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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第三十七章 最悪の使用法
186/255

(185)

 ついに李斯の目の前で死んでしまったあの人がゾンビに!

 でも、監獄のいいところは一体ではとても破れない鉄格子で守られているところですね。ただし、それは囚人の話。

 むしろ危ないのは獄吏の方。

 しかし乱暴で単細胞な獄吏だと、逆に勢いでこうなる。


 次の章も引き続きゾンビハザード(ただしまだ感染が広がるフェイズ)!


 異変が起こったのは、その日の夜だった。

 李斯は、自分が馮去疾を死なせてしまったというひどい罪悪感で眠れなかった。どこでどうしていたら罪なき同僚を助けられたのかと、ぐるぐる考えて止まらない。

 しかし、そんな李斯の下を訪れる者がいた。

 わずかな見張りと門番くらいしか起きている者のいない夜更けに、それはやって来た。ぺたぺたとかすかな足音を立てて、李斯のいる牢の外に立つ。

 松明のほのかな光に照らされたその面影に、李斯は驚愕した。

「馮去疾……そなた、生きておったのか!?」

 そこにいたのは、昼間死んだはずの馮去疾だ。

 昼間の格好のまま、何の拘束もなしに佇んでいる。

 おそらくこれは、馮去疾が死体置き場で蘇生し、ここまで誰にも気づかれなかったのだろう。そうでなければ、自由に動けるはずがない。

 だが、これは脱出の好機だと李斯は思った。

 馮去疾は一度呼吸も心臓も完全に止まり、死んだと思われている。死んだ人間は動かないのだから、何の拘束もなくて当然だ。

 ならば、夜闇に紛れて牢の鍵を開けることができるのではないか。

 そう思った李斯は、声を潜めて呼びかけた。

「よく蘇ってくれた、これで我らは助かるかもしれぬ!

 辛いとは思うが、どうかこの牢の鍵を探してきてくれ」

 すると、あさっての方を向いていた馮去疾は李斯の方を向いた。きちんと聞こえてくれたかと、李斯は胸を撫で下ろした。

 しかし、馮去疾はまっすぐ李斯の方に近づいてきた。

「どうした馮去疾、そなたに何か作戦でも……」

 李斯が話しかけている間に、馮去疾は牢の格子に勢いよく体をぶつける。それから、格子の間から手を入れてきた。

 その動きに、李斯は違和感を覚えた。

 格子の間から手を伸ばしても、自分をここから出せる訳ではないのに。それとも、意識がはっきりしていないのだろうか。

「馮去疾、しっかりせよ!今はそなただけが頼りなのだ!」

 李斯は馮去疾の手を握り、声をかける。

 しかし次の瞬間、その手が乱暴に引っ張られたのだ。

「な、何を……ぐうっ!?」

 突然手に鋭い痛みを感じて、李斯は手を引っ込めようとした。馮去疾はなおも強く握ろうとするが、ぬるりとした感触とともに李斯の手が滑って抜けた。

 李斯は、引っ込めた手が出血しているのに気づいた。

 格子の向こうに引き出された時、何かされたのか。

「ふ、馮去疾……どういうつもりだ?」

 李斯は一歩下がりながら問いかけるが、馮去疾は答えない。ただガンッと体を格子にぶつけ、低い唸り声を上げる。

 そしてまた、格子に手を差し込んで李斯の方に伸ばす。

 しかし、李斯は今度はその手を取らなかった。

 むしろ、反射的に後ずさる。

 何かがおかしい……李斯の頭の中で、警鐘が鳴っていた。そのうえなぜか、自分はこんな感じを知っている気がした。

 既視感とともに心の底からあふれる、圧倒的な恐怖。

 本能で分かる……アレはもう、助けを求めるべきものではない。

 馮去疾は、決して自分を助けに来たのではない。なぜかまでは分からないが、自分を傷つけるために来たのだ。

 いや、もうあれが馮去疾なのかも怪しい。人間としての言語も知的な反応も、今のこいつからは抜け落ちている。

 よく知っている人の姿をしているのに、中身だけがすり替わってしまったような……。

 自分は以前にも、あんなものを見た気がする。

 それはいつ、誰だったか……。


 しかし、李斯にそれ以上考える時間は与えられなかった。

 コツコツと、近づいてくる足音と明かり。見張りの獄吏が、巡回してきたのだ。李斯は思わず、そちらに声をかけた。

「おい、こやつの様子がおかしい!

 注意して、武器を使って取り押さえるのだ!」

 李斯自身、どうしてそんな注意を促したのか分からなかった。

 ただ、何も知らない者が不用意に手を出せば大変なことになるような気がした。その感覚を、どこかで味わった覚えがある。

 その声を聞くと、異常を察知した獄吏は足早にかけてきた。

 自分たちしか起きていないはずの夜中に、重要な囚人の牢の前に人がいる……それだけでも十分に異常事態だ。

「そこの者、動くな!顔を見せろ!」

 獄吏の声に反応し、馮去疾がそちらを向く。

 その顔がはっきり見える距離まで来ると、獄吏は息をのんだ。

「なっ馮去疾……死んだんじゃなかったのか!」

 やはり李斯の思った通り、死んだと思われていたらしい。

 獄吏は驚きながらも、馮去疾に向かってさすまたを構える。生きていたなら、殺さずに捕らえるつもりだろう。

「貴様、よくも我らを欺いてくれたな!

 すぐまた牢に叩き込んでやる!」

 獄吏は、じりじりと馮去疾に近づいていく。

 馮去疾はというと、慌てるでもなく逃げるでもなく、逆にこちらも獄吏に近づいていく。両手を伸ばし、不気味な唸り声を上げながら。

 その尋常ならぬ様子に獄吏は少し訝しんだが、すぐに取り押さえにかかった。さすまたで乱暴に足を払い、転ばせる。

 しかし、馮去疾は悲鳴一つ上げなかった。

 ただ顎が床にぶつかるゴチンという音だけが響く。

「ったく、手間かけさせやがって!」

 獄吏はさすまたで馮去疾の体を押さえつけ、腹立ちまぎれに顔を蹴飛ばす。そして、詰め所の方に大声で叫んで応援を呼んだ。

「おーい、重罪人が出歩いてたぞ!

 早く手伝……うぐっがああっ!!」

 言葉の尻が、突如として悲鳴に変わる。

 馮去疾が、目の前にあった獄吏の足に噛みついていた。

「だあっくそっやめろ!放せ、コラッ!」

 獄吏は慌ててさすまたで馮去疾の体を殴るが、馮去疾は頑として放さない。いくら殴られてもひるむことなく、ぎりぎりと歯を食い込ませていく。

 傍から見れば、それは囚人の決死の抵抗。

 しかし、李斯にはそうは思えなかった。

 馮去疾の動きに、人間らしい意志や感覚は見られない。殴られてもほとんど反応しないのを見ると、痛みを感じていないようにすら思える。

 そのうち、詰め所の方から数人の獄吏がかけつけてきた。

「チッ、また生きてやがった!」

「しかもまた噛みつくのかよ。さっさと引きはがせ!」

 数人の獄吏が力を合わせて、馮去疾を噛まれている獄吏から引き離そうとする。しかしいくら引っ張っても、馮去疾は顎の力を緩めない。

「うわっと……関節が外れやがった!」

「こりゃ、もう……こうするしかねえだろ!」

 業を煮やした獄吏の一人が、馮去疾の頭を横から木槌で殴る。初めは少し手加減して、それでも放さないので次第に強く。

 やがてバギョッと音がして、馮去疾の頭が砕けた。同時に噛まれていた獄吏は解放され、尻餅をついた。

「あーあ、どうすんだよ……せっかく生きてたのに殺しちまって!

 これじゃもう誰の功績にもならねえよ」

 見ていた獄吏の一人が、残念そうに言う。まるで、的あてを競うための的が壊れてしまったとでも言うように。

 すると、噛まれていた獄吏が言い返す。

「ああ?こんなことになったのはこいつを死体置き場に放った奴のせいだろうが。

 生きてる奴と死んでる奴の区別くらいきちんとつけろよ。こいつが見つからずに逃げ出してみろ、冗談じゃない」

「違いねえ、とりあえずこいつの担当は減点だな!」

 獄吏たちはそう言うと、動かなくなった馮去疾を引きずって去っていった。

「……にしても、最近多くねえ?死んだと思ってた奴が動くの」

「ああ、特に馮去疾の一族はそうだ。

 仮死状態でこっちの目を欺くために、何か仕掛けてたんかね?」

 獄吏たちは最近の不可解な現象について、愚痴を言いながら去っていく。それでも、これが大きな問題だとは思っていなかった。

 だって、今のところけが人は出ても収拾がつかないことにはなっていない。

 動きだして襲ってくる奴がいても、ちょっと力を入れて頭を殴れば動かなくなる。ここにいる獄吏としても素人の乱暴者たちは、自然とそれができていた。

 しかし馮去疾の自白を引き出すことなく殺してしまったのは惜しかったので、李斯だけは何が何でも自白を引き出して功を上げてやると思いながら、獄吏たちは詰め所に戻っていった。


 その様子を、李斯は一言も発せず震えながら見ていた。

 心の底から手を取り合おうと誓った馮去疾のことを、李斯は助けようと思えなかった。むしろ、今だけは馮去疾を止めてくれた獄吏に感謝してしまった。

 だって、今の馮去疾は……とても自分の味方に思えなかったから。

 その感覚の正体が、しばらくして分かった。

(先ほどの馮去疾の動き……亡くなられた先帝陛下に似ていた!)

 そう、李斯はあんな理性を失った亡者のようなものを見たことがあった。

 己が過ちを犯す前夜、自分たちの目の前でお付きの宦官を貪り食っていた始皇帝……あれにそっくりだった。

 しかも、さっきの獄吏たちの会話……。

(ああなったのは、馮去疾だけではない?

 ……一体、何が起こっているというのだ!?)

 李斯には、経験はあってもこれが何なのかは分からない。ただ不穏な情報の断片が、嫌な予感をまとってぐるぐると渦巻く。

 もちろん、どうしたらいいかなど分かるはずもない。

 それ以前に、獄につながれたこんな状態では何もできない。


 何より、李斯は自分が既に侵されていると気づいていなかった。

 馮去疾の体液と共に李斯の傷口から侵入したそれは、今も増殖しながら表に出る時を待っている。

 果たしてそれが表に出た時、李斯は断片から何かをつかみ取れるのか……。


 暗く閉ざされた監獄の中で、悪夢の感染は止まらない。

 今はただ馮去疾の冥福を祈るしかない李斯も、その李斯をどんな風に痛めつけようかと考える獄吏たちも、全てを嘲笑って死の病は飲み込もうとしていた。

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