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秦の悲劇的クライマックス!
ついに、胡亥にこれまでのツケを払う日がやってくる。
史実通りですが、ざまぁ的描写には力を入れているつもりです。他のざまぁ系を読みながら考えております。
次は復讐でざまぁな物語を書こうと思っておりますので……こんなざまぁで及第点ですかね?
その日も、秦の宮中は至って平和だった。
反乱軍が迫っているという話は聞くが、まだ都には及んでいない。趙高が陛下のお心を乱すなと命じているため、表立ってのうわさ話もない。
ここは一見して戦いの影も形もない、胡亥のための楽園だった。
しかしそこの門番に、いきなり怒鳴りつけてくる者があった。
「おい、なぜここから賊が入るのを黙って見ていたのだ!?」
「は……そのような事実はありませんが?」
身に覚えのないことを言われて、門番は目をぱちくりした。だって今日も王宮は平和で、そんなもの見ていない。
しかし、ふっかけてきた軍は待ってくれなかった。
「ええい、怠慢で貴様を処刑する!
それっ行け!」
兵を率いてきた者は、訳が分からない門番を斬り捨ててしまった。そして、仙人ほどの兵が一気に王宮になだれ込んだ。
しかし、ここに賊などいない。
彼らが狙うのはここの主……二世皇帝胡亥その人である。
攻め込んだのは、趙高の私兵だ。国が荒れた責任を全て押し付けて胡亥を殺すため、ついに趙高が兵を差し向けたのだ。
王宮の平和は、反乱軍ではなく側近の謀反によって破られたのであった。
たちまち、宮中は大混乱になった。
王宮は本来、武器を持ち込んではいけない場所である。皇帝に危害を加えられないよう、そこにいる近侍や宦官たちは武器を持つことを許されない。
では、そんな場所に武装した兵がなだれ込んだらどうなるか。
武器を持たない側仕えの者たちが、抵抗できるはずもない。ほとんどの者は逃げ去り、抵抗しようとした者はなす術なく殺された。
守りたくとも、守れないのだ。
そのうえ、守ろうと思う者はほぼいなかった。
国の実権を握っているのが誰なのか、皇帝の側仕えたちもよく知っている。いずれ胡亥が廃されるであろうことは、分かっていた。
それに、胡亥が廃されても仕方ない愚帝であると皆よく知っている。何も考えず楽な方にばかり流れる姿を、目の当たりにしてきたのだから。
もはや、趙高の私兵たちを阻む者はいなかった。
私兵たちが胡亥の居場所を言うように脅すと、戦意のない側仕えたちはあっさりと口を割った。
こうして、趙高の野心の尖兵たちはいとも簡単に胡亥の部屋に押し入った。
その日、胡亥は自室でゆったりとくつろいでいた。
ここしばらく宴会と女遊びで夜更かしばかりしているせいで、午前中はどうも頭がはっきりしない。
とはいえやらなければならない仕事もないので、胡亥は自堕落に何もせず過ごしていた。そして、代わりに仕事をしてくれる趙高に感謝していた。
「ふぁ~あ、幸せ~。
いくら遊んでたって、いくらでも休めるんだから何も問題ないしぃ。
それもこれも、趙高が仕事を全部片づけてくれるおかげだね。これぞ皇帝と臣下のあるべき姿だ、うん!」
胡亥がそう言うと、側に控えている宦官は柔和な笑顔でうなずいた。
それを見て、胡亥はまた満足そうな笑みを浮かべた。
自分がどれだけ遊ぼうが休もうが、誰も何も言わない。これでいいんだ。臣下が皇帝にとやかく言う権利なんてないんだから。
少し前までは李斯たちが人の意見を聞くように口うるさく言ってきたが、あいつらは反逆者だからそうなのだ。
名君と称えられる君主はよく働き人の意見を聞いたそうだが、胡亥はそんな君主のことを哀れだとすら思っていた。
だってそいつらは趙高みたいな、有能な部下を持てなかったんだ。
だからこっちの方がいんだと、負け惜しみで虚勢を張っているだけだ。
いや、楽をしたり勝手をしたりしたい臣下が都合のいい君主像を作り上げて祭り上げているだけかもしれない。
(朕はそんな感じには絶対なりたくないね!
そーいうのよく分かってくれる趙高は、本っ当に偉い!)
胡亥は、趙高に全てを任せていればいつまでもこんな生活が続くと信じて疑わなかった。それができる自分は世界で一番幸せだと、心の底から信じていた。
しかし、その安寧な時間は唐突に破られた。
最初はかすかに、そのうちはっきりと、人の悲鳴や怒号が聞こえてきた。今まで王宮でこんなことはなかったのに。
「ちょっと、うるさいよ!静かにさせて!!」
胡亥が気分を害して叫ぶと、近侍や宦官たちは慌てて部屋から出て行った。しかし、宦官がただ一人残って悲しそうな顔で佇んでいた。
「何、その顔は?
あんまり辛気臭い顔してると、解雇するよ!」
胡亥が言うと、宦官は悲しそうに言った。
「いいえ、もう陛下にそんな時間は残されておりません。
ですが、その方がよろしいでしょう。哀れな陛下……せめて私だけは、最期まで陛下のお供をいたします」
「は……どういう意味……?」
困惑する胡亥の耳に、どかどかと乱暴な足音がたくさん迫ってくる。そしていきなり、部屋の入口から矢が撃ち込まれた。
自分には当たらなかったものの、向けられた明確な殺意に胡亥は縮み上がる。
「ひゃあああ!!何コレぇ!?」
あれよあれといううちに、部屋に武装した兵士たちが数十人もなだれ込んできた。胡亥たちは、あっという間に囲まれてしまう。
「あ、わあああ何で!?朕を誰だと思ってんの!?
皇帝の命令だぞ、早く武器を捨てて平伏しろ!何やってんだよ、早くぅ!!」
なおも状況が分からず駄々っ子のように喚く胡亥に、偉そうな男が尊大に言った。
「我々は趙高様の配下で、本日は趙高様の命によりここに来ました。
陛下、あなたは傲慢なうえ横暴で天下に苛政を敷き、そのうえ意に沿わぬ者を次々と残虐に処刑しました。
その非道な行いに国は荒れ、趙高様も心を痛めておられます。
この度趙高様はついに、天下のため陛下を誅する覚悟をなされました」
趙高の配下はそう言って、胡亥の前に短剣を投げた。
「もう、天下に陛下の味方は誰もおりませぬぞ!
さあ、皇帝なら皇帝らしくご自分で終わらせなされ。それが陛下にできる、唯一のことなのですから!」
兵士たちに向けられた刃が、ぎらりと光る。
この瞬間、胡亥の世界は反転した。
(え……あれ、どうして?何が起こってるの……趙高?)
胡亥は、自分に何が起こっているか分からなかった。
いや、信じたくなかった。
だって、おかしいじゃないか。趙高は誰よりも自分に忠実で、これまであんなにも自分に尽くしてくれたのに。
その趙高がこんなことをする、意味が分からない。
今幾多の刃を突きつけられても、浮かぶのは趙高の柔和かつ頼れる笑顔のみ。こんなことをする気配なんて、どこにもなかったのに。
こんなことが、本当にあっていい訳がない。
胡亥は思わず、誰よりも忠実な男の名を呼んだ。
「そんな、嘘だ……趙高に会わせて!」
唐突に、胡亥の体をふわりと何かが包んだ。一人だけ残っていた宦官が後ろから胡亥を抱きしめ、耳元でささやく。
「ああ、哀れな陛下……ご自分の周りで起こっていることを、何も知らずに……。
趙高が陛下を他の臣から引き離し、楽な方にばかり誘い、そもそも陛下を皇帝に据えたのも、全ては汚名を全て被せて政権を奪うためだというのに。
陛下の見ていらっしゃらないところで、趙高は好き放題に国を私物化していたのに。
本当に、何もご存じなかったのですね」
その言葉に、胡亥は愕然とした。
趙高の忠誠が偽りであることもこうなることも、こいつは知っていたのか。知らなかったのは、自分だけだったというのか。
それに気づくと、ひどく恥ずかしくなり同時に怒りが湧いてきた。
胡亥は優しい宦官の腕を振りほどき、鬼の形相で怒鳴りつける。
「おまえ、知ってたのに……どうしてこんなになるまで教えてくれなかったの!?」
だが、宦官はただ悲しそうに無情な答えを告げた。
「お教えしなかったからこそ、今日まで生きていられたのです。陛下に真相を告げ目を覚まさせようとした者は、皆殺されました。
陛下のお怒りにふれ、陛下の命令によって……」
「えっ!?」
胡亥は、鳩が豆鉄砲をくらったように目を丸くした。
「お分かりになりませんか?陛下はこれまで趙高を信じて疑わず、趙高が悪いと言う者をことごとく処刑してきたではありませんか。
趙高がでっち上げた罪の報告書を、よく調べもせずに信じて刑を下したではありませんか。
丞相の李斯様も馮去疾様も、あんなに陛下を思って訴えていらしたのに無実の罪で獄死させられて……おかわいそうに。
私も真実を告げようとしたら、同じ目に遭っていたでしょう」
それを聞いて、胡亥は天が落ちてきたような心地だった。
そうだ、自分は趙高を悪く言う者をみんな悪い奴だと思って処刑した。だって趙高が悪い訳がないと思っていたから。
だが、本当は違った。逆だった。
本当は趙高がものすごく悪くて、李斯たちの方が本当のことを言っていた。本当に国と胡亥のことを思っていた。
なのに自分は、どっちが本当なのか調べもせずに忠臣を次々と……。
これまでいいと思ってやったことが、一気に裏返っていく。
「あ、そんな……じゃあ、朕は自分で味方を……?」
気づいてあっけに取られる胡亥を、趙高の配下が大声で笑った。
「がーっはっはっは!!本当に本物の阿呆だよ、おまえは!!
もうおまえに味方なんかいやしねえ!みんなおまえが処刑するか、死にたくなくて味方じゃなくなっちまったからよ。
そうそう、ちょっと前に献上された鹿を馬だって本当のことを言った奴らもな、みんな殺されたぜ。その命令書も、おまえが印だけ押したんだろ」
「へっ……あ、あれってそういう……!?」
真実は息つく暇もなく、胡亥に絶望を突きつける。
あの時趙高の行動がおかしいと思ったのに、自分は趙高に言われるまま気にせず過ごしてしまった。
趙高はどんな意味で臣下を試すのか、一言も言わなかったのに。自分と同じように鹿だと言った者の名前も覚えていなくて、処刑命令にその名が連なっていたことも知らなかった。
一体何をやっていたんだ、自分は。
だが、もうどうしようもない。味方は、どこにもいない。
胡亥はいつの間にか、真っ暗な世界で一人ぼっちになっていたのだ。




