(205)
投稿的にギリギリの綱渡りが続いております!
このまま完結まで行けるといいな!
子嬰に自分の問題点を指摘された石生、彼の過ちの根幹はどこにあったのか。そして、石生に子嬰が与えた使命とは。
秦は、もう世を守れないんです。
「……は?」
いきなり子嬰が発した一言に、石生はムッとした。
子嬰は、自分ではなくかつての師匠や徐福が恵まれなかったと言った。それではまるで、悪いのは自分みたいじゃないか。
「へ、陛下……いえ、ただの言い間違いですよね……」
「いや、今聞いた通りだ。
おまえを捨てていった師匠や徐福の判断は、私のから見ても正しい。……師匠の方は、もう少しやり方があった気はするが」
子嬰は、石生の目をまっすぐに見て、言い切った。
「おまえが捨てられたのは、おまえのやる事が大きな目で見て世のためにならぬからだ。師匠も徐福も、おまえが自分の成果にこだわっていろいろ壊す様を見ていられなかったのであろうな。
むしろ師匠や徐福の判断の方が、余程世のためを思っている。
彼らははずれではない、はずれはおまえの方だ」
その言葉に、石生は怒りを露わに言い返す。
「なっ……なぜそんな事を言うのですか!?
私が広めようとした万能薬も作ろうとした不老不死も、手に入れた者に素晴らしい幸せを約束する神の業に等しいものです!
私は、それを人々に与えようとしただけで……!」
「いくら良いものでも、出費と効果が釣り合わねば多くを幸せにはできまいよ。
おまえは、そのような視点が欠如しているから平然と無茶を推し進め、疎まれるのだ」
その自分の善行を全否定するような言い方に、石生は真っ赤になってまくしたてる。
「はああぁ!?あなたも、金だの出費だのとケチなことを!
一国の王とは思えぬ器の小ささですね、そんな有様では領土が縮んでもむしろちょうど良かったのでは?
全く、始皇陛下はあんなにも大胆にやって世を良くしたというのに。
せっかく逆臣を倒したのに、またはずれの王ですか」
石生は、師匠の話をしていた時と同じ見下げ果てた目で、子嬰を見る。
だが、子嬰は穏やかにうなずいて言った。
「ああ、私は大規模なことの決断力で祖父に及ぶまいよ。
正直、私から見ても祖父はすごい方だったと思う。あれだけ短い期間で他の六石を平らげ、秦内部もここまで豊かにしたのだから」
「そう思っているなら、なぜ……!」
「だが、あまりに大きなことをやりすぎて民に負担をかけすぎた。
今秦は各地の反乱で元の領土すら危うくなっているが、その原因は祖父にもあると思う。胡亥様だって、祖父の方針を肥大化させたにすぎん。
大きな実を求めすぎると、木そのものが枯れてしまうのだ」
そう言って、子嬰は外に目をやった。
「なあ、この壮麗な阿房宮を作るのにどれだけ金と人手がかかったと思う?
そしてこれができて、民の生活は少しでも良くなったのか?」
今二人が仕事をしているのは、阿房宮の一室である。窓から外を見れば、壮大な宮殿の一部と眼下には咸陽の街が見える。
始皇帝や胡亥が建て続けた宮殿とそれらをつなぐ回廊が巡らされた、美しい街が。
しかし、そこで暮らしている人々の生活は苦しくなる一方だった。
大事業や大工事のため度重なる増税と、不満を持つことすら許さぬと言わんばかりの細かい法と厳罰。
いくら法で縛ったって民の苦しみは何一つ解決しないのだから、そんな事を続ければこうなるのは明白だった。
せめてもう少し民に優しくして大きなことを控えていれば、反乱が起こっても民が秦を守ろうとしたのではないか。
阿房宮と他にも宮殿だらけのこの街は、そんな無情な苛政の象徴だ。
子嬰はそれを毎日目にして、嫌で仕方なかった。
こんなものや匈奴への遠征に使う金をもっと、地道だが多くの民を幸せにするのに使っていれば、今秦はこんなになっていない。
数々の大事業に投じられた金で、どれだけの人を幸せにできたのか。
そう思うと、子嬰は虚しくてたまらなかった。
しかし、石生はなおも食い下がろうとする。
「で、でも……それだけのことをする力はあったのでしょう!?
ならば、それだけの力がなければできない事をやるのが、力を持つ者の使命なのでは……せっかくこんなに大きくて豊かな大帝国だったのに……」
「あのな、どんなに大きな国でも富や人手には限りがあるのだぞ」
子嬰は、深い悲しみを湛えた目をして言った。
「そして、人が生きて何かを生み出すにはある程度以上豊かでなければならん。
民を兵役や労役に集めれば、その分田畑は荒れるし、そのうえ重税を課せば民は食べるものすらなくなり生きていけなくなる。
それでは、一時的に豊かに見えても、すぐに国全体が貧しくなる。
祖父は多少それを考えていたが、国内に敵がいなくなって浮かれていた。胡亥様にはそれを考える頭がなくて、趙高は自分以外どうでも良かった。
そして乱費を続けた結果が、この体たらくだ」
子嬰は、その視線を眼下の街に移して呟く。
「反乱が起こった頃には、もう秦に従っていては民の生活が成り立たなくなっていた。
各地で食い詰めた農民が群盗となり、生活するために年端もいかぬ子が売り飛ばされ、この都の周囲では農家が自分の作った作物を口にできぬほどだった。
……おまえは、それでも成果だけを評価できるか?
何なら街の酒場に行って、今言ったことを民の前で叫んでみるか?」
そこまで言われて、石生はさすがに口をつぐんだ。
自分は地下で研究に没頭していて気づかなかったが、そんなひどい事になっていたとは。時々地上に出て見惚れた壮麗な街が、逆にこんなにも人を虐げていたとは。
考えてみれば、石生は街のことも国のことも趙高や胡亥の言うことを頭の隅に置いておくだけで、実際に見聞きしようとしたことはなかった。
結果、狭い世界で見るものと自分だけが正しいと思い込んでしまった。
そして、胡亥と同じように趙高のみを盲信させられ、いいように使われていた。
そんな己を恥じる石生に、子嬰は呆れたようにぼやく。
「趙高は己を害すると思った者を、次々消していった。それはもう人を人と思わぬやり方で、見ている者の心をも折る苛烈さだった。
しかしそれは、皆代わりがいると思われたからだ。
その点おまえは代わりがおらず、趙高にとって殺すことも壊すこともできぬ存在。
そのおまえなら、少しでも疑いを持てば趙高の目をかいくぐって情報を集め、趙高に必殺の毒を食らわすこともできただろうに」
「!!」
「それができていれば、おまえは万能薬より不老不死よりずっと簡単に数百万の民を救えたものを……いいことをしたいと言う割に、気づこうともしなかったのだな。
なぜか?おまえは結局、自分のすごさを認めてもらいたいだけだからだ。
その浅ましい欲を趙高が見抜いたから、おまえにとって趙高が理想的に見えた。そしてその欲を満たせぬ賢き者を、おまえははずれと切り捨てていた」
石生には、返す言葉もなかった。
子嬰の言う通り、自分はその気になれば天下を救うほどいいことができる立場にいた。
なのに、趙高に認められていくらでも支援してもらえるのが嬉しくて、怪しいことは全て見ないふりをしていた。
これは、決して善意の行動などではない。
仲間があれだけ疑問の声を上げていたのに、帰って来ない仲間まで出ていたのに、無視して趙高を信じ続けた。
自分たちの研究の予算がどれほどかかっているかまるで気にせず、それが全て民から搾られていることなど気にも留めなかった。
成果の出ない研究に注ぎ込み続けたその金を民のために使えば、どれだけ民を幸せにできたのかも……。
石生は、結局自分のことしか考えていなかったのだ。
「あ、あ……お師匠様……徐福様……。
わ、私は……才の使い方を、間違えて……!」
石生の顔を覆った手を伝い、涙がこぼれ落ちた。
石生はこれまで優れた才を持ちながら、うまくいかず師に捨てられてばかりだった。その原因が分からず、世を恨み師を呪った。
しかしそれは、全くの見当違いだった。
悪いのは、師ではなく、自分。
自分のしていることを大きな目で見れば人を不幸にすることの方が多いことに気づかず、師の諫言を聞かず独善に突っ走っていた。
これでは、うまくいかなくて当然だ。
ようやく己の罪を理解し、しかしもう謝るべき師はおらず、石生はただ虚しさと後悔に泣きじゃくった。
しばらくして石生が少し落ち着くと、子嬰は声をかけた。
「石生よ、おまえはこれまで過ちを犯し続けた。
しかしこれからは、本当に善いことがしたいか?」
「は、はい……え?」
まだしゃくり上げながらうなずこうとして、石生は気づいた。いつの間にか、子嬰が石生の首に剣を突きつけていた。
「正直に、おまえの望みを聞かせてほしい。
私の話に納得できぬなら、それでいい。それならおまえがもう二度と人を不幸にせぬように、今ここで首をはねるまでだ」
石生は、ふしぎと恐怖を感じなかった。
自分がやってしまったことは本来、万死に値する。すぐに殺されて晒されても、おかしくない。
なのに子嬰は……この寛大な王は、自分にまだ償いの機会を与えてくれるという。その慈悲だけで、十分だった。
石生は、肌に刃が触れるのも構わず深くうなずいた。
「私は、善いことがしたいです!できることならば、これまで視界の外で不幸にしてしまった人々に、一生かけて償います!」
「うむ、その返事ならば安心だ」
子嬰は、にっこり笑って言った。
「今のおまえになら、私亡き後の天下を……世界を任せることができるだろう」
「は……何を?」
意味を図りかねる石生に、子嬰は切ない笑みで告げた。
「私はもう、どのみち長くあるまいよ。
秦そのものを憎み倒そうとする反乱軍が、すぐそこまで迫っている。ここまでなってしまった以上、私の首なしでは収まるまい。
だが、世界に趙高のまいた病毒が残っているかはまだ分からぬ。
おまえはこれから天下を引き継ぐ者と共に歩み、これまで培った知識で世を守るのだ」
そう、子嬰はもう長く世を守り続けることはできない。
他国の民にとって諸悪の根源であった秦の最後の王として、首を差し出し世を去らねばならないのだ。
それを悟ると、石生は己に与えられた思い使命を噛みしめた。
秦は終わる。子嬰の力で世を救うことはできない。あれほど世のため人のために行動した子嬰は、守るべき人々を次代の王に託して逝く。
代わりにこれまで罪を犯し続けてきた自分が、次代の王と共に世界を守るのだ。
それは石生にとって過ぎた処遇であり、必ずやらねばならぬ使命だった。
石生は今この時にしか捧げられぬ忠誠を子嬰に誓い、必ずその任を全うしてみせると誓った。
この先秦が滅んでも、人間の世は変わらず続いていく。それを守りきることが、死にゆく子嬰への何よりの手向けだ。
子嬰と石生は抱きしめ合って泣き、今この時を惜しんだ。
秦の終わりは、刻一刻と近づいていた。




