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舞台は変わって、反乱軍と戦う秦の前線の話です。
秦軍は反乱軍に押しまくられ、連戦連敗でひどい状況になっていました。大将の章邯はその窮状を都に訴えようとしますが……。
一方、趙高の方は李斯を殺して実験していた作戦が通じず焦っていました。
そこで趙高が頼ろうとしたのが、地下で発生した新たな化け物……タイラント的なものだと考えていただければ結構です。
新たに秦軍の将が二人登場します。
董翳・司馬欣:章邯の補佐で、反乱軍に降伏してからは秦の地方を治める王になった。
趙高が李斯を処刑した頃、秦軍はどうしようもない窮地に立たされていた。
章邯たちは初め反乱軍相手に次々と勝利を手にしたものの、鉅鹿の戦いで項羽に負けてからというもの連戦連敗であった。
都に使者を送って援軍を請うも、そのたびにどんどん敗北を責める言葉がきつくなる。
そのうえ援軍と物資はあからさまに少なく、これでは挽回などしようがない。
都からの返答によれば都を守る兵をこれ以上割けないとのことだが、これは本当だろう。ただし章邯たちが破れて反乱軍が都に迫ってどう対応するつもりなのかは謎だが。
「……このままでは、我々はどうやっても勝てない。
陛下や趙高様は、どうお考えになられているのか」
汚れた幕舎の中、章邯はひどく疲れた顔で呟いた。
実際、彼も他の将兵たちも疲れ切っていた。
反乱を鎮圧せよと命じられて出陣してから、もう一年以上休まず戦い続けてきた。あちこちではびこる敵に向かい、広大な中華をかけずり回った。
勝っても勝っても敵はいなくならず、兵站は常に脅かされ、疲れがたまって負けているのに上はもっと働けと叱責してくるばかり。
もう、どうしたらいいのか章邯自身にも分からない。
そこにさらに、不穏な知らせがもたらされる。
「兵士たちの士気が下がってございます。
このままでは、敵とぶつかっても戦になりませぬ」
章邯の補佐である董翳が、やつれた顔で報告する。
章邯たちが率いている兵の多くは、阿房宮や驪山陵で働かされていた刑徒たちだ。戦で手柄を立てることと引き換えに、囚人から兵士になったのだ。
しかし、今や手柄を立てるどころの話ではない。
倒しても倒しても現れる反乱軍に押し返され、今の戦線を守ることすらおぼつかない有様だ。
最初勝っていた手柄も、これでは敗北の責任に打ち消されてしまう。新たに手柄を立てるには、この連敗を取り戻すくらい勝たねばならない。
連敗で兵も減り援軍も物資も満足に届かない中、どうやって勝てというのか。
戦えば戦うほど負けて罪が増えるばかり、泥沼だ。
「ああ……一体、いつまで戦えばいいんだ……」
「それに、これじゃ戦いが終わってもいい暮らしなんかできねえ。
ここから押し返したって、どうせ俺たち下っ端にゃろくな報酬が出ねえよ。あんなに戦ったのに、最近は責められてばっかりらしいぞ」
「いやそれ以前に……戦いが終わるまで、生きていられるかどうか。
ううっ……今度あの項羽とかいうのが出てきたら……!」
兵士たちは、もうこの戦いに望みを失っていた。
初めこそ手柄を立てて成り上がってやると燃えていたが、このどうしようもない戦況と疲労にすっかり意気消沈している。
さらに、望郷の念が彼らを駆り立てる。
「もう、手柄を立てて爵位をもらっても、故郷は秦じゃないんだよな。
故郷に帰って家族に楽させてやろうと思って戦ってきたのに、こんな俺がもう故郷に帰れるもんかよ……」
「俺だって、前戦った軍勢はうちの故郷の奴らなんだ。
何で同郷の奴と殺し合わなきゃいけねえんだ……クソッ!」
「ああ、いっそ反乱軍に降っちまえば……その方が大手を振って故郷に帰れるかな?」
囚人部隊の多くは、元々秦に滅ぼされ今は独立しつつある他国から集められた者である。そんな者にとって反乱軍との戦いは、同郷の者との戦いになることもあった。
これでは故郷の者にとって、自分たちは憎い敵になってしまうじゃないか。
刑から解放されて故郷に胸を張って帰りたくて戦っていたのに、これでは何のために戦っているか分からない。
そのうえ、物資も満足に届かず食事も不足気味とあっては……。
「何という有様だ……都の上はこのことを知っているのか?」
「何度も使いを出してはいるのですが……」
章邯の問いに、董翳が歯切れ悪く答える。
章邯は、憤慨して言った。
「知っていて放置するとは言語道断だし、知らぬふりをしていてもこのままでは都がどうなるか分かりきっておろうに!
宮廷は一体何をしているんだ!?」
宮廷では今まさに最後の忠臣である李斯が取り除かれ、皆が趙高を恐れて機能不全になっているが、前線にいる彼らはまだ知らない。
このままではどうしようもないと、章邯はついに自ら訴えに行こうとする。
「何としても、この窮状を分かっていただき、援軍と物資を送ってもらわねば。
このうえは、儂自身が宮廷に乗り込んで……」
「お待ちください!!」
しかし、それを補佐の司馬欣が止めた。
「お気持ちも事情も分かりますが、今将軍が軽々しく動くべきではございませぬ。下手をすれば、取り返しがつかぬことになります!
まず、将軍がいないと分かれば反乱軍が大攻勢をかけてくるかもしれませぬ。
それに、都の方も……」
司馬欣はそこで言葉を切り、用心深く声を落としてささやいた。
「今、都では前にもまして功臣が次々と粛清されていると聞きます。もし将軍自ら戻れば、責任を取らせるとかで処刑されるやもしれませぬ。
そんな事になったら、誰が秦を守るのですか!?
将軍は大事な身、ここは私めが代わりに参りましょう!」
司馬欣は最近の相次ぐ粛清を気にかけ、援軍や物資がこないのは自分たちもそうなる兆候ではないかと疑っていた。
章邯はその見方にはっとし、司馬欣の言う通りにした。
「ううむ、それは考えられる話だ。
分かった、ならば儂はここでおまえの帰りを待とう。しかしおまえも無理はするなよ、危ないと思ったらすぐ逃げるのだ」
「は、御意に!」
こうして、前線から都に司馬欣が走った。
秦にとって、そして趙高にとって間違いなく悪い知らせを携えて。それでもこの現状を訴えずにはいられない、使命感と危機感を胸に。
もはや趙高のためだけの魔窟と化した、都咸陽へ。
趙高の方も、反乱軍の侵攻について考えていない訳ではなかった。
李斯や馮去疾を時間をかけて残虐に殺したのは、反乱軍に対して人食いの病毒を使うための試用実験である。
ここで得られた知見を使って、反乱軍の将をいいように操って叩き潰すはずだった。
計算外だったのは、反乱軍の侵攻が予想よりはるかに早かったことだ。烏合の衆と思われていた反乱軍は章邯を打ち負かし、刻々と都に迫ってきている。
もはや、悠長に取引をしている時間はない。
そのうえ、趙高が罠にかけようとして取引を持ち掛けた反乱軍の将たちは、一様にそれを拒んできた。
人食いの病毒も延命薬も、相手が受け取らねば効かない。
この事態に、趙高は慌てた。
「な、なぜ、この私の申し出を誰も受けぬのですか!?
あれほど高い地位を約束し、そのうえ不老不死の秘薬までつけると言っているのに!!
これでは……操れないではありませんか。あれほど手をかけて実験したのに、完璧な作戦だと思ったのに!!」
趙高は、大事なところで思い違いをしていた。
この作戦は、反乱軍の将たちが秦の権威を欲しがり趙高を信用するというのが大前提なのだ。
しかし、現状はそうではない。反乱軍は滅ぼす国の地位や権力など欲しがらないし、趙高のことは全く信用していない。
そもそも趙高は自分が粛清して空位になった高い位で釣ろうとしているが、裏を返せばそんな高位の人間でも趙高は好き勝手に殺してしまうということである。
ちょっと考えれば、そんな地位につきたい訳がない。
反乱軍の将たちはそれをしっかり分かっており、趙高がどんな甘い条件を出そうが応じたらろくなことにならないと、拒否か無視をきめこんでいた。
皮肉にも、反乱軍の将たちの方が欲ばかりですり寄ってくる趙高の手下たちより賢かった。
宮廷にいたまともな者は皆、趙高が邪魔に思って取り除くか、それを恐れて趙高を否定する意見を出せなくなっている。
だから誰も、趙高にそのことを指摘しないのだ。
趙高本人はもちろん、気づく訳がない。趙高は今でも秦こそが世界の中心で、その権威こそ世界一尊いと信じて疑わないから。
それでも、それが通じない現実は容赦なく押し寄せてくる。
このままでは、せっかく見つけた方法で操る間もなく敵は迫ってくる。
「むぐぐっ……まさかこんな事になるとは!
これでは、別の作戦を使わなければなりませんねえ」
趙高は、李斯にやった実験結果の書簡を払い散らして呟く。
通じないと分かったことにいつまでもこだわっていても仕方ない。今はとにかく、敵を食い止める別の手段を考えなければ。
趙高は、散らばる書簡の中から一本を拾い上げてにらみつけた。
「地下で発生した、強力な変異体……あれさえ再現できれば!」
そこには、地下で発生したこれまでにない化け物のことが書かれていた。
曰く、普通の人食い死体よりもずっと素早く力が強い。おまけに知能が残っているのか、道具や武器の使い方を分かっている。
そのくせ、常に破壊することしか考えず暴れるばかり。
そして、そいつから他への感染は起こさない。
それは、これまでの人食い死体よりずっと兵器としての運用がしやすそうな新たな副産物だった。
この報告を聞いた時、趙高は天の助けだと思った。
不老不死の研究の進展以上に、これを作って反乱軍に向けて放てば今のまずい状況を覆してくれるかもしれないと。
だから、李斯のいた監獄を潰すときに追加で実験をしたのだ。
しかし、望むものは手に入らなかった。
地下で発生した個体は、生け捕りにできず殺してしまった。
(ああ、あれさえ再び手に入れば……なぜこうもうまくいかぬのか!!)
趙高にとっては、それがどれだけ元の目的から外れていようが人という生物の在り方を踏みにじっていようが、関係なかった。
趙高の頭の中は、ただ何を使っても天下を己の手に取り戻すことで占められていた。




