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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第三十八章 地獄の監獄
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(187)

 進行する監獄の異変と、李斯に起こった一大事。

 監獄がいよいよ病人の巣窟になってきますが、この武器がすぐ側にあって人を殺すことにあまり抵抗がない社会では、そう簡単にゾンビ大発生は起こりません。


 しかし、それが李斯にとって幸せなこととは限らない。

 可能性が残っているからこそ、はまってしまうこともあるのです。

 それからも、李斯にとって日中の時間はあまり変わらなかった。獄吏たちが入れ替わり立ち代わり、罪を認めろと拷問する。

 しかし深夜になると少年が薬を届けてくれるため、それでどうにか体力も気力もつなぐことができていた。

 少年は薬を届けることしかできないと嘆いているが、これは仕方ないと李斯は思う。

 他でもない自分の取り調べなのだから、趙高がどれだけ厳しい警備を敷いているかは推して知るべしといったところだ。

 むしろ、薬が届いただけで奇蹟だろう。

 だが、おかげでまだ折れずにいられる。

 折れずに待っていれば、もしかしたら死ぬ前に助けの手が届くかもしれない。ほんの少しの可能性をつかみ取れるかもしれない。

 それに、どうも最近獄吏たちの様子がおかしい。

 顔色が悪く、無理をしているような者が増えてきた。もしかしたら、潜り込んだ少年が毒でも盛っているのかもしれない。

 それが自分の希望のように思えて、李斯は久しぶりにかすかな笑みを浮かべた。


 実際、獄吏たちは大半が不調に見舞われ始めていた。

 何をするにも体が重く、これまでのように仕事ができない者が増え、詰め所や寝所で座り込んだり横になったりする者が増えた。

 食欲のない者が増えて、いつも通り飯を作っても余るようになり、日に日にその余る量が増えていく。

 そのくせ体が冷えて暖を求める者が増え、かまどには何の用もないのに火がくべられ周りに顔色の悪い者が集まっている。

 沸かした湯や服は、取り合いだ。

 仕事は囚人が死んで減ったため何とか回しているものの、もう功を立てようと己を奮い立たせようとしても気力が湧かない。

 気がはやっても、体がついてこない。

 ある獄吏など、気合を入れようとがむしゃらに腹から大声を出したら、そのまま胃の中のものまで吐いてしまった。

 ここにきてようやく、獄吏たちも危機感を覚え始めた。

「な、なあ……俺はもう働けない!

 報酬はいいから、外で休ませてくれ!」

「悪い病が流行り出したんだ、こんな所にはいたくねえよ!」

 しかし、獄吏たちもこの監獄から出ることは叶わない。派遣されてきた医者は、冷たくこう言った。

「取り調べが終わり、李斯を処刑するまでは、おまえたちも出ることはできぬ。誰がどこに連絡を取って奴を助けようとするか分からぬゆえな。

 だからここで治療するために、私が来たのではないか。

 それに、悪い病が流行っているならなおさら出せぬ。ただでさえ反乱で国が乱れておるのに、都にこの疫病が広がったら困るだろう!」

 その理由には筋が通っており、さらに獄吏たちの逃亡を許さぬ腕の立つ警備兵もいる。力で押し通ろうとした獄吏は、病死を待たずにこの世を去ることとなった。

 病気の獄吏たちは報酬につられてこんな所で働いたことを後悔したが、もう遅い。

 動けなくなった獄吏は一部屋に集められ、死を待つばかりとなった。そのうち死者も出始め、病を持ち出さぬようにとの判断で焼かれた。

 ……派遣されてきた医者は自尊心ばかりが高いヤブ医者だったが、自分の不手際を隠すためにこういうことは心得ていた。

 おかげで、病が何かは分からぬものの人食い死体の発生は食い止めていた。

 それでも時々囚人の死体置き場や寝床で発生することはあったが、すぐに獄吏や警備兵によって頭を潰され止められた。

 不可解で不気味な事だが、何度も同じことが起こるので獄吏たちは処理するコツを掴んだ。恐ろしいことだが、逃げられないなら自力で対処するしか生きる道はない。

 働ける獄吏が減ってくると、外から追加の獄吏が入ってきた。

 追加の獄吏たちは前の獄吏たちのぶがいなさを笑っていたが、元からいる病んだ獄吏たちは新人たちをかわいそうにと哀れんだ。

 そして、どうか追加の獄吏たちが早く李斯を自白させて終わらせてくれるようにと心の底から祈るのだった。


 確かに、終わりの時は近づいている。

 薬で進行を抑えているとはいえ、李斯の病も日に日に悪化していた。

 ある時、夜に騒ぎがあって(もちろん人食い死体のせい)少年が薬を届けに来られなかった。

 すると、李斯の病は一気に悪化した。体が冷水に沈められたように冷え、わずかな食事も吐き下し、立ち上がることもままならなくなった。

 そのうえ、体中の血が滞ってこわばり、馮去疾にやられた傷口から一気に見てわかるほど壊死が広がった。

 幸い次の夜には薬が届いて少し持ち直したものの、生きた心地がしなかった。

 しかし、諦めるにはまだ早いと思える情報も入ってきた。

 これも例の少年が密かに知らせてくれたことだが、近いうちに皇帝直属の官吏が李斯から事情を聴きに来るらしい。

 それまで生き延びて、そこで潔白を証明できれば……と李斯は思った。

 自分は助からないかもしれないが、国を救う最後の機会だ。

 何としてもその日まで生き、持てる限りの弁舌を尽くして胡亥に目を覚ましてもらわなければ。

 だが、そんな李斯を嘲笑うような事態が起きた。

「へへっ残念だったな、薬はもう届かねえよ!」

 ボロボロになって牢の外に転がされる少年。それを足蹴にし、げらげらと下品に笑う新顔の獄吏たち。

 李斯は瞬時に、何が起こったか理解した。

 そして、底なしの恐怖に襲われた。

 これでは、自分を生かしてくれた薬がもうもらえない。ということは、自分は皇帝の使いに申し開きするまで生きていられないかもしれない。

 それでは、秦の国を救うことはできない。

「あ……ああっ……そんな……!」

 絶望してわなわなと震える李斯の前で、獄吏たちが薬の包みをぴらぴらと見せびらかす。

「どうした、これが欲しいんだろ?

 大人しく罪を認めてくれたら、やらんこともないがなぁ?」

 李斯の心が、みしりと軋んだ。

 決して、罪を認める訳にはいかない。頭では分かっている。しかし薬をもらえず無駄死にしてしまったら、国を救えない。

 何も言えず固まっている李斯に、獄吏たちは意地悪くこう言った。

「認めたくなったら、いつでも言えよ。そうしたら、飲ませてやるから」

 獄吏たちは、勝利を確信したように笑いながら去っていった。


 李斯はそれからしばらく、何もされずに放置された。

 もちろんそれは慈悲などではなく、薬がなければどうなるかを思い知らせるためだ。拷問の苦痛で紛らわすことなく、純粋に病を味わえと。

 結果から言うと、それは非常に効いた。

 殴られる訳でも動かされる訳でもないのに、刻一刻と体調が悪化していく。

 せめて皇帝の使いに話す内容を練ろうと思っても、血が巡らず頭がぼんやりとしてうまく考えられない。

 李斯は、愕然とした。

(こんな状態では、たとえ陛下の使いが来てもまともに釈明できぬ……!)

 それでは、国は救えない。

 おまけに、体から力が抜けると心まで弱気になってくる。このままではどうにもならぬと、暗い未来の予感ばかりが押し寄せてくる。

 始皇帝の遺志を歪め最後まで生き残っておきながら、自分は一体何をしているんだ。趙高にいいようにされ、最期の武器まで奪われて。

 始皇帝が、扶蘇が、蒙兄弟が、馮去疾が、その他趙高に殺された多くの臣が、秦を築いてきた功臣たち全てが自分を責めている気がした。

 おまえが悪い、絶対に許さぬと。

 その責めから逃れる方法はただ一つ……薬をもらって、皇帝の使者に力の限り訴えて胡亥に目を覚ましてもらうこと。

(く、薬がなければならぬ……生きねば……弁舌を振るわねば……!)

 李斯の頭の中を、脅迫のようにそればかりが埋め尽くす。


 そして、李斯は折れた。


「く、薬を……くれ……!

 認めるから……しゃべるから……頼む!」

 李斯は、もうほとんど息漏れ音のような声を振り絞って獄吏に言った。あれほど言うまいと決意していたことを、言ってしまった。

 獄吏の顔が、これ以上ないくらい愉快そうに歪む。

 その瞬間、李斯の中で大切な何かが壊れた。

 あれほど屈しまいと思っていたのに、結局またいいようにされてしまったじゃないか。丞相にまで取り立ててもらった誇りと決意は何だったんだ。

 一度ならず二度までも、おまえは一体何なんだ。

 守れなかった己への嫌悪が、内から李斯を貫く。

 だが、それでも李斯は生きることを諦めなかった。

(たとえ、こやつらの前でいくら屈しようと……陛下の使いの前で本当のことを言う力が残っておればよい!

 もう私にできることは、それしかないのだから!!)

 大手柄だと小躍りする獄吏たちに平伏し、これまでの道を己の手で崩すような嘘の罪を吐いて、李斯は薬を受け取る。

 それが、自分に残された唯一の抗う道だと信じて。

 薬を飲むとたちまち体が楽になり、頭も回るようになる。これならきっと陛下に届く弁舌を振るえるはずだと、強気が戻ってくる。

 このために一時的に屈するのは、無駄ではない。まだ大丈夫だ、自分はきちんと自分の意志を持っている。

 そんな気分すら趙高の手の内であるということに、追い込まれた李斯は気づけなかった。

 とうに失われた誇りの残骸を守るために、認めることができなかった。

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