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劉邦の快進撃、そして章邯たちの受難!
前々回の韓信の進言、その根拠が明らかになります。といっても、史記マニアの方はもう分かっていると思いますが。
隙間なく防疫体制を敷くには、世界を一つにまとめるしかない。
本格的に、楚漢戦争、開幕です!
関中に、秋風が吹き始めた。
関中の民にとっては実に久しぶりの、秋の実りを存分に味わえる秋。もう、実った分だけごっそり持っていく秦はない。
旧秦の地を治めることになった章邯たちは、少しでも民の生活を潤すべく収入を落としていた。
関中の民は、これまでの秦の苛政と戦乱で疲れている。
それを少しでも癒すことができれば、自分たちの評価も上がるだろうかと思った。
章邯たちは、治める民たちに白い目で見られていた。
項羽なんかに降伏してくれたおかげで、旧秦の民はすさまじい略奪と虐殺に遭った。おまけに降伏兵が二十万も埋められるのを見殺しにして。
せめて先に関中に入った劉邦に降伏して、共に項羽を迎え撃てば良かったのに。そうしたら、劉邦の下で安心して暮らせたのに。
もっと言えば、あれほど精強な兵を率いていたのなら章邯たちが趙高を討てば良かったのに。そうしたら、秦は滅びなかったかもしれないのに。
そんな不満が、民の間に渦巻いている。
民は、章邯たちではなく劉邦を求めていた。
あの優しい人に治めてもらいたい。あの方こそ本当にここの王になるべきだったのに。項羽にすり寄って任命された章邯たちは、偽物の王だ。
章邯たちは、いつどこで何をしていてもそんな評価を聞かざるを得なかった。
だが幸い、反乱の気配はない。章邯たちには項羽という強力な後ろ盾があり、民の間にはその恐怖が刻み込まれているからだ。
そこだけは、項羽に感謝していた。
それに、劉邦が漢中から出てくるまでにはまだ時間があるだろう。その間に民心を掴み迎撃できる体制を整えれば、自分たちの勝ちだ。
章邯たちは、ただその未来を信じて平穏な日々を過ごしていた。
しかし、その平穏はあっという間に破られた。
「た、大変です!!劉邦が、旧道から攻め込んできました!!」
「何、こんなに早くか!?」
数年は出てこないと思っていた劉邦は、一年も経たないうちに出てきた。しかも、獣道同然の旧道を通って警備の裏をかいて。
「それで、今はどこで防いでいる!?」
「そ、それが……民や地方の長官は劉邦を歓迎し、続々と城を開く有様で……。
ものすごい速さで進撃を続けております!」
「くそっやはりか!」
伝令の報告に、章邯は青くなって頭を抱えた。
恐れていたことが起こってしまった。民心が劉邦にあるうちに劉邦が来てしまったら、自分たちの勝利は見込めない。
戦とは、民の協力なくして行えるものではないのだ。物資や食料の徴発から兵の補充に至るまで、戦う元手は全て民に依存しているのだ。
その民に協力を拒まれたら、どんな名将も戦にならない。
それどころか、今民は逆に劉邦たちに食糧や物資を提供し、末端の兵士たちは次々と寝返って劉邦軍に加わっているのだ。
これを、今章邯の手元にある物資と言うことを聞く兵だけで止めるのは無理だ。
「ぐっ……こうなったら籠城だ!
項羽が助けに来るまで、何とか持ちこたえろ!」
章邯はやむなく、新たに都とした城の門を閉じて立てこもることにした。それも自国の誰かではなく、項羽の助けを当てにして。
その外では、民たちの劉邦を迎える歓声が飛び交っていた。
「ハハハッ楽勝だぜぇ!」
劉邦軍は、それはもう破竹の勢いで関中を掌握していった。どこでも民が味方してくれるので、文字通り向かう所敵なしである。
時々抵抗しようとする集団がいても、周囲の民に袋叩きにされ補給を断たれて劉邦軍が戦うまでもない。
この快進撃に、劉邦はこの策を採って本当に良かったと思った。
「へへ、ありがとよ韓信。おめえのおかげだぜ!」
「どういたしまして。
策は聞き入れていただいてこそ、その礎に殿の人望あってこそです」
劉邦にえびす顔でほめられて、韓信は得意げにお礼を言う。
劉邦は、自分ではとうてい無理だと思っていた韓信の大胆な策を採り、寡兵でも物資が乏しくても打って出たのだ。
結果は、これほどかというくらいの大成功。
もっとも韓信にしてみれば、その勝利には確たる根拠があった。
「まず、関中の民は殿を王にと心から望んでおります。秦を滅ぼしても民に危害を加えず、過酷な法を除いて法三章を約束しましたから。
それに対し、旧秦の地を治める三人の王は元々秦の将軍。おまけに民を虐げた項羽が勝手に任命した者です。そのうえ自分たちと共に降伏した二十万の兵が埋められるのを見殺しにしたため、人望はないしかつて率いていた精強な軍もありません。
これほど弱っているところを、どうして見逃しましょうや」
韓信はそう言って、劉邦に打って出るよう促した。
それでも劉邦は自軍の士気の低さや逃亡兵の多さを気にしてしりごみしていたが……。
「兵士たちが逃げるのは、ここでの生活が嫌で故郷に帰りたいからです。
ならばその強い思いを、士気として利用すればよろしい。東へ帰るために戦うなら、兵士たちは死力を尽くすでしょう。
それに、兵や物資が少ないなら旧秦の地で補給すればよろしい。殿が行けば、殿を慕う民は喜んで物資を差し出し戦列に加わるでしょう」
韓信の指摘に、劉邦と蕭何は仰天した。
行った先の人心がこちらにあれば、兵と物資を大量に用意する必要がそもそもないのだ。
蕭何の目の色が変わり、口元が涎が垂れそうに緩む。
「た、確かに……旧秦の地の人口と豊かな実り、あれを私たちのものとして使えるようになれば……すぐ手に入れてしまえるなら……!」
簡単にもげる果実が、脆い柵の向こうに大量にぶら下がっている。それに手を伸ばさぬ理由などあろうか。
劉邦の決心を促すように、韓信は急ぐ理由を告げる。
「しかもこれは、今だけの情勢です。
このまま長く放置して章邯たちが民に害をなさなければ、民心はそちらに落ち着くでしょう。そうなってからでは遅いのです!」
天下の情勢や民心は流動的で、絶えず変化するものだ。今の有利な情勢は、時が経つほど失われていく。
「……なるほど、そりゃ今やるしかねえな。
よっしゃ、ここは男見せて行ったらぁ!
どうせどんどん不利になるなら、当たって砕けろ……」
「砕けそうになったら、それこそここに引きこもればいいではありませんか。せっかく守るに固いし大軍で侵攻しづらい土地なんですから。
逆に向こうから攻めてくれば、ここほど寡兵で消耗戦に持ち込みやすい土地もありませんよ。
ま、そんな事には絶対なりませんが!」
という韓信の進言を信じて、劉邦は今に至る。
やってみればうまくいくことだらけ、まるで勝利への道が元々敷かれていたんじゃないかと思うほど順調だ。
進軍に使った旧道はとんでもない悪路だったが、兵士たちの望郷の思いと寡兵ゆえの身軽さで素早く踏破した。
逆に漢中に慣れ親しんでしまった大軍なら、こうはいかなかった。
章邯たちはこんなに早く戦になると思わず備えていなかったため、まともな防備などなくどこまでも進み放題。
時が経って彼らが備えていれば、こうはならなかった。
劉邦たちはまさに時期を味方につけ、瞬く間に旧秦の地を平らげた。
「参った……降伏するから、どうか命だけは!」
「我々とて、災いに流されてこうなったのだ!」
司馬欣と董翳は、敵わぬとみて降伏した。章邯は未だ籠城しているが、項羽は助けに来ず孤立無援だ。
劉邦は韓信の言った通り、ほぼ何も失わずに旧秦の地を手に入れることができた。
「いやー、やったぜ!
これで、豊かで固い地盤が手に入ったし。後はこっから東へ攻め入って、項羽をブチ破って天下取ればいいんだな」
劉邦は、意気揚々と東を見つめる。漢中に行かされた時はどうなるかと思ったが、ちょっと勇気を出して戻ってみれば簡単に本来の領土を取り戻せた。
この後の戦いも、こんな風にうまくいけば文句はないが……。
「油断はなりませんよ。
あなたと項王、まともに戦ったらどちらが強いとお思いですか?」
韓信に問われて、劉邦はぎくりと肩をすくめた。
「そりゃ、俺は項羽にゃ敵わんけど……」
「でしょう。だったら正面から戦って勝とうなんて思ってはいけません。あくまで殿は殿の良さで、多くの人を巻き込んで多方面から戦うべきです。
項王は欠点の多い人間ですから、そうすれば勝てましょう」
韓信は、すました笑みで東を見据えて言う。
「項王は勇ましく武に長けていますが、視野が狭く浅はかで大局が見えていない『匹夫の勇』です。また項王は情に厚いと言われますが、身内ばかり大切にし味方になかなか恩賞を与えず、中身のない『婦人の仁』です。
あんなことを続けていては、人はそのうちどんどん項王から離れていくでしょう。
殿はその逆を行い、とにかく人を味方につけてください。そうすれば、項王がいかに強くとも最後には勝てるでしょう」
それを聞いて、劉邦は謙虚にうなずいた。
「ああ、そうする。それ以外に勝つ方法なんざ浮かばんし」
劉邦はこの短い間に天下の一大勢力にはなった。しかし、天下統一までの道はまだまだ長い。
それでも、項羽は揺らぎ始めている。
勝機は、必ずある。
折しも韓信の言った身内びいきで不公平な恩賞に不満を持ち、各地で反乱が起きている。そのせいで、項羽は関中を救援に来られなかった。
越えねばならぬ壁は高い、だが越えられぬことはない。
何より、劉邦は越えねばならない。
(待ってろよ、子嬰……すぐ俺が天下取って、中華をまた一つにしてやる。
でもって、みんなが安心して暮らしていけるように守ってやるよ!)
劉邦は、取り戻した地に眠る子嬰を思い出し祈りを捧げる。
そうだ、これは自分のためだけの戦いではない。中華をたった一つの体制で守り、子々孫々が安心して暮らせる世を作る戦いなのだ。
分かたれた世界を一つにまとめる、本当の意味で秦の遺産に打ち勝つための戦いの火ぶたが、今ここに切って落とされた。




