(209)
久しぶりの実験タイム!ゾンビ警報発令!
ゾンビになっているのはもちろん、あの極悪人です。元が極悪なので実験に慈悲はない。
そして、改心したマッドサイエンティストは方向性は変わってもやっぱり実験命な野郎だった。ただし信じてもらうには必要な人材です。
事務や生活のための広い空間を抜けると、その先は殺風景な岩壁の通路だった。研究員たちが松明をつけて闇を払ってくれたが、腐臭は胸を押し潰すように強くなる。
「うげぇ……この臭いだけでもう行きたくねえ」
「これでもましになったのだぞ。
たくさんある独房に人食い死体が詰まっていておまけに解剖実験まで行われていた頃は、臭いに慣れるまで入口の扉を開けられなかったほどだ」
劉邦の小言に付き合いながら、子嬰は改めて空になった実験施設を見回す。
通路の両側にある独房にいた人食い死体は、残らず処分させた。趙高の味方をした者たちの死体と共に、焼き捨てた。
もうここには、感染実験も解剖もない。毎日のように感染性のゴミを出していた頃と比べると、危険は大幅に減った。
それでもまだ、たった一体残っている。
証拠として見せ、時代に警告を継ぐためだけに。
子嬰は研究員たちに命じて、また分厚い扉を開けさせた。まず研究員たちが入って部屋の明かりを灯すと、中の様子が露わになる。
部屋の中央のぽつりと置かれた寝台の上に、それはいた。
布をかぶせられているが、その盛り上がりはごそごそと動き、低い唸り声が聞こえてくる。
研究員たちが慎重に近づき、さっと布を取った。
その下から現れたものに、劉邦は悲鳴を上げた。
「うげええぇ!!?」
腰が抜けて倒れそうになる劉邦を支えながら、軍師二人も息をのんだ。
そこにいたのは、どう考えてもこの世にいてはいけない類のものだ。この地下が本当の黄泉とつながり、そこから這い出してきた怪物のようだった。
そいつは、全身が腐っていた。
肌は変色し、目は白く濁り、全身の傷は血すら流さずただ赤黒い肉を晒している。
だというのに、そいつはしっかり人間のいる方に顔を向け、粘ついた口をがばりと開けてごうごうと唸る。
襲ってこないのは、拘束されているからだ。太くぶよぶよの手足や胴に食い込むように太い鎖が巻かれ、寝台に縛り付けられていた。
「趙高だ」
子嬰は、ぽつりとそれの正体を告げた。
「こいつは、望んでこのような姿になった。
私に殺されかけ、それでも生にしがみついて病毒を使い、このざまだ。
不老不死を作りかけてできたものだからここからでも不老不死の人間に戻れると信じて、ここの研究員たちにそれを託して逝った。
愚かな……そのような技術はまだできる目処すらないのに」
劉邦たちはぞっとしてその話を聞いていた。
「おいおい、そりゃあ……下手したらこいつが死病を広めてたんじゃないのか」
「そうだろうな。だが、そうなってもいいとこいつは思っていただろう。
自分が好き勝手出来ないものは滅ぶべきだと、そう考えていたのだから。
つまり……そういう奴にこれの知識が渡ってしまうと、世は容易に滅びる。今もまだ、それを防ぎきれたか確信が持てぬのに」
子嬰のぼやきに、蕭何は冷や汗を拭いながら言った。
「なるほど、それでこんなに厳重に管理を……これはうなずくしかありませんねぇ。
欲に振り回されるだけの他の者にこれを明かしたら、秦の滅びと同時にこの世が滅びかねませんから」
劉邦と蕭何は、むしろ子嬰に感謝した。
そして、子嬰を生かしておいて本当に良かったと思った。
もし子嬰を処刑してしまっていたら、自分たちはこんなにすんなりこの話を引き継げなかっただろう。
ここの研究員たちが訴えても信じずに鼻で笑って処刑し、いざ何か起こってから、どうしていいか分からず混乱して何もできなくなったかもしれない。
あるいは、もし最後の秦王が子嬰ではなくもっと王位や自分に執着する人間だったら、全世界を秦の道連れにしようとしたかもしれない。
この話を聞いたのがもっと欲深い他の諸侯だったら、子嬰の意図を無視してどう利用しようとしたか分からない。
自分たちと子嬰の、どちらが欠けてもこううまくはいかなかった。
また、子嬰が趙高を倒してくれなかったら、おそらく世界は終わっていた。
今は趙高一人が人食い死体となって拘束されているが、趙高を止めるのが遅れていたら世界は逆になっていた。
すなわち、趙高と一部の人間のみが生き残り、他の人間はほぼ人食い死体になる。
劉邦と配下たちも、他の世を正そうと立ち上がった者も、何の罪もなく暮らしている民も全て。
子嬰は、人知れずその全てを救ったのだ。
それに気づくと、劉邦は目頭が熱くなった。
自分は悪の権化となった秦から天下を救う英雄気取りでいたが、逆に自分たちがこの最後の秦王によって救われていたのだ。
「……ありがとよ、おめえこそ本物の英雄だ。
おめえがこれだけきっちりやってくれたこと、俺は絶対無駄にしないぜ!」
劉邦は感極まって、子嬰の手を握った。
劉邦が鼻をすする音に反応して趙高の死体が吼えるが、その手も口も生きた人間には決して届かない。
今の趙高は、触れなければ無害なただの晒しものだ。
知ってすぐ的確に動いて趙高をこうしてくれた子嬰に、劉邦は心の底から感謝感激雨あられであった。
だが、それでも張良の顔は険しいままだった。
「……何を秦王の言うままに乗せられているのですか?
確かに外見は衝撃的なものですが、これが本当は生きた人間でないと確かめた訳でもないでしょうに。
危険だと繰り返すのも、触らせないためでは?」
張良は、ここまで来てもまだ懐疑的だった。
だが、その見方を否定することもできない。なぜなら、触れないなら目の前のモノが本当に死んでいるか分からないからだ。
そこで、方士服の筆頭らしき男が口を開いた。
「ほほう、あくまで証拠を求めるその姿勢、研究者として賞賛します。
言われるままを盲目的に信じるは愚かです。
でしたら私が、これの生死を確かめるお手伝いをいたしましょう。感染を防ぐ器具も防具も、お貸ししましょう。
存分に確かめなさい!」
そう言ったのは、石生だった。
石生は、趙高の言うことを盲目的に信じていた怠惰な自分を猛省した。そして、研究のことで証拠を求める者にはできるだけ手を貸そうと心に決めた。
石生と数人の研究員たちが、張良の前に防具や器具を持ってきて説明する。
「まず感染を防ぐために、この手袋をはめて襟巻つきの前掛けを着けなさい。
そして生死を確かめるために、この長い針をこいつの肺や心臓の位置に突き刺すのです。そうすれば、反応で生死が分かるでしょう?
ああ、いくら刺しても構いませんよ。
もう死んでいるし、頭以外への損傷でこいつは止まりませんからね」
てきぱきと実験の準備を進められて、張良は少し面食らった顔をした。
しかし、張良は意を決してそれらを受け取った。
「分かりました、やらせていただきましょう!」
相手が確かめろと言っているのだから、やらない理由はない。張良は、これが本当に人食い死体であるかの証明実験を始めた。
まず方士服の研究員が、手慣れた動きで趙高の口に棒を噛ませ、そのまま頭を寝台に押し付ける。
そうして噛みつきを封じると、張良はいよいよ趙高の体に針を突き刺した。
まず肺に。しかし趙高の様子は変わらない。
次に、心臓の位置に。それでも趙高の様子は変わらない。
無遠慮に深く刺しても、痛みに反応するような動きはない。肺に刺しても咳の一つもしないし、心臓の位置に何本刺しても平然と唸っている。
張良の目が見開かれ、額に汗が浮かんだ。
「こ、これは……!」
「お分かりになられましたか?
生命を司る臓器にこれだけ刺されて平然と暴れられる者などいません。痛みを止めようが理性をなくそうが、心臓が止まれば人はもう動きません。
あなたがこれを刺してから、どれくらい経ちました?
抜いたって……ほら、血も噴き出しません」
石生はそう言って、心臓を貫くように刺した一本を抜いてみせた。
それでも血は全く出ないし、趙高は動いている。その針についた液体は明らかに腐った臭いがして、生き血ではなかった。
「なるほど、これは……認めざるを得ないようです。
とんでもないものを、作ってくれましたね」
事ここに至っては、張良もこれが理を超えたものであると理解するしかなかった。
黙り込む張良をよそに、石生はまた他の研究員たちに指示を出す。
「では、ついでに感染実証実験もやってしまいましょうか。
一体だけなら頭を潰せばすぐ倒れますが、これの本当の恐ろしさは感染にあります。そここそ知ってもらわぬことには。
さあ、趙高の手下だった死刑囚を連れてきなさい!」
程なくして、研究員たちが枷をはめた男を引きずってくる。実験用にここに収監していた、趙高の手下の外道だ。
子嬰は冷たい目でそいつを見つめ、言った。
「おまえは趙高に仕えていた頃、多くの高官や金持ちを陥れるために罪の証拠を偽造したり嘘の証言をしたりしてきたな。
その働きを覚えてもらっていれば、趙高はおまえを害すまい」
研究員たちが趙高の口から棒を外し、手下の男を近づけていく。
腐った趙高が大口を開けて唸る様子に、手下は驚き、慌てて命乞いを始めた。
「ち、趙高様なのですか……!?
お、俺です!あなたの大切なっ……俺がいなきゃ、あいつもこいつも殺せなかったし……ねえ、きちんと働いたでしょう!?だからお願い、助けて!許し……ぎえええぇ!!!」
趙高は意に介さず、手下の腕に食いついて肉を噛みちぎる。言葉など全く届かないし、相手が誰かももう分かっていない。
ぐちぐちと肉を噛む趙高をよそに、石生は事も無げに言った。
「後はあいつを他の死刑囚と一緒の檻に入れ、様子を見ましょうか。
数日もすれば、人食い死体が発生した天下の縮図が見られますよ」
それを聞いている劉邦たちは、全員青くなって一言も発せなかった。
趙高は今間違いなく、生きた人間の肉を食った。そのうえ、かつての部下がいくら命乞いしても全く通じなかった。
こんなものが野に放たれたら……想像するだけで、喉の奥にこみ上げてくるものがある。
絶対に、こんな病を発生させる訳にいかない。
どんな説教よりもしっかりと、心に刻まれた。
同時に、自分たちが継がされたものの重さがずしりと心にのしかかってきた。自分たちは今、本当の意味で天下の行く末を背負ったのだ。
帰り道、劉邦は子嬰にささやいた。
「おめえ、本当にどえらいモン継がされちまったな……同情するぜ」
すると、子嬰は間の悪そうな笑みで答える。
「まあ、ね……しかし誰も継がず知らずよりは、はるかにましでしょう。それでは本当に打つ手がなくなりますから。
そして、あなたに引き継げて本当に良かったです。
今の言葉、そのままあなたに返しますよ」
そう、これからあれと対峙するのは他でもない劉邦なのだ。知ってしまったし現に今この世にあるものを、なかったことにはできない。
暗い地下道に、劉邦の乾いた笑いがこだました。




