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章タイトル回収、史実に記録されている話です。
感染者が発生した組織は皆殺し、バイオハザードものではよくある話です。項羽の残虐行為も感染を止めるには有効だった。
次回から、また舞台が都に移ります。
項羽たちは、秦軍の援軍だった者たちを隔離して様子を見ることにした。
本当は項羽としてはすぐに進軍したかったのだが、そうもいかない問題が起きたのだ。それは、病毒の罠とは関係のない話であった。
「何ぃ、食糧が残り少ないだと!?」
「は、元々の我が軍だけならいいのですが……降伏した秦軍を合わせるととても……」
二十万もの降伏を受け入れたため、楚軍はそれを食わせるために食糧が足りなくなってしまったのだ。
秦軍は趙高に見捨てられたために、元々食糧が尽きかけていた。
このままでは、進軍することはできない。楚軍の後方から追加の食糧が届くのを待たなければならない。
さらに、別の問題も発生した。
「我が軍の兵士たちが、降伏兵たちを虐めてこき使っています!」
「何だと……それは、何か問題なのか?
これまで自分たちを苦しめてきた敵なのだから、当然ではないか」
秦の苛政に耐えかねて蜂起した楚軍の兵士たちは、秦の守りとして自分たちを阻んでいた降伏兵たちを憎んでいた。
そして、降伏兵たちに秦への憎しみをぶつけ始めたのだ。
しかし、秦の兵士たちは使い捨てられたくなくて楽になりたくて降伏したのだ。
これでは、思っていたのと違う。何のために降伏したか分からない。
范増が、険しい顔で説明する。
「分からんか?このまま降伏兵が不満を溜め続けれてもし反乱を起こされれば、進軍どころではなくなるわい!
二十万じゃぞ?そんな数に歯向かわれたら、下手をすれば壊滅じゃ!」
それを聞いて、項羽はぎょっとした。
「な、何だと……食べ物も与えてやっているのに、恩知らず共め!
どこまで我が軍に面倒をかければ済むのだ!!」
しかし、范増の指摘は正しい。降伏兵たちは単純に二十万の戦力ではなく、二十万の不穏分子に変わりかねないのだ。
次々と起こる問題に、項羽の額に青筋が立つ。
「ぐぬぬ……こんな事になるとは!
秦軍がいなくなれば進撃できるかと思ったのに……これでは話が違う!!」
とにかく早く進んで秦を自分の手で滅ぼしたい項羽にとって、降伏兵たちの存在は邪魔になってしまっていた。
「ああ、何とかあいつらを除く方法はないものか……」
項羽の恨めしい呟きが、陣の澱んだ空気に溶けていった。
それらの問題は、援軍の隔離にも影響を及ぼしていた。
楚軍のいじめに耐えかねた他の降伏兵たちが、援軍として来た老兵たちを楚軍の前に突き出してしまったのだ。
「お、俺たちは旧秦の人間じゃねえ!おまえらの国を滅ぼして家族を殺しあんな世の中を作ったのは、こいつらだ!
やるなら、こいつらをやってくれ!!」
楚軍の兵士たちも、そう言われて抑えられる訳がない。
そのうえ、相手はこき使うにもよぼよぼで使えない老兵たちである。
たちまち、援軍の老兵たちに暴力が振るわれる。老兵たちはなす術もなく、殴られ蹴られて血を流した。
この状況に、章邯たちと研究員は真っ青になった。
「だめだ、それでは感染が広がってしまう!特に、血を流させては!!」
人食いの病毒は、血や体液が相手の傷口に入ると感染する。流血を伴う暴力はすなわち、重大な感染の危機である。
研究員は隔離を厳格にするよう章邯たちに進言し、章邯たちも配下の兵に命令したが、兵士たちは聞かなかった。
援軍が病気を持っているかもしれないと言われても、降伏兵たちにとっては今そこにある楚軍の暴力の方が恐ろしい。
そうして対応に苦慮している間に、予想はしていたが本当であってほしくはなかった悪い知らせが入る。
「援軍の老兵たちの多くが、体調不良を訴えています!
皆、体が異様に冷たくなってございます!!」
それを聞いて、研究員の目にぶわっと涙があふれた。
やはり、援軍は人食いの病にかかっていたのだ。
研究員は、声を詰まらせながら章邯に進言する。
「これではっきりしました、やはり趙高はあの病毒を使ったのです。援軍はすぐに皆殺しにし、死体を焼いてください。
……しかし、それだけではだめでしょう。
援軍に流血を伴う暴力がなされた以上、他にも感染が広がっている恐れがあります。楚軍と力を合わせて、何とかしなければ……」
「うむ、項羽殿に相談に参ろう」
章邯たちは、憔悴した表情で楚軍の本陣に向かった。
報告を聞いた楚軍の将たちは、皆一様に青ざめていた。皆心のどこかで嘘だろうと思っていたが、不幸にして本当だったのだ。
しかもこのまま感染が広がれば、楚軍が人食い死体の群れになってしまう。
項羽は、これ以上ないくらい苛立っていた。ただでさえ降伏兵のことで問題が続出していたのに、これ以上悪くなるのかとキレる寸前だ。
「亜父よ、本当に人食いの病とやらなのか?偶然風邪が流行っただけでは……」
「儂は人食いの病の実物を見たことはないが、病状が他の病と大きく異なる特異なものじゃということは研究員の話で分かった。
普通、病は……特に流行病は熱が出る方向から始まることがほとんどじゃ。体の末端が冷えることはあっても、初めから全体が冷えるというのはあまり聞かぬ。
だが、今秦の老兵たちは一度に多くがそうなっておる。
研究員の言う通りじゃし、どのみち尋常な病ではあるまいよ」
范増がこう答えると項羽は唸り、眉間のしわを深くして対策を問う。
「……で、どうすれば流行るのを防げるのか?」
研究員が、ここぞとばかりに答える。
「まず、援軍の老兵たちは確実に感染していると見て、皆殺しにして焼き捨てるしかないでしょう。
問題は、その他の感染したかもしれない者です。
元秦軍にも楚軍にも、老兵たちの世話をしたり血を浴びたりした者がいるでしょう。その者たちを十五日は隔離し、症状が出ないか監視してください。
もし症状が出たらその者は殺し、その者と接触した者も隔離し……十日続けて発症者がいなくなれば安全かと……」
次の瞬間、ドシンと大きく重い音が響いた。
項羽が、憤怒の形相で机に拳を叩きつけていた。
「そんなまどろっこしいことをしていられるか!!
そんな事で時間を潰していたら、進軍できぬだろうが!せっかく秦軍を降したのに、いつまでここで足踏みさせる気だ!!」
気の短い項羽は、これ以上進軍を阻まれるのが我慢ならなかった。
それでも、研究員は涙ながらに訴える。
「お願いします!どうか、どうかこの対応をしてください!!
もし広がってしまったら、降伏兵たちはもちろん楚軍まで多数の死者が出ます!それどころか、全土の民が食い散らかされるのです!
多くの命がかかっているのです、どうか……!!」
懇願する研究員のすぐ足下に、金属の杯が叩きつけられた。怒りを抑えきれない項羽が、投げたのだ。
項羽は怒りのあまり、目線すら定まらなくなっていた。
「どいつもこいつも……なぜ勝ったのに進めんのだ!!
あの降伏兵どもが諸悪の根源ではないか!全てあいつらが……あいつらが消えれば……。
誰か、地図を持て!」
不穏なことを呟きながら、項羽は部下に地図を持ってこさせた。
「近くに、出口を塞げば人が這いあがって来られぬような深い谷はあるか?」
「はい、この新安の辺りまで行けば」
それを聞くと、項羽は口だけでニヤリと笑った。その怒りと笑みが混ざった表情は、悪鬼かと思うほどに凶暴だった。
「よし、その谷に降伏兵どもを全員埋めてしまえ!
そうすればもう、何も心配することはない!!」
項羽の出した答えは、至極単純かつ乱暴なものだった。
誰が感染しているか分からず手間取るなら、全員埋めて殺してしまえばいい。
そうすれば、降伏兵たちによる他の問題も解決する。食糧の消費も減るし、死んでしまえば反乱の心配もない。
だが、それでは感染してない大多数も一緒に殺してしまうことになる。
その悪夢のような対処に、研究員は恐ろしくて気が遠くなりそうだった。
「そ、そんな……待ってください、俺は人の命を助けたくて……!」
どうにか助けたいとすがろうとする研究員を、章邯が制した。
「いや、ここは……儂も項羽殿のやり方が一番安全に思う。
人を救おうとするおまえの志は立派だが、救おうとする相手は儂らの命令をしっかり守ってくれぬではないか。
それで結局隔離がうまくいかなかったら、逆効果でしかない。
ここは、楚軍と天下を救うことを考えるべきだ」
この指摘には、研究員も反論できなかった。
末端の兵士たちの多くは、自分の目の前のことしか考えていない。だから病を防ぐためと言われても、陰では平気で決まりを破ってしまう。
病のことを詳しく伝えても信じられないと馬鹿にするか、処分を恐れて感染者が逃げ出すことすら考えられる。
それでは結局、感染を止められず誰も救えない。
確実に食い止めるには、項羽の言う通りにするしかなかった。
数日後の夜、その作戦は決行された。
新安の深い谷のすぐ側に、降伏兵二十万と楚軍の中でも援軍の老兵を虐めていた者が混ざって布陣していた。
夜闇の中、そこに項羽たちが火を放ちながら夜襲をかけたのだ。
降伏兵たちは慌てふためいて逃げ回り、ほとんどが谷に落ちていった。運よく谷と違う方向に逃げても、包囲網で捕まって殺され、谷に放り込まれた。
項羽たちはさらにそこに木を投げ入れ油をかけて燃やし、最後には上から大量に土砂をかけて埋めてしまった。
こうして、降伏兵二十万の犠牲で天下の危機は回避された。
研究員は、無残に焼かれて埋められていく谷を呆然と眺めていた。
「ああ……こんなに、人が……俺たちが、作ったもののせいで……!」
もし自分たちがあんな危険なものを作らなければ、これだけの人が死なずに済んだのかもしれない。
そう思わずに、いられなかった。
そして、今なお都で研究を続けている地下の責任者を思った。
(石生よ、おまえはこんなになってもあの研究が正しいと思うのか!?
俺は今、徐福様が研究をたたもうと言っていた意味が分かった!これからは、心を入れ替えてこの病毒から世を救うために力を尽くす!
頼むから、おまえも早く気づいてくれ……この病が世を滅ぼす前に!!)
研究員は、泣き腫らした目で都の方の空を見つめた。自分は脱出してきた都が今どうなっているのか、ここからでは知れない。
それでも、秦が倒れるのはそう長い先ではあるまい。石生が過ちを知る日もそう遠くないだろうと、研究員は暗い希望を抱いていた。




