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李斯が痛めつけられる監獄で、異変は獄吏たちも巻き込んで進行していきます。
しかし、獄吏たちがその危機を察知できるかというと……趙高配下の中でも質の悪い捨て石な時点でお察しください。
そして、異変を感じながらも何もできない李斯の下に、外からの助けを名乗る者が現れます。
地獄に差し伸べられる救い、そして薬……デジャヴを感じませんか?
「趙高様、馮去疾が死にました。
人食い死体になったと思しき挙動を見せましたが、未だ異常とは認識されておらぬ様子」
趙高は、監獄からの報告を聞いていた。
監獄では、一度死んだと思われた者たちが動き出して人を噛む事件が数件起こっている。全て、感染が確認されている馮去疾の一族だ。
それでも獄吏たちが異常と認識しないのは、一つにはこの獄吏たちが素人だからだ。
この監獄にいる獄吏たちは、皆趙高が食客や取り入ろうと近づいてきた者から任命した者たちである。
そのため、どの程度で人は死ぬのか、死んだと思われた者の蘇生はどのくらい起こるのかを知らない。
だから、人食い死体を未だ認識できないのだ。
拷問と人の生死に精通した熟練の獄吏ならとっくに気づいただろうが、とにかく痛めつけて吐かせるしか考えていない未熟者どもは死の確認が不十分だったと責任を押し付け合っている。
その現状に、趙高は呆れてため息をついた。
「ふう……ま、元々捨て石にしか使えぬような者どもですからねえ。
あの程度の者を政治に取り立てる訳にいきませんし」
こうして気づかれぬまま感染が拡大するのも、滑稽で面白いものだ。
しかし、いつまでもこのままという訳にもいくまい。
「で、そろそろ獄吏の中にも発症者が出てくる頃合いでしょう。直近の検査液の色は、どうなっています?」
「は……本日の検査で、獄吏の中に橙色に近づいてきた者がおります」
「すですか、ではもうじきに使えなくなりますね」
趙高は、酷薄そうな笑みを浮かべた。
これまでは拷問で弱り切った囚人しか死んでいないが、そろそろ感染した獄吏たちにも症状が出てくる頃だ。
仲間に異常が発生した時、無知な者たちはどう反応するか……これもこの実験における見どころの一つだ。
「では、追加の獄吏を任命していつでも投入できるようにしておきなさい」
「は、仰せの通りに」
とはいえ拷問を途絶えさせる訳にいかないので、また新たに役に立たなさそうな奴らを獄吏として投入する。
「馮去疾は結局、罪を認めず死にましたか。
まあ、これは自害ということにでもしておきましょう。
しかし李斯も同じでは芸がありません。李斯にはどうにかして、陛下の使いの前で罪を認めてほしいものです」
だが、今の調子では李斯が拷問だけで折れるとは思えない。
それを折る方法を、趙高はもう考えてあった。
「それで……李斯が馮去疾に噛まれたのは確かですね?」
「は、三日以内には検査結果に変化が出るものと思われます」
それを聞くと、趙高はニタァ、と気味の悪い笑みを浮かべた。
「くっくっく、これは朗報!ある意味実験の終わりが見えたということですが、ぜひとも良い結果を出して終わらせたいですねえ。
いえ、必ず出してみせます!出せぬはずがない!
追加の獄吏と共に、あれを投入なさい!」
もうすぐ、李斯が発症する。
そして、李斯が死ぬ時が、実験の終わり。
ただしその死はできれば病による死ではなく、罪を認めさせたうえでの処刑にしてやりたいところだ。
そのために、病を利用するのだ。
李斯の感染と獄吏たちの発症により、実験は次の段階に移る。そしてここからのやり方次第で、李斯に死に方が決まる。
それを決めるのは自分だと確信めいた自信に満ちて、趙高は李斯を折るための非常な一手を下した。
監獄では、相変わらず李斯や一族の拷問が続いていた。
しかしここ数日、その拷問が少し変わってきていると李斯は気づいた。
獄吏たちに、焦りと不調がみられるのだ。以前は笑いながら気合の入った拷問をしてきた獄吏たちから、余裕が消えた。
とにかく早く折れろと、力任せに殴ってくる。そうかと思えば、以前より早く息が切れて体をほぐすような動作をする。
あるいは、重石を李斯の脚に乗せるような、獄吏の負担が少ない方法が多くなる。
そして、短い時間で何回も獄吏が交代する。
これは一体どうしたことかと、李斯は考えていた。
(馮去疾が死んでしまったことで、方針が変わった?いや、それにしてもおかしい。
私に罪を認めさせたいなら、もっと苛烈になるはず。なのに、むしろ獄吏たちが楽をする方向に変わっている。
趙高のことだから、私のことは何としても罪を認めさせよと命じるだろうが……。
これは一体、何の兆候なのだ?)
その獄吏たちも、自分たちに起きている変調に戸惑っていた。
「はぁっ……くそっ……今日こそ奴を、折ってやらねえと、上に行けねえのに……。何なんだ……寒くて、力が出ねえ……!」
獄吏の一部が、同じような不調に見舞われているのだ。
体が妙に冷えて食欲が乏しくなり、疲れやすい。傍目に見てもあからさまに血色が悪く、健常な者が触るとその冷たさに驚くほどだ。
しかし、大部分の者は我慢して隠して仕事を続けている。
他ならぬ趙高から言われているからだ……もし李斯から自白を引き出すことができれば、高い位につけてやると。
そして、ここにいる者たちは皆愚かで欲望に忠実だった。
何としても金星を掴むために、多少無理をしても仕事を続けてしまう。
目の前にぶら下げられた報酬のまばゆさに目がくらみ、自分の体を蝕む病に対し生きるための行動すら見えなくなってしまう。
それに、周りにいる獄吏は皆、自分と功績を取り合う敵なのだ。
他の者の不調を見ては自分はまだやれると思い、健常な同僚を見ては何であいつはと嫉妬に駆られ、協調しようという意志はない。
中には助けを求める者もいるが、それは噛まれたせいで急速に病が進み、臥せって働けなくなった者だ。
「お、お願いだ……医者を呼ぶか、ここから出してくれ!」
「は、残念だったな。機密保持のために、終わるまでは出れねえんだと」
傷口を化膿させ死人のような顔色になった同僚が助けを求めても、働ける者はこれで少しでも分け前が増えるとせせら笑うばかり。
明日は我が身かもしれないのに。
だが、内から要請しなくても救いの手らしきものは現れた。薬箱を携えた一団が、外からやって来たのだ。
「病人が出たと聞き、治療に参った。
外には出してやれんが、少しでも働けるように手当てはしよう」
なんと、趙高が獄吏たちを心配して医師を派遣してくれたというのだ。
医師はすぐに病人たちに薬を作り、さらに一緒に来た世話係たちが温かい食事を作ったり寝床をきれいにしたりしてくれた。
それを見て、獄吏たちは感動して趙高への忠誠を新たにした。
「おお、さすが趙高様……俺らも張り切って奴らを吐かせますぜ!」
彼らは知らない……これが本当の救いの手などではないことを。
密命を帯びてきた医師や世話係たちも知らない……自分たちもここに来た以上、捨て石でしかないということに。
救われる者など、この作られた地獄には存在しないのだ。
それでも李斯は、心の底から救いを渇望していた。なぜなら、誰かが救ってくれないと自分も国も助からないから。
最悪、自分だけならいい。
それだけのことをしてしまったし、国のための生贄にならいくらでもなろう。
しかし、自分がいなければもうこの秦の国を支えられる者がいない。多くの心ある臣が倒れ、馮去疾も死に、自分が最後なのだ。
自分がこのまま何もできず死ねば、始皇帝や多くの功臣たちと共に築いた秦が崩れ去ってしまう。
始皇帝が死んで、まだそれほど時が経っていないのに。
皆で力を合わせて歴史上類を見ない偉業として、築いた国なのに。
それがこのまま滅んでなくなってしまうなど、あの自分のことしか考えない卑しい男の道具になるなど、耐えられない。
だから、たとえほとんど望みがなかろうと、意地になって罪を認めず生きているのだ。
しかし連日の拷問のせいで、さすがの李斯も体の限界を感じ始めていた。
生命力が衰えていくように、体が冷たくなって力が出ない。食わねば生きられないと頭では分かっているのに、食事が喉を通らない。
馮去疾に噛まれた傷は化膿し、臭くて汚い膿を垂らしている。
(普通、傷口が化膿するときは熱を持ち、体も発熱することが多いらしいが……もはや熱を出す力も残っておらぬか。
ああ、もう本当に私は長くない……!)
己の体が刻々と死に落ちていく感覚に、李斯の心は絶望に押し潰されそうだった。
しかし、深夜の暗闇の中、コツコツと李斯の牢を叩く音がする。
「李斯様、どうか希望を捨てないで……」
かすかな声で、自分に呼びかける者がある。
李斯ははっとして、体中の力を総動員して鉄格子の方に這っていった。
そこにいたのは、これまでここで見たことのない少年だった。獄吏たちと違い、李斯を心配するような痛ましい顔をしていた。
少年は、李斯を励ますように耳打ちした。
「李斯様、何とおいたわしいお姿に……。
外で皆様の力をお借りし、ようやく世話係としてここに潜りこめましたが……警備が厳しくて、すぐ助けて差し上げることはできません。
ですが、せめて……このお薬を飲んで元気をつけて待っていてください」
少年はそう言って、一包の薬と水筒を差しだしてきた。
李斯は、喜びに胸が打ち震えた。
(ああ、やはり助けは来た……私のことを思う者が、まだ外で頑張っているのだ!
ならば私も、最期まで全力で抗わねば……!!)
李斯にとってそれは、真っ暗闇に差し込んだたった一筋の希望だった。
李斯は迷わず薬を受け取り、水とともに飲んだ。すると、いくらも経たないうちに体が温まって力が湧いてきた。
少年は李斯の様子を見ると、少し安心したように言った。
「良かった……他の獄吏に見つからないようにしか来られませんが、どうか耐えて下さい」
それだけ言うと、少年は静かに去っていった。
李斯はこの少年に深く感謝し、天はまだ自分を見捨てていなかったと確信し、久しぶりに温かく眠りにつくのだった。




