(196)
いよいよ滅びが迫る秦と、大きな決断を下した趙高。
全ては、自分が生き残るために。
史実にも記されている「馬鹿」のエピソードが入ります。
文章の表現上、ここまでに馬鹿という表現が出てきていると思いますが、大目に見てくだされ。その時代なかった表現を使うなと言われると私の文章力では支障をきたします。
病毒を仕込んだ部隊を項羽軍に向けて送り出しても、趙高の心は休まらなかった。
これで項羽の方は止まる可能性が高い。しかし、都に迫っている反乱軍はこちらだけではないのだ。
南から回ってくる劉邦の軍が、道の周囲にある城をすさまじい勢いで降して、早くも都への関である武関に迫っていた。
これを迎撃する準備は、整っていない。
この予想外の進撃に、趙高は慌てた。
「り、劉邦……誰ですかそれは!?戦上手とは聞いていません!
それに、あの辺りで激しい戦闘があったなどという報告はなかったのに……本当に皆、戦わずに降伏したというのですか!!
降伏すれば死罪だと、分かっているのに!?」
そう、劉邦は項羽のように戦って圧倒した訳ではなかった。
進撃する土地の長官に、地位をそのまま保証するから降伏しろと促し、ほとんど無血で数多の城を開かせた。
そうやって戦わずに進んできたせいで、兵の損耗も少なく速やかに進めたのである。
これは、趙高が予想だにしなかったことだ。
だって秦は厳しく法を定めて統治しており、反乱軍に降伏などしようものなら死罪になると定められているから。
誰だって死にたくないから、法に従って反乱軍と戦うに違いない……趙高はそう信じていた。
しかし、現実はそうではない。
秦の課す厳罰と重税が、民はもう心の底から嫌になっていた。地方の役人たちもそんな民を厳しく取り締まるのに疲れ、そのうえ趙高が人事を好き勝手するのに戦々恐々としていた。
もう彼らに、秦への忠誠などない。
今までと同じように暮らしていけるなら、むしろ上は秦でなくなった方がいいとさえ思うようになっていたのだ。
趙高は、そんな現実に気づいていなかった。
そして劉邦たちは、そこを突いた。
いくら法を厳しくしても、民がそこから逃げたがって逃げる方法があったら意味がない。秦でない勢力に降ればもう秦の方に縛られなくていいと、人々は気づいてしまった。
都の近くは未だに心も秦であると信じ込んでいた趙高は、それを認められなかったのだ。
そのうえ、降伏してしまった者たちは罰せられたくないのでそれを都に知らせない。おかげで、趙高が知らない間に数十も城が寝返っていた。
士気の高い忠実な秦軍がそこにいれば、抵抗したかもしれないが……それはほとんど項羽の方に回され、おまけに趙高自身が危険視して壊滅させる工作を仕掛けてしまった。
もう踏んだり蹴ったりである。
趙高は項羽の武勇に恐れをなし劉邦など高をくくっていたが、それが間違いだった。
むしろ項羽は敵を皆殺しにすると恐れられるため、本心は秦が嫌になった者でも死にたくなくて必死に抵抗する。
だから項羽はその武名の割に、秦軍が劉邦より遅いのだ。
片や劉邦はその地方の主な城をまず開かせて配下の小城はそこから命令して一気に開かせるため、主な城の説得が終われば一気に進む。
項羽は一つ一つの城がそれぞれ時間稼ぎになるが、劉邦こそ中央から派遣された秦軍がいないと止められない。
そこを読み違えて項羽に注目しているうちに、劉邦は目と鼻の先まで迫っていた。
ここに至って、さすがに趙高も認めざるを得なかった。
このままでは、秦は滅亡すると。
それを悟った趙高は、ついに劉邦に取引を持ち掛けた。不老不死の秘薬と秦の地を半分やるから、力を合わせて秦を守ろうと。
しかし結果は、例の如く拒否。
<いやあ、王になるなんて夢みてえな話だけど、やっぱやめとくわ。
おまえ、有能な人間をことごとく無実の罪着せて殺してきたろ?そんなおまえが正直に約束守るとか、信じられねえや。
丞相様でも勝てなかったおまえの陰謀に、俺が勝てる気しねえし。
それに俺、秦の法律嫌いなんだ。全部覚えられんよあんなの>
そのうえ不老不死については、さらに辛辣な事を言ってきた。
<あと不老不死の薬あるって言うけどさ……なら、何でおまえと陛下は使わないんだ?おまえらがそうなったって話は聞かねえなあ。
ああいうのってただでさえ眉唾モン多いし、もし俺が使うならまずおまえに目の前で使わせてしばらく様子を見るね。
不老不死に憧れて殺されたらアホだろ>
真理である。これには趙高も反論できなかった。
むしろようやくながら、他の反乱軍の将が応じなかった理由が分かった。
思えば趙高だって、不老不死を自分のところに売り込みに来た方士はたくさんいたが手を出さなかったではないか。
怪しいし毒だったら大変だから、これに尽きる。
そうでないならまずおまえが使え、ということだ。
人は根拠がないものを、そう簡単に信じたりしない。
始皇帝だって、普通の方士に対してはそうだった。ただし中途半端ながらそれらしい証拠を見せた徐福には取り込まれ、最終的に趙高によって不老不死に憧れて殺されたアホにされてしまったが……。
趙高自身はかなり信頼できるものを差し出している気でいたが、研究のことを知らない者には普通の方士の売り込みと同じだ。
それに気づいて、趙高は愕然とした。
(そ、そうか……道理で餌に食いつかぬと……!
これでは、反乱軍を引き込むことなどできません。
かと言って、私が開発途中のものを使うなど……私が人食い死体になってしまいます!それでは本末転倒です!!……かといって研究を明かす訳にも……)
喉元まで迫られ、誘惑も通じず、ついに進退窮まった趙高。
もはや取れる手段は、たった一つしかない。
趙高は、静かに呟いた。
「……陛下に、お役に立っていただく時が来たようですねえ」
それは、趙高がずっと前から考えていたこと。
始皇帝が生きていた時から趙高はそれを企んでいて、そのために胡亥を二世皇帝として即位させた。
そう、胡亥は元々利用するための駒だ。
自分が天下の頂点に立つための、ただの踏み台だ。
とてもとても大切な踏み台だから、大事に育てた。自分だけが味方だと刷り込み、甘く甘くして懐かせた。
自分に逆らわないように、楽ばかり与えて何も考えさせなかった。
本当は胡亥のことなんて、妬ましくて憎くて仕方ない。
だから最初から決めていた……いつか必ず、堕としてやると。
今いい思いをさせているのも、自分に依存させるためにすぎない。自分だけを味方だと信じさせて、自分が手を返した時最高に絶望するように。
その手を返す時が、やって来たようだ。
(予定より少々早いですが、仕方ありませんねえ。
ま、こういう緊急避難に使えるだけでも儲けものですか)
わずかに汗で湿った顔で、趙高は独り言ちる。
このままでは秦は滅ぶかもしれない。だが、自分は人々から憎まれている今の体制と心中する気はない。
どうしても保てぬのなら、不要なものを切り捨てても生き延びるまで。
切り捨てるものに汚名を全て被ってもらい、自分はそれを倒した英雄として。
すなわち、暗君となった胡亥を誅し、自分は秦の救世主となる。
趙高は、初めからそうする気で胡亥を立てた。愚かで何も考えない皇帝なら、操って悪政をさせるのも謀反を起こすのも楽だから。
ただし、本当はもっと遅くやるはずだった。
法治をしっかりしていれば、こんなに早く天下が乱れるとは思わなかった。
法治を厳しくしていれば、理論上反乱など起こらないはずだった。もっと税を重くして搾り取っても、体制を保てるはずだった。
そうしてもう搾れないくらい搾りつくして、胡亥を憎んでも何もできない民たちが絶望したところで、やるつもりだった。
そうすれば趙高は全土の救世主となり、搾りつくした富を手中にできるから。
だが、反乱によりその望みは絶たれた。
今胡亥を殺しても、もう全土の救世主になることはできない。
それでも今の秦の最高権力者である胡亥が死ねば、反乱軍や秦を憎む民たちに少しは溜飲を下げさせることができるだろう。
元からの秦の民に感謝させることもできるだろう。
そうして反乱軍の矛を鈍らせ、旧秦の地だけでも守ってやる。
「……所詮、中華全土を覆う帝国など先帝が作ったばかりのもの。
元の戦乱の時代に、一時戻るだけです。
反乱軍共は反秦を掲げていますが、放っておけばまた国同士で争い始めるでしょう。そうなるのを待って、再び統一すればいいだけです。
旧秦を守って不老不死になりさえすれば、時間はいくらでもありますから」
趙高は、己に言い聞かせるように呟いた。
そして、暗い笑顔で静かに言った。
「さあ陛下……私の秦のための生贄になっていただきましょうか」
それから数日後、久しぶりに胡亥が官僚たちの前に出てきて朝議が開かれた。しかし胡亥は最近深酒と夜更かしが多く、眠い目をこすっている。
そこに、一頭の鹿が引かれてきた。
引いてきた官吏は、こう言った。
「陛下に献上する、馬でございます」
それに、宮廷はどよめいた。引かれてきたのは、誰がどう見ても鹿である。なのに、馬とはどういうことか。
胡亥が、笑いながら言った。
「何言ってんの、これは鹿でしょ!」
だが、趙高はこう言った。
「いいえ、これは馬でございます」
それを聞いて、そこにいる官僚たちの反応は分かれた。馬と言う者もいれば鹿という者もおり、何も言わず押し黙っている者もいた。
「あれぇ?どういう事なの……趙高までそんな事言って」
訳が分からない胡亥に、趙高はいつもの柔和な笑顔で答えた。
「何、臣下どもの忠誠を試すちょっとした謎かけでございます。陛下はあまり深くお考えにならずとも、心配いりませぬ」
「ふーん、そうなんだ。趙高がそう言うなら」
すっかり趙高に頼り切っている胡亥は、こんなおかしい事ですら趙高にこう言われるだけで考えるのをやめてしまった。
この後自分に同意して鹿だと言った者がどうなってしまったか、調べることすらしなかった。
こうして、胡亥は目を覚ます最後の機会にすら目をつぶって、永遠に続くかと思える明日をも知れない享楽の日々に戻っていった。




