(189)
李斯の処刑への道、そしてようやく手が届いた真実。
趙高の、人を完全に思い通りに操る方法とは。
もはや逃れられぬ死を前に、他に考えることがなくなった李斯はようやく始皇帝と自分の共通点に気づきます。
だが、それが救いとは限らない。
それゆえにどんなに苦しくても死ぬわけにいかないと分かってしまった、生き地獄です。
胡亥は、趙高から差し出された調書に目を通していた。胡亥がこんなに真剣に書を読むのは、最近ではほとんどないことである。
それでも自分で目を通したのは、それだけ重大なことだからだ。
しばらく黙って読んでいた胡亥は、安堵の表情で顔を上げた。
「ありがとう趙高、ここまで調べてくれて。
李斯がここまで悪い奴だったなんて、朕だけじゃきっと気づかなかったよ。趙高がいなきゃ、騙されたまま殺されてたかもしれない」
それは、李斯の取り調べの調書だった。
先日、胡亥は直属の官吏を監獄にやって取り調べさせたものだ。
それによると、李斯は罪深いと言うのも生ぬるいほどの反逆と背信を犯していたらしい。そのうえ、責められると卑屈にも獄吏に命乞いまでしていたらしい。
これを読んで、胡亥は趙高に心の底から感謝した。
自分も李斯は怖いし怪しいと思っていたけれど、どうしていいか分からないし本当に悪いか確証を持てなかった。
しかし、趙高はしっかりとその悪を暴き、罪をはっきりさせてくれた。あの絶大な権力を持つ奴に抵抗を許さず、取り除いて胡亥を守ってくれた。
胡亥にとって、趙高はまさしく命の恩人である。
そしてこれほどに有能で忠実な部下を得られたことが、胡亥には誇らしかった。
「……して、李斯はいかがなさいましょう?」
胡亥は、冷え切った目をして答える。
「もちろん、極刑に決まってるよ。
ここまでやったらどうなるか、広く天下に思い知らせて反面教師にしてもらわなくちゃ。一族郎党皆殺し、本人は五刑に処して!」
こうして、李斯の処分は決まった。
胡亥はただ趙高が見せた虚構に非常に満足し、これだけ悪い奴をやっつけたら天下も泰平になるかなと期待していた。
本当に天下を乱し自分を害しているのは誰なのか、気づくことはなかった。
予想通りの答えをもらって宮中から帰ると、趙高はいよいよ実験の総仕上げに取り掛かった。すなわち、李斯の処刑と監獄の処分である。
「……それで、これは一応喜ばしいことではありますが……監獄でまだ収拾のつかない事態は起こっていないのですね?」
「はい、囚人からも獄吏からも人食い死体は出ていますが、獄吏たちは対処するコツを自力で掴んだようでございます。
ただし、既に世話係たちと追加の獄吏たちも大半が感染してございます。
手に負えなくなるのは、時間の問題かと」
それを聞くと、趙高は少し目を細めて呟いた。
「そうですか、自力で対処を……時間をかけすぎて同じことを何度も生き延びた人間が増えると、愚か者でもそれなりに学ぶということですか。
実践ではそうならないよう、一気に広げるよう手を打たねばなりませんね」
正直、監獄は思った以上に事態の進み方が緩やかだ。
趙高としては一度人食い死体に制圧されて皆殺しにしてやり直すことも想定していたが、そうはならなかった。
李斯の処遇を考えるとありがたいが、反乱軍に使っても同じようでは困る。
という知見が得られただけでも実験をした甲斐があったと、趙高は思った。
それに、感染者発症者が続出しているこの状況だからこそできることもある。趙高は実験の終わりに、当初はなかった計画を盛り込んでいた。
「……さて、最後の実験の準備は進んでいますか?
あの化け物を生みだした毒の特定は?」
「は……それが、石生殿が使用目的を訝しみ、話すのを渋っておりまして……」
いいところで、また思い通りにならぬ報告だ。
「なるほど、あの男は馬鹿ではありませんから……さすがに怪しまれましたか。
李斯と同じ手を使えば聞きだせるかもしれませんが……あの手は使い捨ての駒にしか使えません。不老不死ができるまでは、あの男に死なれては困りますし。
外の要らぬ者の有効活用はできますが、価値ある者に使えぬのは難点ですねえ」
趙高はそうぼやいて、ため息をついた。
李斯に対しては、非常にうまくいった。あの頑固な李斯の心を折り、いいように罪を認めさせることができた。
その作戦の正体は、人食いの病と延命薬を使った釣りだ。
人食いの病にかかって死の恐怖に怯える者に延命薬を与えて希望を持たせ、不意にそれを取り上げて言うことを聞けば助けると持ち掛ける。
やられた者はこの場さえ従えば助かると思い込み、心からの服従ではないが一時的にほぼ何でもいう事を聞く。
そしてもちろん、従ってもそう長く生きていることはできない。
偽りの希望にすがって己の大切なものも誇りもその足で踏みにじり、趙高の操り人形となって死んでいく。
たとえ恨みを持っても、それを晴らす機会を待つ時間などない。
どこまでも残酷に、そして安全に操れるのだ。
そうしてすべての希望を失って死ぬ人間への心の痛みなど、趙高にはない。むしろ、自分の思い通りにならなかったのだから、当然の罰だとすら思っている。
趙高にとって、自分のためだけにならぬものは全て壊すべき不用品であった。
「さて、監獄が機能しているうちに使いきってしまいましょうか。
最後の実験を行うために、さっさと李斯を処分してしまいましょう。
あの男も、もう人食い死体になる間近のはず……もしかしたら、処刑で面白いものが見られるかもしれません。
それを見せて、天下の不用品どもが少しでも心を改めてくれるとありがたいのですが」
どこまでも無慈悲に悪辣なことを考えながら、趙高は楽しんでいた小説が終わってしまうような満足感と寂しさに浸っていた。
監獄でもう何もされずに横たわる李斯には、一片の希望もなかった。
もう、自分の潔白を証明することはできない。
胡亥の目を覚まさせ、国を立て直すこともできない。
これからやることは、重罪人として処刑されることだけ。趙高の被せた汚名を背負い、趙高に逆らった見せしめとして死まで利用されるのだ。
こうなってしまったら、もう薬を飲まずに死んでしまった方がいいかもしれない。
しかし、李斯には死ねぬ理由があった。
「お父上、起きていらっしゃいますか……?」
今、李斯は生き残った家族たちと同じ牢に入れられていた。
いよいよ働ける獄吏が少なくなってきたし、もう処分が決まったので監視や世話の手間を少なくするためらしい。
しかし、ここで恐ろしい話が飛び込んできた。
「死んで勝手に楽になろうと思うなよ。
この病で死んだ者を放置すれば、起き上がって生きている人間を食う。つまりおまえがここで死ねば、おまえは家族を食い散らかすことになるのだ!
それが嫌なら、せいぜい処刑の日まで生きるのだな」
それは、監獄で薬を調合している医者から告げられた言葉。
もちろん、にわかには信じられなかった。
しかし李斯には、心当たりがあった。
死んだと思っていたら、夜に起き上がって自分の手に噛みついた馮去疾……思い返してみればその通りではないか。
さらにその馮去疾も、死んだと思っていた娘に噛まれたという。
他にも、死んだと思っていたのに歩いたとか噛みついたとか話している獄吏を何人も見ている。
拷問する側なのに、怪我をしている獄吏がたくさんいる。
(まさか、本当にそんなことが……!)
普段なら、有り得ないと一笑に付す怪談の類。
しかし、李斯も周囲の人間も本当だと認めざるを得ないほどに目の前でしかも何度も繰り返されている。
そのうえ奇妙なことに、李斯はこことは別の場所でそれを目にしたこともあった。
他でもない、始皇帝の死に際だ。始皇帝は死人のような顔色で理性を亡くし宦官を食い散らかし、食われた宦官も同じようになっていた。
一旦気づいてみれば、あの時とそっくりではないか。
おまけに、あの時死ぬ前の始皇帝の様子と、今の自分もまた……。
(体が冷えて血が滞る、食物を体が受け付けなくなる、生きながらにして死人のような肌の色に……あああっまさか!!)
李斯がぎょっとして自分の体を見ると、あの時の始皇帝と全く同じであった。血の気が失せ、どす黒い出血斑が浮かび、ところどころ腐ったようにただれ……。
ついでに、周りにいる家族たちも自分よりは軽いが同じ症状だ。獄吏たちも……。
(何ということだ、まさか呪いがこんな所まで!
……いや、呪い?……だが、これを抑えるのに使う薬は……!)
そこでまた、思い出す。
始皇帝も今の自分と同じように、最期は薬に生かされていたようなものだった。
しかし趙高と徐福曰く、あれは滅多に手に入らぬ仙薬。こんなに大人数に、しかもこれから死ぬ者に使っていい代物ではないはずだ。
だが自分は、同じようなもので延命されている。
だとしたら、あの薬は……。
(あれは仙薬などではない!この病は、呪いなどではない!!
あの時も、趙高がこれを使って何かしていたのだとしたら……!)
李斯は、戦慄した。
この病と薬は、きっとどこか遠くの風土病か何かで、今まで自分たちが知らなかったものだ。それを趙高が徐福から入手し、知られていないのをいいことに呪いと仙薬として使った。
始皇帝の死期を早め、不可解な死に際に自分を巻き込んで操るために、そしらぬ顔で仕組んでいたのだ。
そして自分もつい先日、病と薬に操られて偽りの罪を自白させられてしまった。
この病と薬は、趙高の卑劣な策謀の道具だったのだ。
それに気づいた李斯は、必死で獄吏たちに訴えた。
「おまえたち、死にたくなければ趙高を捕らえるのだ!
この病と薬……趙高が我ら全員を消そうと操っておるのだ!私を殺しても、このままではおまえたちまで死んでしまうぞ!!」
だが、返ってきたのは嫌悪と拒絶だった。
「ハッ、重罪人のいう事なんか信じられるか!」
「呪われてるのは、てめえと一族だろう!?てめえの罪を暴いて処刑すれば天に許されて呪いが解けるから、趙高様はこうしたんだ!
騙されるもんか、道連れにしようったってそうはいかねえぞ!!」
獄吏たちは、既に趙高によりこの病は李斯についている呪いだと信じ込まされていた。
あの時、始皇帝の身に起こったことを呪いだと信じ込まされてしまった自分と同じように。
そんな状況で李斯が何を言っても、獄吏たちには通じない。たとえそれが獄吏たちの命を助けたくて言ったことでも、受け入れない。
「そ、そんな……私には結局、誰も助けられぬのか……!!」
李斯は、牢の格子にすがって慟哭することしかできなかった。
二度の恐怖体験を経て、李斯はようやく真実の一片に手が届いた。始皇帝や自分の身に起こった怪事の、本当のところを知ることができた。
しかし、時は既に遅し。
李斯が掴んだ真実もそれに対する警告も、外の誰かに届くことはなかった。




