫ぶ。もしこの光景を見る者がいたら、あまりの気持ち悪さに裸足で逃げ出しただろう。
もしくは、ついに欲望の権化が本性を現したと憤るか。
確かに今陳平がこんなことになっているのは、ずっと抱いていた欲望が満たされてとてつもない悦楽の中にいるからだ。
しかし、その欲望は金に対するものではない。
ここまでのものを与えてくれる、人の信頼に対してだ。
陳平はこれまで、ずっとそれに飢えていた。かつて仕えた魏王の下でも項羽の下でも前評判だけでそれがもらえなくて、悔しくてたまらなかった。
だが、劉邦はいとも簡単にそれを与えてくれた。
周りがどんなに反対しようが前評判が悪かろうが、きちんと自分の能力と持っているものを公平に見て信じてくれた。命を預けるとまで言ってくれた。
これだ、自分の求めていたものは。
劉邦こそが、劉邦だけが、この世で唯一自分を満たしてくれる君主だ。
「んふぅ~~~!!絶対、守ってあげるね!
お釣りなんか残さない。あんたはわっちに、命まで預けてくれたんだもの!」
陳平は、涙の跡がついた黄金の箱を抱きしめて心に決めた。自分はその卑怯な知略の全てを尽くして、今の主を守ると。
これまでずっとだらしなく生きてきた陳平が、初めて命懸けの忠誠を覚えた瞬間だった。
静かな夜に紛れ、項羽軍に音もなく悪意が広まり始める。一途に主を信じ真面目に働く忠義の士を、無残に食い破るために。
そんな項羽軍の一画で、元研究員が真っ青な顔で空の檻を見つめていた。
(あああ、ヤバい……このままじゃ、あのジジイ本当に……!)
さっきまでこの中にいたモノを思い出すと、足が震える。
普通の人食い死体よりずっと凶暴で、力尽きるまでこの檻の中で激しく暴れ続け、そのうえ片言だが人語をこぼしていた化け物……。
范増はついに、そこまで作り上げたのだ。
元研究員の目から見ても、范増の理論的思考と洞察力はこれまで見たこともないほど的確なものだった。
ゆえに、もしこのままもう少し研究を続けたら……。
元研究員は、拳を握りしめて心の中で叫んだ。
(頼む……誰でもいい何でもいいから、早くこいつを止めてくれ!!
でないと、本当に世界が……!)
別に、その願いを天が聞き届けた訳ではない。だがその願いに応える悪意の触手は、確実にその足元へと這いよりつつあった。




