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苦戦のあまり、項羽に講和を持ち掛ける劉邦。
その対価として劉邦たちは、研究の助けになる人材と目からうろこの斬新な感染対策を捧げようとします。
項羽の方でも、范増は仕事と使命に押し潰されそうになって苦しんでいました。
それでもお互いのプライドのために項羽との関係を変えられない范増にとって、劉邦の提案は……。
黥布が寝返っても、劉邦の戦況は良くならなかった。
項羽はかえって裏切り者の黥布もろとも首をはねてやると発奮し、ますます激しく劉邦軍を攻撃した。
さらに范増の策で劉邦軍の食糧補給路がたびたび襲われ、籠城に欠かせない補給が不安定になってしまった。
劉邦は、もはやお決まりのように弱気になって言う。
「なあ、このままじゃ籠城は続かねえよ。
一旦、戦うのをやめて立て直せんものかねえ?」
張良も、難しい顔ながらうなずく。
「はい、それも一つの手かと存じます。
ただ、黥布を裏切らせたことで項羽は相当な怒りに飲まれています。生半可な条件では、講和に応じてくれないでしょう。
一つ希望があるとすれば、石生たちの身柄でございますが……」
その提案に、劉邦も複雑な顔をした。
「范増の研究を、助けるって訳か……」
「天下には代えられぬと考えられるかどうかですが」
劉邦たちが講和のために差し出せる価値あるものと言えば、そのくらいだ。
范増は人食いの病の治療薬と、それからどうも不老不死をも欲している。その研究に有能な人材を手放せば、食いつく可能性は高い。
劉邦たちがもはや研究をする意志がないと示し、項羽を安心させる材料にもなる。
それに、石生たちの希望もあった。
「我が軍はもう、彼らなしでも調査と対策を続けられます。
私が陳平殿をごまかすための、人食い死体は始皇帝の受けた海神の呪いによるものという説……石生たちはそれを膨らませて、一般人用の手引きを作ってくれました。
兆候と対策の方法さえあれば、本質を知らずとも防御はできます。
石生たちは、それを項羽の勢力下にも広めたいと」
張良が告げると、劉邦は目からうろこが落ちたように感心した。
実際、これはとても大切なことだ。人に寿命がある以上、自分たちもいつかは皆死んでしまう。それでも、対策をやめる訳にはいかない。
だがそのために人食いの病の本質についての知識を他者に引き継いでいくと、悪用の危険が常につきまとう。
ならばいっそのこと、証がなければ否定も肯定もできない伝説のようなものとして語り継ぐのが一番かもしれない。
そうすれば悪用はされないし、研究をしなければ本質は必要ないのだから。
石生たちもそれに思い至って、張良の出まかせを利用したのだ。
そして、その方法ならば民間人に広めても大丈夫だと気づいた。病であるという本質に気づかなければ、新たに作り出すことはできないから。
項羽が調査を許さなくても、項羽の民が怯えていても、この方法なら民たち自ら防御させることができる。
項羽を迅速に討って天下を一つにできない以上、これが次善の策となる。
石生たちはそれもあって、項羽に身柄を差し出してもいいと言ってきた。
しかし、劉邦には懸念があった。
「なるほど、やり方は分かった……けど、項羽が受け入れるかねえ?
項羽は何つーかさ、何でも徹底的にやらんと気が済まんのだよな。このある意味民任せの妥協案みたいなので、納得するんかな。
もし項羽が受け入れなかったら、石生たちが無駄に皆殺しにされちまう」
それには、張良も真剣な顔でうなずいた。
「確かに、それはあります。
しかし自分の思うやり方で全土に対策を施せない焦りは、あちらにもあるはず。特に、范増は相当な高齢です。
そこを突いて、何とか交渉してみましょう」
こうして、元研究員が使者として項羽に講和を打診することとなった。
張良の思った通り、范増は焦っていた。
劉邦が倒せず彭城に戻れないため、研究は遅々として進まない。おまけに後方で黥布が寝返ったため、その鎮圧のためにまた仕事が増えてしまった。
仕方なく、范増は陣地の一画と馬車に簡単な研究施設を作ることにした。検体の数を同時に三体までとし、厳重に隔離して実験を行うのだ。
これを項羽に提案すると、快く許可してくれた。
「亜父が必要だというなら、やってくれ。
事故が起こっても、俺がしっかり感染者を始末してやる」
それは、項羽の絶大なる信頼の証であった。
逆に言えば、民や他人は少し怪しいだけですぐ殺すのに、自分が信じた身内にはこれほど甘いのである。
信じてもらえない者からすれば、不公平以外の何物でもない。
実際、范増をやっかむ声が軍の中から聞こえてくるのは確かだ。
自分たちは真面目に仕事をしても献策しても取り上げてもらえないのに、なぜあいつだけ。自分たちは少しでも失敗すると罰せられるのに、なぜあいつは許されるのか。
その声が大きくならないのは、項羽がにらみをきかせているからだ。
范増は、項羽の叔父項梁の下に参じてくれた賢者だ。この年まで他の誰にも仕えず自分たちだけに仕えてくれる、自分たちだけの味方だ。
そんな尊い賢者の忠誠を、どうして疑うことがあろうか。
それに、范増はいつも自分に付き従って自分の望む成果を最も多く上げている。そうでない者たちに、范増を悪く言う資格などない。
項羽がいつもそう言って他の部下たちを威圧しているから、范増は軍の中で誰にも邪魔されないでいられる。
……というのも他の部下たちからすれば、項羽が自分たちの言に耳を傾けないし重要な仕事を任せてくれないのにどうやって実績を上げろと、という感じだ。
つまるところ、項羽が范増にしか任せないから范増しか評価されないのだ。
そして范増に仕事が集中するせいで、范増は研究を進める暇がなくなっている。
項羽は、その悪循環に気づいていない。
むしろそういう狭く強い関係のみが本当の忠義だと信じ、これだけの仕事をこなす范増をとても頼れると喜んでいる。
范増も、項羽のそういう性格には気づいていた。
だがむしろ范増自身もそれくらい信頼してもらわないと満足できない人間であるため、それでよしとしていたのだ。
しかし最近は、范増がやらなければならないこと、任せられることが范増のできる限界を超えてきた。
全てに全力を注ぐことが、できなくなってきたのだ。
(い、いかん……これでは項羽の期待を裏切ってしまう!
儂はそんなつもりで仕えてはおらんのに、役目を果たしきれぬ!
もう少し余裕をもって順番に物事を処理できるはずじゃったが、天下の流れを読み違えておったというのか……)
正直、范増はこんなに仕事が増えると思っていなかった。
項梁に仕えた時は、秦などすぐに倒れるだろうと思っていた。項梁が死んで項羽の代になっても、項羽が天下をまとめて終わりだと思っていた。
多少の反乱があっても一つ一つ鎮圧すればいいし、後は寿命が尽きるまで項羽の治世を安定させることを考えればいいと。
それなら、老い先短くても十分間に合うはずだった。
ところが、現実はどうだ。
秦を倒したものの劉邦という強力な対抗馬が現れ、他の反乱と連動して乱世はいつ終わるとも知れない。
劉邦が僻地から出てくるのがもっと遅ければ、それまでに他の反乱を鎮圧して項羽の体制を盤石にできただろう。
だが予想に反して、劉邦は雷のような速さで出てきて項羽の天下を阻んだ。
つくづく、鴻門の会で殺しておかなかったことが悔やまれる。
(項羽め、だからあの時殺しておけと言ったのに……!
今こんなになっているのは、おまえのせいではないか!)
仕事をしてもしても終わらず項羽にせっつかれるたびに、范増はそう思ってしまう。
実際、項羽が自分の言う通りにしてくれていたら、自分も項羽もこんなに苦しまずに済んだのだ。
仕事だって、項羽が他の部下を侮ったり厳しくしすぎたりして人材を失わなければ、韓信や陳平にかなり任せられたのに。
そう思うと、項羽が憎くなることもあった。
だが范増がそれを表に出すことはない。
この主に仕えると決めたのだから、主を悪く言うなど失礼だ。主はこんなに自分を信じて重用してくれるのだから、自分もそれに応えるのが筋だ。
うまくいかないからと主を責めるなど、できない奴のすることだ。
自分は決して、そんな平凡な人間ではない。
そんな范増の清廉すぎる自尊心が、項羽と范増の関係を支えていた。優れた清廉な自分であろうとするなら、その関係を自分から壊すことはできなかった。
項羽も同じである。一途に仕えてくれる忠臣を全身全霊で守る誇り高き王であるために、范増が全てに応えられなくてもやり方を変えない。
お互い、自分のために相手を思い合っているのだ。
二人が意固地になっている限り、この関係は壊せないかに思われた。
しかし、時の流れは確実に范増の命を削っていく。范増が力尽きて項羽を支えられなくなる日は、確実に近づいて来る。
范増にとって、人食いの病の研究だけがそれに抗う唯一の方法だった。
そんな中、劉邦から講和の使者がやって来た。
項羽は初めそんな話は蹴ろうとしたが、劉邦なりの感染対策と石生たちの身柄引き渡しの話を聞いて悩んだ。
「范増殿は、もうご高齢です。
我々とて世を守ろうとする同志にこれ以上負担をかけたくはありません。どうかこの策を捧げ、共に安らげたらと……」
使者に来た元研究員は、范増を労わるようにそう述べた。
そう言われると、項羽は無下にできなくなる。
「どう思う、亜父よ。
おまえがその方が良いと言うならば、受け入れても良いが……」
項羽は優し気な目で范増を見つめて問う。
范増は、思わぬところで選択を任されてぎくりとした。今、自分の選択に、これからの項羽の命運がかかっているかもしれない。
范増は、頭の中でぐるぐると考えを巡らせながら膝の上で拳を握りしめた。




