(184)
李斯の懺悔、そして馮去疾の最期です。
何も知らず李斯を同志として信頼してくれる馮去疾に、李斯は己の罪を自覚してここに至る経緯を吐き出します。
何事も保身や見栄を捨てて相談するのが大事、ただしもう手遅れだが。
そして次回、またゾンビ警報。
李斯は、満身創痍となっていた。
収監されてから、休まる時などほとんどなかった。自分も家族も拷問につぐ拷問で、身も心もボロボロになっていた。
子の幾人かは、拷問に耐え切れずに死んでいった。
自分ももう、体中痛めつけられてまともに動けない。
それでも李斯が折れずにいるのは、渾身の訴えを込めた上書で事態が動く可能性がわずかながらあると信じているからだ。
(陛下が……陛下に直接訴える機会があるなら、まだ諦める訳にはいかぬ!
いや、陛下でなくても他の心ある臣でもいい!
この私がこんな事になった以上、他の重臣や馮去疾も知ることになるはず。あいつならきっと、助けてくれるはず……)
しかし、その望みは脆くも崩れ去った。
いきなり李斯に向かって、灰がまき散らされる。
「囚人に上書は許されんから、返しに来てやったぜ!」
「そ、そんな……では、助けは……!」
「助け?そりゃ無理だ、こいつもここにいるからよ」
そう言って獄吏は、李斯の牢に一人の人間を放り込んだ。そいつも傷だらけでひどく汚れていたが、李斯はその顔を見るなり目を丸くした。
「ふ、馮去疾殿……そなたもここに!」
「ああ、李斯殿……あなたも捕まっておられたか。
道理で、助けが来ぬ訳だ……」
二人の目の中の光が、急速にしぼんでいった。
お互い、捕まったのは自分だけだと思って外からの助けを当てにしていた。自分が陥れられても、もう一人の丞相がこんなことを許す訳がないと。
だが、趙高はそんな甘い考えが通じる相手ではなかった。
まさか、同時に手を下されていたとは。そしてそれを胡亥に許可させるほど、信じさせて操っていたとは。
愕然とする二人を、獄吏がせせら笑う。
「分かったか?おまえらを救う奴なんて誰もいねえよ。
分かったら、さっさと罪を認めて楽になっちまえ!」
しかしその言葉は逆に、二人の中の最後の反抗心を燃え上がらせた。
たとえ助けが来なくても、最期まで趙高の思い通りにはなるまい。せめて支え合ってない罪だけは認めない、丞相の誇りだけは守ると、二人は手を取り合って固く誓い合った。
とはいえ、二人にできる事はなかった。二人になったといっても、それで獄吏に反撃できる訳でもここから脱出できるわけでもない。
お互いが拷問されるところを見せつけられ、こいつのせいだから早く吐けば楽になるとそそのかされ、身も心もどんどん弱っていく。
そのうえ、家族や従者の一部は心が折れてありもしない罪を吐き始めた。自分が楽になりたい一心で、李斯や馮去疾を口汚く罵りながら鞭を打つ。
拷問のない時も、安らげはしない。
傷の手当など、してくれる者はいない。
馮去疾は心労と傷の悪化で、動けなくなってしまった。排泄物も吐物も掃除してくれる者はなく、馮去疾は便所に放り込まれたようになっていた。
そんな馮去疾の体をかじりに来るねずみを追い払いながら、李斯は思う。
(この便所ねずみのようになりたくなくて、故郷を離れてこんな所まで来て臣の最高位にまでなったのに……。
今、こんなねずみの餌になろうとしているとは!)
汚物の間を走り回るねずみに、李斯は昔を思い出す。
李斯は元々秦の人間ではなく、楚の生まれでありそこで小役人をやっていた。
その時李斯は、人間や犬に怯えながら排泄物をかじる便所のねずみを見た。それから、人が来ても悠々と米を食っている米蔵のねずみも見た。
そして思った……同じねずみなのに、住む場所によってこうも違うのか。
自分は便所のねずみではなく、米蔵のねずみになりたいと。
だから自分の法家の思想で成り上がれる秦に仕え、順風満帆な環境で存分に才を生かしてここまで来たのに……。
今、李斯は便所ねずみ以下の環境に落とされてしまった。便所のようになった牢に入れられ、ねずみのように自由に出て行くこともできない。
(……どうしてこんなになってしまったのだ)
李斯は、悔しくて仕方がなかった。
自分はこんなになるためにここに来て、身を粉にして働いたんじゃない。
「一体、どこで間違えたんだ……!」
そのやりきれない呟きに、馮去疾が反応した。
「今さらだが……やはり胡亥様が跡を継いだのは間違いだったかもしれん。胡亥様は元々王の資質に乏しく、そのうえ趙高と親しかった。
その胡亥様が即位した時点で、今の状況は必然だったのかもしれん。
もっとも、先帝陛下の遺言をないがしろにする訳にはいかぬが。もしかしたら、先帝陛下も既に趙高にたらしこまれていたのかもしれぬな」
その言葉に、李斯の心臓がぎくりと跳ねた。
そうだ、考えてみればそこが元凶だ。
聡明で優しい扶蘇を廃し、愚かで身勝手な胡亥を立てた。
表向きは始皇帝の遺言ということになっているが、そんなことはない。あれは偽造されたもの、始皇帝の遺志は既に冒涜されている。
誰がそれを実行したか……趙高と、李斯だ。
李斯も、道理を歪め元凶を作った一人だった。
そんなことも知らず、馮去疾は李斯にすがって続ける。
「もしそうだとしたら……先帝陛下の生前に我々が諫めていれば、これを防げたであろうか?
先帝陛下も晩年は胡亥様を可愛がっておられたが、せめて憎まれた扶蘇様でなくとも将閭様あたりを太子に推していれば……。
李斯殿、そなたの言葉なら先帝陛下に届いたであろう?
もし我ら二人が己の身を省みず、未来を思い力を合わせていたら……」
その言葉を聞けば聞くほど、李斯はいたたまれなくなる。
趙高の陰謀に加担して権勢を握らせてしまったのも、胡亥を即位させてしまったのも自分なのに、自分は何をしているのか。
決して屈しまいと気取っているくせに、実はあの時真っ先に屈してしまっていた。
そのせいで秦という国の体制も民の生活も多くの心ある臣の人生も滅茶苦茶にして……なのに、なぜ今のうのうと何も知らない被害者に膝を貸しているのか。
李斯は、とうとう耐え切れなくなって話してしまった。
「ううっすまぬ、馮去疾!!
私が……私が悪かったのだ!弱かったのだ!
胡亥様の即位は、あんなものは先帝陛下の遺志でも何でもなかった!それを趙高と、わ、私が……!!」
李斯は、泣きながら己のしたことを告げた。
始皇帝の遺言に後継者についての記述がなく戸惑っていたところに、趙高から胡亥を帝位につけようと持ち掛けられたこと。
初めはもちろん反対した、そんな道理を曲げることはできぬと。
しかし趙高は既に胡亥をその気にさせ、李斯を追い落としてもそうする準備を整えていた。そして、協力しなければ李斯は破滅すると迫ってきた。
自身の地位だけでなく、子々孫々の未来まで天と地ほど変わるであろうと。
そう言われたら、抵抗できなかった。
明るい未来が約束されているはずの子らからそれを奪ってしまうと思うと、正しいことができなかった。
自分が頑張って胡亥を支えればいい、法による統治が定まっているから胡亥でも大丈夫なはずと、自分に言い訳して趙高の手を取った。
この決定に異議を挟みそうな者は平和を乱すと、本当は自分が危ないからと怯えて、有能な蒙兄弟や数多の公子たちの死を見て見ぬふりした。
その罪悪感から逃れるように目の前の問題解決に没頭し……気が付いたら、趙高に自分も陥れられてこの有様だ。
李斯が今味わっている地獄は、己が道を誤った結果以外の何物でもなかった。
「くううっ……やはり、あの時この身を賭しても抵抗すべきだった!
そうすれば、私はたとえ丞相の職を解かれようとここまではならなかっただろうし、何より罪のないそなたらを地獄に引き込まずに済んだ!
信じられぬだろう、私を軽蔑するだろう、私が憎いだろう!?
ああ、それで構わぬ……私は、それだけのことをした!!」
李斯は、馮去疾に膝枕をしたまま慟哭した。馮去疾の頭が乗っている足が震え、涙がぼたぼたとその頬に落ちる。
馮去疾はしばらく呆然としていたが、やがて李斯を見上げて言った。
「ああ、ひどい背信だ……が、面と向かって責められぬ。
私とてそのように迫られたら、転ばぬ自信がない」
馮去疾はそう言って弱弱しく手を持ち上げ、どす黒く腐りかけた傷口を見せた。
「この傷、誰にやられたか分かるか?……娘だ。奴らの拷問で私を敵としか思えなくなった娘が、最期の力で噛みついたのだ。
その瞬間、私は思ってしまった……趙高に尻尾を振って加担していれば、こうはならなかったのかと。
私や他の者も、人として家族を愛する者はそんなものだ」
馮去疾は一度悔しそうに笑って、続けた。
「それに、あなたの判断に至る状況そのものがまず、操られていたのだろう。
あの聡明な先帝陛下が、己の死を前にして遺言を書いたのに後継者のことだけ忘れるなど有り得るか?むしろ、一番に決めておかなくてはならぬであろうに。
これは、趙高があらかじめこっそり破棄したのではないか」
「……た、確かに!!」
馮去疾の指摘に、李斯は仰天した。あの時は考えることが多すぎて気にも留めなかったが、言われてみればその通りだ。
李斯は交渉を仕掛けられた時点で、既に謀略に絡めとられていたのだ。
「おお、そのようなところまで気づいてくれるとは!やはり私は愚かだ、こうなる前に己の身を省みずに相談すれば良かったのだ!
このような所で済まぬが、今からでももっと話し合えば……」
はやる李斯を、しかし馮去疾は静かに制した。
「すまぬが、少し疲れた。続きはまた後にしよう。
少し……眠らせてくれ」
馮去疾はかすかな声でそう言って、すっと目を閉じた。大切なことに気づかせてくれたその口から、黒く臭い血が流れだす。
そして、もう二度と目覚めることはなかった。
もっと話したいという願いすら、手遅れでしかなかったのだ。
李斯は己の判断を魂の底から悔やみながら、馮去疾の亡骸が獄吏に引きずられていくのを見ていることしかできなかった。




