(225)
講和の条件とそれが双方にもたらすもの、そしてその先に范増が見る理想とは。
しかし、いくら魅力的でもそれが君臣関係を壊すと予想されるなら話は別。
范増は齢七十を超えるまで誰にも仕えなかったとありますが、若い頃からそれまでずっと自分を高尚な人間だと思ってて自分は低俗な人間と交わりたくないとか気取ってたんじゃないかと思うんです。
そうでもなきゃこんな命短い時代にそんなことできないよ。
そして、老い先短くなってから手に入れたものが尊くて何が何でも手放したくなくて……それが冷静な思考を歪めることもあると思うんです。
劉邦との講和……これがまずどちらに有利に働くかは、火を見るより明らかだ。
戦いを一旦やめるのだから、苦戦している方がより助かる。具体的に言えば、劉邦に立て直しの時間を与えてしまう。
劉邦も、そのために講和を持ち掛けてきたのだろう。
だから戦況だけ見れば、この講和を受けるべきではない。
范増も項羽も、そこは理解している。
だが、世界の安全を考えたらどうか。
劉邦たちは、真実を知る者がいなくなってもある程度感染対策を残す方法を示してきた。正直、こんな方法は考えたこともなかった。
真実の中で対策に必要な情報だけを、おとぎ話に変えて一般人に流布する。端的に言えば、情報の劣化だ。
真相の究明とそれ以上の研究はできなくなるが、逆に悪用のために作ることもできなくなる。根本的ではないが、安全な対策ではある。
しかも、今やっている研究を妨げるものではない。
何なら、併用することで民にある程度自己防御させることができ、その分自分の負担が少しでも減って研究がはかどるかもしれない。
(……正直、疑わしい症例の判断を儂だけでやるのは骨が折れるわい。
これを広めれば、そういう判断も他に任せられるようになるかのう?)
范増にとっても、それは望ましいものだった。
今、項羽軍による感染調査は范増と側にいる元研究員が一手に引き受けている。他に情報を広める訳にいかないからだ。
情報は、秦がばらまいたらしい奇病の情報収集として集めている。自国と友好国の官吏たちに、熱を出さず体が冷えて衰弱していき他の病因が見当たらない患者が出たら知らせるよう伝えてあるのだ。
しかし、見つかってからが問題だ。
范増か元研究員がかけつけるか、その患者を連れて来られれば良い。しかし今は戦時中だし国が広すぎて、そんなことをしていられない。
結局、殺してそれまでの経過だけを范増たちが見ることになる。
こんなんで、まともな調査になる訳がない。
せめて元研究員が単独で動ければよかったが、項羽と范増はそれを許していない。単独で動かせば、逃げられる恐れがあるからだ。
こちらに留めている研究員も、范増が研究を続けることを内心良く思っていない。そのため、もし目を離せば劉邦の下に行ってしまうことは明らかだ。
おまけにこの研究員には、医学の基礎知識がなかった。
だから各地から届く症例報告を見て、他の病気を除外することができない。
ここもまた、まともな調査ができない。
そもそも研究員たちは、残虐な光景に耐えられて忠実という基準で徐福が選んだ元死刑囚なのだ。
元医学生の石生が例外なだけで、他は大部分がまともな教育すら受けていない。
今も石生が指揮を執り時に部下を教育しながら、忠誠ゆえに数人単位で動かせる劉邦軍とは、事情が違うのだ。
その劉邦軍の元研究員をもらえるというのも、魅力的だ。
素直に研究を手伝ってくれるとは思えないが、今手元にいる奴と同様に脅して働かせればよい。
いや、研究に使えなくても調査ができるだけで大助かりだ。
(これで少しでも不老不死に近づけたら……項羽を天下統一まで支えられるじゃろうか?
いや、それよりも……項羽を不老不死にしていつまでも共にいられるじゃろうか?)
范増の頭の中に、そんな未来が浮かんだ。
自分が今そうなっているように、項羽にも必ず老い衰える時が来る。今の圧倒的な力を、失っていく時が来る。
そうなった時、誰が世界を守るのか。
范増にとって、それに足るのは項羽しかいない。
その項羽も、人間である以上老いと死を免れない。
対して、人食いの病の元である尸解の血は世代を超えて受け継がれる。自分たちが死ぬまで何ともなくても、なくなったとは言い切れない。
いつまでも続く、終わりなき戦いになる。
ならば自分たちも終わりなき体にならないと、責任もって守れないではないか。自分たちの滅びが世の滅びになっては困る。
范増は最近の激務と過労の中で、そんなことを考えるようになっていた。
(石生たちを手に入れれば、いくつかの研究を並行してできる。劉邦の策を用いれば、一匹の獣を防ぐ柵くらいにはなる。
その間に、不老不死を完成させられれば……!)
劉邦の出してきた条件は、范増にとって間違いなく希望だ。
たとえ講和に応じて劉邦軍に時間を与えることになっても、それだけの希望を手に入れられるならば……。
そう考えて口に出そうとした時、范増はふと視線を感じた。
顔を上げると、まっすぐこちらを見つめている項羽と視線がぶつかった。その瞬間、范増の体がぶるりと震えた。
項羽の大きな目は、どこまでもまっすぐに范増だけを見ていた。
しかし不安や疑いなどはなく、ひたすらに范増を信じ頼みにしている。
(信じているぞ、亜父。
おまえが、俺に悪いことなどするはずがないと)
いつも項羽に言われている言葉が、范増の頭の中で反響する。
そう、項羽はどこまでも純粋に信じているのだ。いつどんな時も、自分を決して不利にしない范増という理想を。
この盲信とも言える信頼に、范増は背中に嫌な汗が流れた。
もしここで、項羽を不利にする選択をしてしまったら、どうなるか。
最近ただでさえ、項羽は思うようにいかなくて苛々している。
それでも原因は身一つではこなせないほど各地で反乱が起きるせいであり、范増や信頼できる将たちのせいにはしていない。
だが、今回は違う。
范増の選択一つで戦況が……劉邦を、ここで滅ぼせるかが決まる。
もしその機を逃したことで劉邦が勢力を盛り返し、その責任を自分に負わされたら。しかもその頃、自分はもっと弱って今できる事もできなくなるかもしれない。
そうなれば、項羽は自分を見限り……捨てるかもしれない。
(い、嫌じゃ……あってはならん!!
儂は、項羽に選ばれたのじゃ!そんな無能になってたまるか!!)
范増は、頭の中で必死にかぶりを振った。
これだけは、不老不死を前にしても譲れなかった。
思えば范増は、すぐ裏切ったり裏切られたりの軽薄な君臣関係が嫌で、若い頃どれだけ招かれても誰にも仕えなかったのだ。
項梁と項羽に仕えたのは、この人とこの時しかないと思ったからこそ。
項羽は項梁と比べて危なっかしいところが多いが、それでも情に厚い傑物だ。むしろ足りないところを自分に頼ってくれるおかげで、やりがいがある。
確かに仕事はきついが、他に守るもののない自分はこれで幸せだ。
実際のところ、若い頃人を信じずこんな年になってしまった焦りはある。そしてこんな年でようやく掴んだ絶対の信頼という理想を、もう命ある限り手放したくなかった。
これは完全に、范増の自己愛なのだが、范増は並ぶものなき真の君臣関係だと思っている。
何より大切な、これを守る選択肢は……。
心を決めた范増が口を開こうとすると、ちょうど項伯が項羽に声をかけた。
「なあ、講和を受けてひとまず国を安全にせんか?
このまま戦っても、これから国を担う人がどんどん死ぬだけだ、我が軍でうだつが上がらなかった韓信や陳平も、実は優秀だったそうじゃないか。
講和にかこつけて礼を尽くして迎えれば、またこちらに戻せるかもしれん。
他にも、生かして使った方がいい人材をみすみす殺してしまうことは……」
項伯としては、鴻門の会の時と同じように張良を助けたいのだろう。講和して行き来が自由になれば、それが叶うと考えている。
だが范増は、それが受け入れられないと分かっていた。
「うるさい黙れ!!」
いきなり項羽が、全身をいからせて怒鳴った。
驚いた項伯はその場で小さく跳ね、座から外れるほど後ずさって縮こまる。
項羽はそんな項伯を地獄の裁判官のように見下ろし、理由を告げた。
「何かと思えば、陳平に韓信だと?この俺が再びそんな奴らを受け入れると思うのか!?ええい忌々しい!!
奴らは、一度この俺を裏切ったのだぞ!そんな奴ら信じられるか!!
さっさと兵共に殺させるか、捕らえたら劉邦ともども首を打って晒してやるぞ!!」
項羽は火を吐くような怒りと共にこう言った。
項羽にとって、一度でも自分を裏切った者はもう敵以外にならないのだ。そういう考えで、一度でも敵の手に落ちた民までも虐殺しているのだ。
自分の下でろくに功績も上げず敵に寝返ってから優れた働きをする者など、許せるはずがない。
さらに項羽は同席した皆を見回して、鬼のような顔でにらみつけて言う。
「それに、奴らはろくでもない人間ではないか。陳平は何度も主を変えたうえ兄嫁と密通したという噂があるし、韓信は昔命惜しさに股くぐりをしたという。
そんな軟弱な不埒者共に、天下の一片でも任せられるか!!
講和に応じるということは、そんな輩に屈することになるのだぞ!?
貴様らはそれでいいのか!?恥を知れ!!」
そう、項羽は情に厚く誇り高すぎるゆえに、他人にも清廉を求めすぎるところがある。劉邦軍はその逆を行く人間が多く集まっているのだ。
そんなものに屈するなど、我慢ならない。
一度は范増に選択を委ねた項羽だが、怒りで頭に血が上ってすっかり突っぱねる気でいる。范増は逆の進言をしないで本当に良かったと思いながら、項羽に進言した。
「さよう、我が軍が有利なのに相手の求めに応じる必要などない。
ここは決して劉邦を逃がさぬよう、包囲を続けるのです!
さすれば、必ずや後の憂いを断つことができましょう!」
己の意に沿うその言葉に、項羽はぱっと笑って嬉しそうに言った。
「おお、さすが亜父、分かっておるではないか!
やはり頼れるのは亜父のような誠の忠義を持つ者だ。これほどの徳に満ちた我らが、あんな不良共に負ける訳がない」
それを聞いて、范増は心の髄に染み入るような満足感を覚えた。
(ああ、これじゃ……これこそ儂の求めていた誠の信頼!
こんな尊いものを裏切ることなど、できんわい!)
もっとも、これで研究を速めることはできなくなってしまったが……。
(案ずることはない、ここで劉邦との戦を終わらせてしまえばいいのじゃ。そうすれば、もう戦関係の仕事はなくなる。
劉邦がいなくなれば、石生共も儂の下で働かざるを得んじゃろ。
ここはとにかく、短い期間で戦を終わらせることを考えるんじゃ。幸い、そのために研究で生み出せるものはある……)
こうして、項羽は劉邦からの講和を蹴った。
范増は項羽の信頼を噛みしめながら、さらなる他の者に分けられない重圧をその背に負うのであった。




