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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第四十四章 分かたれた世界
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(217)

 ほぼ史実回。

 三者三様、新しい領土へ向かう状況と心境。

 正直に言って、章邯さんたちには同情するしかない。しかしホラーものにおいて、損な役回りの者に現実は徹底して非情である。


 そして、最後にこれからの天下のキーパーソンになるあのお方が……。

 劉邦が、咸陽を発つ日がやってきた。

 持てるだけの物資と数万の兵を連れて、これから一路山奥へ向かう。劉邦も配下たちも、切ない目をしてしきりに東を振り返っていた。

「あーあ……俺、帰れるんかなァ……」

 劉邦も将兵たちも、呟く言葉は同じだ。

 これから行く漢中や蜀は本当に何もないところで、ともすれば生活基盤すら心もとない。つい、この旅立ちを死出の旅のように感じそうになる。

 だが、戻ってこなければ世界を守ることはできない。

 山奥に引きこもって小さな別世界を作れば開けた土地よりは人食い死体から守りやすいだろうが、結局地続きなので完全に防げるとは思えない。

 海の向こうに逃げた方士たちとは違うのだ。

 ならば、どんなに困難でも戻って来るしかない。

 つい気合の入った言葉を放とうとして、劉邦は張良に止められた。

「言いたいことはいろいろありましょうが、これからご帰還の意志は隠してください。どこで項羽の間者が聞いているか分かりません。

 野心があると見抜かれて寝首をかかれたら、それこそ二度と戻れませぬぞ!」

「うっ……そりゃそうだ」

 劉邦は、ぞっとして口をつぐんだ。

 そんな劉邦に、張良は策を授ける。

「とにかく、帰る気がないと思わせて項羽の警戒を緩めさせるのです。

 漢中に向かう際、険しい崖に渡されている桟道を焼いてください。そうすれば間者は、それを項羽に報告しに引き返すでしょう。

 そのうえ侵入路を断ってしまえば、それ以上行った先で探られることもありません。

 後は、機を見て桟道を再建し奇襲をかけるのです」

 山奥の漢中へ至る道は、それほど多くない。崖に穴を開けて挿した木に渡した道、桟道以外は、獣道のような道なき道ばかりだ。

 その唯一の主要道を断てば、ひとまず監視から逃れて一息つける。後はどうにか力を蓄えて、再び打って出るのだ。

 それから張良は、劉邦の手をぎゅっと握ってささやいた。

「私はこれから、縁のある韓王の下へ参ります。

 そこで中原に人食い死体が出ないか目を光らせつつ、韓王を動かして殿が出てきた時に力を合わせられるようにしておきます」

 そう、劉邦が山奥に引きこもってしまったらもう中原の監視はできない。そのため、張良がその役目を買って出た。

 しかし、劉邦は心配そうにささやく。

「ありがたいけどよ……おまえこそ、大丈夫か?

 あんまり無茶すると、おまえが項羽に目ぇつけられるとさ……俺ぁこれを今生の別れにはしたくないぜ」

 すると、張良は女のように妖艶に笑って返した。

「ご心配なく、逃げるのは殿の専売特許ではありませんので。

 私は見ての通りの女顔です、どんな事があっても必ず生きて戻りましょう。

 では、どうかお達者で!」

 最後の一言だけ周りに聞こえるように大きな声で言って、張良は劉邦軍から離れていった。劉邦も張良に背を向け、何度も振り向きながら咸陽の城門を後にする。

 沿道に集まった秦の民たちも、涙ながらに劉邦を見送る。

「ああ、あの優しいお方がどうしてこんな事に……」

「あの方に治めてもらえば、もう苦しい日々は終わったと思ったのに……」

 劉邦が一時は守った民たちの笑顔は、項羽によってすっかり失われてしまった。街は破壊し尽くされ、至る所に見るも無残な死体が晒してある。

 ここと比べたら、今から向かう山奥の方がまだ平和に思えた。

(待ってろよ、みんな……絶対戻って来て助けてやるからな!)

 民たちの嘆きに後ろ髪を引かれつつ、劉邦軍はがれきの都を後にした。


 さて、その一方で立場がないのは章邯たち秦の降将三人である。三人は苦々しい顔で、劉邦を見送っていた。

「何ということだ……ここにもう、我らのための民心はない」

 章邯は、絶望の表情で呟く。

 章邯たちの中に、祖国の民を安んじようという気持ちはある。しかし民はもう自分たちに期待などしていないし、立場上自由にやることもできない。

 民にとって、章邯たちは項羽という最悪の災いに降伏して招き入れた裏切り者だ。そのうえ、降伏後に秦のために戦った将兵二十万が生き埋めにされるのを見殺しにした薄情者だ。

 いくら趙高に追い詰められていた事情があっても、事実だ。

 その裏にある人食いの病毒についての事情は民に明かせぬため、世を守るために必要だったと理解してもらうこともできない。

 そのうえ、項羽のせいだと声高に叫ぶこともできない。

 項羽に命を救われた自分たちは、鎖につながれた犬同然だ。

 項羽は、自分たちが民心を掴めないと知ったうえでここに配置したのだ。

 章邯たちが言うことを聞く限り自分の武威を貸して治めさせてやるつもりで、従うしかない立場に追い込んで。

「せっかく秦が滅んで巨悪の下から脱したと思ったのに……。

 どこまでも損な役回りですな、我らは」

 司馬欣が、諦観の念を漂わせて呟く。

 それでも、今は項羽に与えられたこの地を治めるしかない。大人しく言うことを聞いていれば、項羽は自分たちを守ってくれるのだから。

 民の恨めしい視線から目をそらし、章邯は苦し気に言う。

「とにかく、我らも民を労わっておれば、時が解決してくれることもあろう。

 我らは下手をすれば戦場で死ぬはずだったのに、王になれた。今はただそれを喜び、まずは与えられた地で己を癒そう。

 ただし……この都はもう使えぬから、儂は他の場所を都とするが」

「それがよろしゅうございます。

 では、お達者で!」

 章邯たちはしばらく、今生の別れの如く抱き合って泣いた。三人は、これから自分たちを待っているのがどのような道か、薄々気づいていた。


 項羽たちも、全てを奪いつくしほぼ廃墟となった都から楚に帰ろうとしていた。

 説客の中には、このまま秦の地に留まってここから天下を狙ったらどうかと言う者もいた。しかし、項羽はそれを却下した。

「いくら少し前まで壮麗な都だったとはいえ、ここにはもう何もない。こんな所で腰を据えて政などできぬわ。

 それに、偉くなって故郷に帰らないのは錦を着て暗闇を行くようなものだ。

 それでは晴れ姿を見てもらえないではないか」

 戦略の欠片もない、ただ自慢したいだけが理由である。

 これを聞いた説客は、呆れてこう吐き捨てた。

「楚人は猿が冠をかぶっただけというが、まさにその通りだ」

 説客も、言いすぎたかもしれない。だが項羽は自分が侮辱されたと知るや、この説客を捕らえて釜茹でにしてしまった。

 明らかに、悪口への罰としてはやりすぎだ。

 それに壮麗な都を壊して焼き尽くしたのは項羽だし、都がなくなってもここが豊かで堅牢な土地なのは確かなのに。

 項羽は、そんな事全く考えていない。

 ただ、自分の故郷を世の中心とすることで頭が一杯だ。

「これだけの財宝があれば、我が都彭城を相当豊かにできる。

 そしてそこから、我が真の覇道が始まるのだ!」

 そう言う項羽の目は、野心にギラギラと光っていた。

 もちろん項羽も、これで天下が治まるなどとは思っていない。きっとそのうち乱世が来て、自分がその覇者として皇帝たらんと夢見ていた。

 しかし、そうなると彭城にいる義帝が邪魔になる。

 項羽はまた一計を案じ、黥布を呼んだ。

「おまえが王になれたのは、その身を張って戦ったのだから当然だ。

 むしろ、天下はそういう功のある者が治めて当然なのだ。

 だが、自分で戦ったわけでもないのに帝位にまで就いている妙な輩がいる。あんな奴天下には必要ない、そう思わんか?」

 項羽は、これまで祭り上げて利用してきた義帝を処分することにしたのだ。

「なあ黥布、俺とおまえは共に戦った同志だ。

 そしておまえの領土は、俺の国の隣だ。

 俺はな、おまえとは末永く仲良くしたいものだ。もし俺のこの頼みを引き受けてくれたら、おまえとは味方でいてやるぞ」

 項羽は、黥布の耳に密命をささやいた。

 それは義帝の居城を僻地に移し、移動中警備が手薄な所で黥布に襲わせて亡き者にしようという陰謀であった。

 利用するだけして価値がなくなったら捨てる、あまりに冷酷非道である。

 黥布は内心ぞっとしたが、逆らう訳にもいかない。項羽の人並外れた強さは知っているし、自分が攻められたらどうなるかはよく分かる。

 黥布はすさまじい胸糞の悪さを覚えながらも、従うしかなかった。


 こうして、様々な陰謀と非道を孕みながらも戦いは一旦終わりを告げた。

 しかしこの後に訪れるのが平和な時代でないことを、皆感じていた。むしろ、秦がなくなったことで表面化した火種がいくらでも天下に散らばっている。

 ここからは、今立っている王たちが天下目指して食い合う時代だ。

 その中では、やはり項羽が圧倒的有利に見えた。

 だが、項羽はこの一連の戦いで人望を失いつつあった。

 秦の降伏兵二十万を生き埋めにした(これは不可抗力)のを皮切りに、他の征服地でも容赦なく降伏兵や民を虐殺し、もう殺す意味がなくなった子嬰を殺し、都を破壊し秦の財宝を勝手に接収したりと、暴虐行為は天下に鳴り響いた。

 おまけに人の話を聞かず約束を守らず、劉邦を勝手に疑って殺そうとしたり僻地に追い払ったり、信用ならない話ばかりが広まる。

 そんな中、項羽軍から早くも劉邦に鞍替えする者が出始めた。

「ここではどんなにいい意見を言っても採用される望みがないし、こんな身勝手な奴にはついて行けない。

 私も、未開の新天地に賭けてみることにしよう」

 一部の兵士は、そう言って項羽について帰らず劉邦について行ってしまった。

 その中に取り返しのつかない人材が紛れていたことに、項羽はまるで気づかなかった。

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