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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第四十二章 天下は誰が手に
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(210)

 予想よりはるかに穏便だった政権交代に、どうかこのままであってくれと願う秦の民と子嬰。

 劉邦が次の王として振舞うには、確固たる根拠がありました。しかしそれが後々どうなるかは……歴史に詳しい方なら分かりますね?


 そして、ここでようやく(195)の項羽軍と話がつながります。

 病毒を送られながら進軍を続けてくる項羽軍に、劉邦たちの見方は……常に最悪を想定して動くのは、バイオハザード対応としては悪くないんですけどね。

 政権の引継ぎは、順調に行われた。

 秦の役人たちはそのまま劉邦の下で働き始め、趙高の粛清で足りなくなった人手は劉邦軍から補充された。

 反乱軍には、秦の思想統一についていけず官職をはがれた元役人や官僚が居場所を取り戻さんと多数参加しているのだ。

 彼らの手で、これからの統治のあり方についても議論と整理が始まっていた。

 それから、劉邦軍が民から一切物資を徴収しないため、民は久しぶりにまともに食べられるようになった。

 もう秦による苛烈な取り立てはなくなった。それだけで、本来穀倉地帯である旧秦の民は驚くほど楽になった。

 つまり、秦という国がそれだけ民を苦しめていたと証明されたようなものだ。

 この現状に、子嬰は顔から火が出るほど恥ずかしかった。

 同時に、劉邦なら大丈夫だと心の底から安堵を覚えた。

 咸陽の街には笑顔があふれ、民の喜ぶ声が満ちている。国を滅ぼされたことよりも、皆が普通に生きていける世を喜んでいた。

 このまま劉邦がここを統治してくれればいい……子嬰も民も、それを願っていた。


 劉邦ももちろん、それで当然と思っていた。

「ガハハ!みんな安心しろよ、俺がここの王様だぁ!

 何だって、反乱軍をまとめてる楚の王様との約束だからよ。項羽か俺、先に咸陽を落とした方が関中(函谷関より西)の王だって。

 俺はきっちり先に入った、だから間違いねえ!」

 劉邦はそう言って、明るく笑った。

 反乱軍の中にもきちんと秩序があって、それにのっとった約束を果たすだけだから何も問題は起こらないと。

 子嬰と民たちも、それを信じて安堵した。

 ようやく食っていけるようになって、まともな国になった。

 なのに、これ以上また戦火に焼かれたり主が変わったりしてはたまらない。

 劉邦以外の諸侯はもっと欲深くて自分たちから略奪したりまた苛政を敷いたりするかもしれないし、これまで搾られたお返しとばかりに重税を課すかもしれない。

 子嬰としても、あの危険極まりないものをこれ以上他の者に引き継ぎたくなかった。

天下の中枢にいるほんの一部には知っておいてもらわないと困るが、逆に知る人間が多くなるほど悪用や間違った対応の危険は増える。

 それがここで止まってくれるなら、何もいう事はなかった。


 しかしここに、気になる知らせが届いた。

「項羽が進軍してくる……何だ、あいつ帰らねえのか?」

 秦を攻略するため進軍してきていたもう一方の楚軍、項羽の軍がまだここに向かって進み続けているという。

「あいつ、まだ俺がここにいること知らんのかな?

 じゃあ知らせてやっか……そしたらあいつももう戦わなくていいし、楽になるだろ」

 劉邦は軽くそう言って、項羽軍に使者を出すよう命じた。

 それから、やれやれといった様子で呟いた。

「あいつにゃ悪いけど、損な役回しちまったかな。

 考えてみりゃ、あいつが章邯とかいう強えのと秦の主力引き受けてくれたから、俺は割と楽にここまで来られたし。

 ま、そこだけは趙高の采配に感謝ってとこか!」

 劉邦がニカッと会心の笑みを浮かべると、皆苦笑する。

 とはいえ、そうでなければ今のこの平穏はなかったかもしれない。趙高が項羽に主力をぶつけなければ、項羽が先に咸陽に入り、これまで項羽が落とした地と同じように大虐殺が繰り広げられていたかもしれない。

 おそらく、子嬰も殺されていただろう。

 そうなれば人食いの病についての引継ぎはうまくいかず、天下の危機は放置されてしまったかもしれない。

 そう考えると、趙高の采配が天下を最悪から救ったと言えなくもない。もっともそれは偶然の産物で、趙高にそんな気は毛頭なかったが。

 ……と、そこで全員の頭に浮かんだことがある。

「そう言や趙高が項羽軍に病毒届けたようなこと言ってたけど……あれ、どうなったんだ?」

 劉邦が真顔になって、恐る恐る尋ねる。

 張良が、苦虫を噛み潰したような顔で答えた。

「私も気になって斥候を放って様子を探らせているのですが、いかんせん報告が数日後になるので今どうかは分かりません。

 今の報告では、項羽軍にさほど乱れはないようです。

 趙高がその作戦を行ってからかなり日数が経っていますので、今の報告で大丈夫なら作戦は失敗したと考えられますが……」

 石生たち研究員によると、感染者は十日以内に必ず発病し、一月以内には死んで人食い死体になるという。

 だからもし作戦が成功していたら、項羽軍は今頃大混乱になっているはずだ。

 そうでない以上、大丈夫だと信じたいが……。

 ここで、蕭何が重々しい口調で告げる。

「それについて、気になる報告がございます。

 項羽は章邯たち秦軍二十万を降伏させておりますが、最近新安という所の谷でそれを全て埋めてしまったとか。

 助かったのは、章邯たちの側近数十名のみ。

 食糧不足からやったのかと思いましたが、もしかしたらこれは……!」

 張良が、ぎょっとして呟く。

「人食い死体が発生し、広がりを止めるために全て処分した可能性がある……!?」

 そう、たとえ人食い死体が発生しても、知識がなくても対処は不可能ではない。

 早期にそれが伝染性のものだと気づき、感染が発生している集団を丸ごと切り捨てることができれば、ひとまず大発生は免れる。

 それで感染を絶やせていれば、万々歳だ。

 しかし、漏れがあって散発的に人食い死体が出ても、そうなった者を迅速に倒し続ければ軍を維持することは可能である。

 もし項羽軍がその状態で咸陽まで来てしまったら……。

「……やばくね?」

 青ざめる劉邦に、張良が険しい顔で言う。

「我が軍と関中の民を守るためです。

 ここは項羽軍を函谷関で足止めし、その間に項羽と力を合わせて感染を除く方法を考えましょう。

 殿、ご決断を」

「ええええ!?いやいや、それはまずいだろ!

 そんな事したら項羽は怒るだろうし、他の諸侯からも変な目で見られちまうよ!もうちょっとこう、穏便な方法は……」

 あまりの強硬な策に、劉邦は二の足を踏む。

 しかしそこに、冷徹な声がかかった。

「おやおや、どうやら感染の恐ろしさを理解していただけていないようです。

 これはもう一度地下に来ていただくしかありませんね。ちょうど感染実験がいい具合になっています、ご案内しますよ」

 それは、感染実験の報告に来た石生だった。

 この件を決断するために見ない訳にもいかず、劉邦たちは再び地下に潜った。


 結果から言うと、地下は凄惨な事になっていた。

 趙高に腕を噛まれた手下は三日で人食い死体になり、その間に手当てをした三人を感染させ、今は新たに五人の死刑囚に感染させているところだ。

 広い牢の中で、趙高と同じように死んだ肌の色をして目を白く濁らせた手下が、かつての同僚に無差別に噛みついている。

 襲われている側は必死で抵抗しているが、全て徒労に終わっている。

「どうなってやがんだ!?殴っても蹴っても効かねえ!!」

「ふ、不死身だ……もう終わりだ!!」

 死刑囚たちの言うとおり、いくら殴っても蹴っても死体は動き続ける。明らかに腕が変な方向に曲がり胴が有り得ない形に陥没していても、平然と肉を食らい続ける。

 絶句する劉邦たちに、石生が説明する。

 「何も知らない一般人の中に人食い死体を放り込めば、一体であの様ですよ。

 感染者を看護して体液を浴び、死んで間もないヤツに抵抗して返り血を浴び、知っている者だからと攻撃をためらい、攻撃しても頭以外ではあまり意味がないのを見て不死身と勘違いして絶望し……。

 そのつど迷いなく殺して対処できるのなんて、軍か監獄くらいのものです。

 あなた、咸陽がこうなるのを指をくわえて見てるんですか?」

 劉邦は、腰を抜かしたまま必死で首を横に振った。

「だ、だめだぁ……さすがにこれは、無理だああぁ!!」

 常々能天気な劉邦も、これには己の考えの甘さに打ちのめされるしかなかった。咸陽がこうなるか否かは、まさに自分の決断にかかっている。

「よし決めたぁ、お、俺は函谷関を閉めるぞ!感染者は一人も入れねえ!

 すぐ函谷関に使者とばせえ!!」

 劉邦は即決し、叫んだ。

 目の当たりにした感染の恐ろしさに、それ以外の決断など有り得なかった。


 しかし、方針を決めて脱力する劉邦の後ろから、雷のような声がかかった。

「殿おおぉ、このような所で一体何を!その化け物共は!?」

「あ……は、樊噲か……おまえこんな所まで……」

 暴走する猪のように研究員を弾き飛ばしつつ突撃してきたのは、劉邦の護衛をしている豪傑、樊噲だった。

 劉邦と軍師二人が自分を伴わずに元秦王とどこかへ行くことが多いため、何かあってはと心配して来てしまったらしい。

 樊噲は人食い死体を見てカッと目をいからせ、大音声で叫ぶ。

「このような化け物を隠しているとは……おのれ秦王、息の根止めてくれるぞ!!」

 樊噲はあろうことか、子嬰に剣を振り上げた。

 劉邦は大慌てで、体中の力を振り絞って二人の間に入る。

「ダメだああ!こいつは悪くない!!」

「では、あの化け物を倒せばいいのですな!」

 樊噲は今度は、人食い死体を短弓で射た。しかし矢が何本胴を貫いても止まらないのを見ると、歯ぎしりをして剣を握りしめた。

「ならば、体を砕いて切り刻むまで!

 さあ、檻を開けてくだされ!!」

「ダメだああ!そんなことしたらおまえが感染するぅ!!

 頼むから、落ち着いて止まってくれえぇ!」

 劉邦に涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔ですがられて、樊噲はようやく止まった。それを見て、蕭何と張良は震える声で呟いた。

「こ、これは……武に長ける者でも敵を知らず勢いだけでぶつかれば、容易に感染して終わるということか!」

「しかもこれほどの豪傑となれば発症しても助けようとする者が多く、それがまた感染を広げる……戦の常識がまるで通じませぬぞ。

 何より、樊噲だから殿が止めれば止まります。

 ですがもし項羽がこうなってしまったら、止められる者など……!」

 世の常識や期待をことごとく食い物にするこの病毒の恐ろしさに、いつも冷静な軍師二人も戦慄を止められなかった。

 そして、先にここに来たのが項羽でなくて本当に良かったと思った。

 世の中がこうならぬよう最善を尽くそうと、皆が心に決めた。


 ……ただし、その思いが項羽に通じるかは、また別の話であった。

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