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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第四十三章 暗雲
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(214)

 守ろうとした劉邦が逃げるということは、終わる人たちがいる。

 それでも生きることを選んだ劉邦と、死にゆくかつての王の願いとは。


 項羽が征服地で好き放題やると大惨事になるのは、もはやお決まりのパターンです。本人はかっこよくキメているつもりでも、民にとってはたまったものじゃない。

「おいおまえら、荷造りはできてっかぁ!?」

 自陣に戻るや否や、劉邦は残っていた配下たちに怒鳴った。

 項羽の殺意からは逃れた。しかし、劉邦たちにのんびり休んでいる暇などない。すぐにでも、やらなければならないことがある。

 蕭何が、慌ただしく走って報告しに来る。

「戸籍と各国の情報を記した文書、既に回収いたしました!

 研究文書についても、趙高が保管していた写本を入手しております!

 全て食糧等の物資に偽装し、郊外の陣へ移動させております。本日中には、作業が終了しますので、間に合うかと」

「よっしゃあ、でかした!」

 まずやらねばならないのは、世を守るのに必要な資料の回収だ。

 秦が各地を征服した時に入手した各地の地政学的資料、そして人食いの病についての研究文書。これだけは外せない。

 これがあれば、一時力を失おうとも世を守る方法は手中にできる。

 むしろ蕭何や張良は、項羽によりこれらが失われることを危惧していた。

 項羽は征服地を破壊し尽くすうえ、人食いの病のことはもう終わったしまた出ても簡単に対処できると思っている。

 これでは、書物や資料に興味を示さずに焼いてしまうかもしれない。

 その中にこそ、世を守るために大切なものが詰まっているというのに。

 だから劉邦たちは、口では全て渡すと言っておきながらそれだけは秘密裏に回収しておくことにした。

 研究文書については多くは引き渡すが、趙高がこっそり写本を作っていたのが幸いした。

 趙高はいずれ不老不死の研究も自分の手下だけでやろうと考えていたらしく、そのために研究文書の写しを作っていた。

 もちろん全てではないが、これに足りない分だけ原本から補充する形にすれば、すぐにはバレない量を項羽に差し出せる。

 もっとも、差し出したものは全て焼かれるかもしれないが。

 それから項羽は出された茶を一気に飲み干し、苦渋の表情で問う。

「長老たちへの伝達と、民の避難はどうなってる?」

「は、朝一番で長老たちに項羽が来ると伝えて回りました。人々を秦の宮殿や役所から離れた所に避難させるようにと。

 もうだいぶ情報が伝わったのか、郊外に避難する民が出始めております」

 そう、項羽が破壊するのは物だけではない。

 人も、生活の糧を奪い住処を焼き払い敵意の赴くまま虐殺までやるのだ。

 このままでは、何の罪もない民が犠牲になってしまう。それを少しでも防ぐべく、劉邦は都の民たちに避難するよう指示を出していた。

「あーあ、安心しろっつっといて……情けねえ。

 結局こうなっちまって、恨まれたかな」

 劉邦は、悔しそうにぼやく。

 張良は、そんな劉邦を励ますように言う。

「いいえ、そんなことはありません。殿のせいではないのですから。

 項羽が本来関中王となるべきあなたに背いて力で脅したことは明白、強盗に屈した者を悪いと責める者などおりませぬ。

 だから、これから先起こるひどい事は全て項羽のせいです。

 あなたが民に謝って誠意を見せておけば、民は殿に同情し項羽を恨むでございましょう」

 全体を見れば劉邦が有利だと張良は言ったのだが、劉邦は腹の底に溜まるような気分の悪さを覚えた。

 いくら将来的に有利になっても、自分を慕う者たちが数多く殺されるのと引き換えでは気分がいい訳がない。

 しかし、かといって止めることはできない。

 止めようとすれば項羽はまた怒り、劉邦に牙をむくだろうから。

 幸い、劉邦は自分を守るためなら他の何でも差し出せる心の持ち主だ。だから今は、後で埋め合わせするからと思って耐えることにした。

 それに、事前に知らせてやったのだから全くの見殺しという訳でもない。

「はぁ……できるだけ逃げてくれよぉ」

 祈るようにそう呟いて、劉邦は休む間もなく阿房宮に向かった。


 阿房宮は、既にだいぶ人気がなくなっていた。劉邦軍が引き上げたうえ、官僚たちも多くが逃げ出したせいだ。

 その静かな宮殿の無駄に豪華な王の間で、子嬰は待っていた。

 その姿を目にすると、劉邦は胸を締め付けられるようだった。

「おまえ、その恰好……そうか、そうだよな」

 子嬰は、劉邦に降伏した時と同じ姿でいた。白い喪服に身を包み、いかようにもしてくださいとばかりに首に紐をかけて。

 子嬰は、切ない笑みで言う。

「一度は覚悟したことだ、今さらどうということはない。

 おまえには良い夢を見させてもらった。短い間だったが、ありがとう」

 その言葉に、劉邦の顔がくしゃくしゃに歪んだ。

 そう、この優しき勇気ある王だけは、どうしても助けることができない。民と違って、確実に項羽に引き渡さねばならない。

 なぜなら子嬰は、壊すことが大きな意味を持つ、秦の王家の血筋だから。

 項羽はかつて秦に祖国を滅ぼされたうえ叔父を討ち取られており、殊更に秦を憎んでいる。必ずこの手で仇を取ると、そのためにここまで来るようなものだ。

 何が何でも自分の手で秦を壊さねば、気が済まないのだ。その気持ちの暴走もあって、味方の劉邦にまで襲い掛かったのだ。

 もし子嬰引き渡しを拒めば、劉邦の命はない。

 だから劉邦は、せめて誠意を見せるように子嬰に頭を下げる。

「助けといて、こんな事は言いたくないんだけどよ……俺は、自分が可愛いんだ。俺について来る奴らも、大事なんだ。

 あんたの民にゃ、できるだけ苦労かけんようにするから。

 だから頼む、俺らのために死んでくれ!!」

 どこまでも素直で飾らない言葉で、劉邦は頼み込む。

 子嬰は、すんなりとうなずいた。

「ああ、後の世のために、おまえたちを守って死のう。

 どうせ国も力も失った私は、これから先生きていても何もできない。こんな無価値な命と引き換えにおまえたちを救えるなら、本望だ。

 最期まで民と後の世を守るために命を使えるなら、王としてこれほど嬉しいことはない」

 それから子嬰は、力のこもった目で劉邦を見据えて言った。

「ならば私からも、おまえに頼むことにしよう。

 秦がなくなって、これから天下は大きく乱れるだろう。もしかしたら、おまえにも苦難が降りかかるかもしれない。

 だがおまえはそれに屈せず、秦に代わって天下を平定してほしい。そして、中華全土を人食い死体から守れる体制を築いてほしい」

 その壮大な頼みに、劉邦は苦笑した。

「俺が、天下統一かぁ……たははっ無茶言ってくれるぜ」

「だが、死ねと言われるよりましだろう?自分が可愛いのだから。

 おまえはこれから、どんな苦難にもくじけずどんな手を使っても生き残れ。そして天下を手にし、民を苦しめぬ程度に楽しむがいい。

 おまえの周りには、秦には残らなかった有能な人材が集まっている。

 一人ぼっちの私とは違う、きっとできるさ」

 そう言われて、劉邦は照れたようにはにかんだ。

「何だか、ほめられてんのかけなされてんのか分からんな。

 でも合ってるぜ、俺は死にたくねえ。俺が死体に食い殺されんために天下統一しなきゃならんなら、やってやらぁ!

 俺は生き汚えからな。あんたみたいに潔くはできんよ!」

「それでいい、だからこそ後の世を任せられる。

 残された時間でおまえに後を託せて、私は幸せだった」


 そう、子嬰は秦が滅んで時点で処刑されてもおかしくなかった。自分亡き後の世が全く見通せぬまま、無意味に死ぬことも覚悟していた。

 だが、その死に素晴らしい意味が与えられた。

 自分を助けようとしてくれた人を、大切な民を慈しんでくれる人を、後の天下を託せる人を守るために身を差し出せる。

 もう何もできないと思っていたのに、王として最期の役目を果たせる。

 子嬰はただ天に感謝し、劉邦とともに項羽の前に出頭した。

 そして、さんざん罵られたあげく、咸陽の街かどで首をはねられた。

「皆の者、秦の暴虐はここに終わるのだ!

 秦の皇帝は悪辣で冷徹で、天下万民を苦しめることしか考えておらず、そのせいで我々は塗炭の苦しみを味わった。

 そのような邪悪な血筋を絶やし、天下に正義を示す!

 それに従っていたおまえたちは、俺たちから取り上げたものを返せば生かしてやる」

 そんな救いに来たのか虐げに来たのか分からない台詞を吐いて、項羽は子嬰と家族を皆殺しにした。

 子嬰が暴虐を終わらせたことなど、認めようともしなかった。


 それから、咸陽に暴虐の嵐が吹き荒れた。

 咸陽に入った項羽軍は先を争って秦の宮殿に押し入り、宝物を好き放題に略奪した。そして奪うものがなくなると、火を放った。

 始皇帝や胡亥が技術の粋を集めて作った建物が、あっという間に灰になった。

 そのうえ、血に飢え報復の念に駆られた兵士たちは、都に残っていた一般人にも略奪と虐殺を行った。

「おまえらの国が俺らから奪ったモンを返せ!!」

「おまえらが攻めて来て楚の人間が大勢死んだんだから、お返しだ!!おまえらも、踏みにじられる恐怖を味わえ!!」

「天下から搾り取って、甘い汁を吸った報いだ!」

 戦を仕掛けたのも天下に重税をかけたのも秦のほんの一部の意向なのに、ほとんどの民に罪はないのに、楚の兵士たちはそれが分かっていない。

 項羽と一緒に怒りをぶつけて暴れ狂い、咸陽を地獄に変える。

 虐げられた民たちは項羽に怨嗟を向け、優しかった劉邦がここを治めてくれたらと切に願った。民の心は、完全に項羽から離れた。

 そんな事も気づかず、項羽は燃え盛る宮殿を前に高揚した顔で叫んでいた。

「ワッハッハッハ!あの暴虐なる秦の都を完膚なきまでに壊してやった!!

 俺が秦を終わらせたのだ!暗黒の時代を終わらせたのだ!

 この有様を見れば天下の民は安心し、この俺の比類なき功績を認めるであろう。天下を治めるのにふさわしいのは、この俺であると!!」

 項羽は戦と復讐に昂るあまり、全く気付いていなかった。

 この地獄の中で、民の心がどちらの味方で固まったのか。そして項羽への失望の視線は、項羽軍の内部からも発せられ始めていた。

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