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ついに監獄でもゾンビ警報!ただし現場の人間が気づくとは限らない。
昔の監獄や戦場は理不尽な暴力の巣窟なので、発生したゾンビがこんな風にあっけなく倒されることもあるでしょう。
しかし、それは危機察知の観点からいいのかというと……。
拷問が始まって五日後、馮去疾の娘は瀕死の床にあった。
連日の拷問によるひどい怪我と精神の絶望、そのうえ食事も眠りも満足に与えられない……今まで大事に育てられた娘には耐えられなかった。
娘はどんどん弱っていき、もう食事も喉を通らず起き上がることもできなくなった。
そればかりか、死に落ちていくように体が冷たくなっていく。
ぐったりとして動くこともできず、ただ喘ぐように息をしている。
「こんなに早く、逝ってしまうというのか……。
ああ、どうしてこんな事に!!」
馮去疾と妻は、せめて娘を放すまいと側にいた。娘の体から少しでも体温が逃げるのを防ぐように、血と膿だらけになっても構わずくっついていた。
しかし娘の呼吸はどんどん弱まっていき、ついには息絶えた。
「あああっなぜ、この子に一体何の罪があるというのだ!!」
馮去疾と妻は、娘の遺体にすがって泣いた。
娘も自分たちも悪い事は何もしていないのに、こんなひどい死に方をしておまけに葬式を出すこともできない。
ほんの少し前まで、この娘には光あふれる花園のような未来が約束されていると思ったのに。
こんなことになるなんて、誰も予想だにしなかった。
馮去疾は、己の無策を呪って泣くことしかできなかった。
自分がもっと早く趙高の危険性に気づいて、胡亥に訴えていれば。もっと早く李斯と力を合わせて、力ずくでも趙高を排除していれば。
それができる力があったのに、やらなかった。
地位にあぐらをかき、事態を甘く見ていた。
その結果、目に入れても痛くないほど可愛い娘がこんなことになろうとは。
いや、娘だけではない。他の妻や子供たち、自分に尽くしてくれた従者たちも、いつこんな死に方をするか分からないのだ。
そのうえ、いくら悲嘆にくれていても獄吏はやって来る。
「さあ、今日も楽しい拷問の時間……ん、死んじまったのか?」
娘が動かないのに気づいて、獄吏はつまらなそうな顔をした。
「チッ……やわな奴め、使えねえ。
しょうがねえ、次は息子の方を……」
馮去疾は恐れた通り、娘がいなくなれば次はまた別の誰かが目の前で拷問される。獄吏は、次の獲物を連れてこようとした。
しかしその時、妻が叫んだ。
「ま、待って、娘が……!」
馮去疾がはっと振り向くと、死んだはずの娘が寝返りを打つように動いた。閉じられていた目が、すっと開く。
馮去疾は思わず、娘に駆け寄った。
死んだと思っていたが、蘇生したのか。生きていてくれたのか。
一瞬喜びに胸が一杯になりかけたが、すぐにぞっとするような視線とともに気づいた。こんな所で生きていても、いいことなど何もない。
獄吏がまた、残忍な笑みを浮かべて娘を見ていた。生きていたなら、また馮去疾に苦しむさまを見せつけようというのだ。
「やめてくれ!!」
馮去疾は反射的に、娘をかばった。
こんなに弱っているところにさらに拷問されたら、今度こそ本当に死んでしまう。娘を守るためなら、自分はどんなに痛い目に遭ってもいいと思えた。
しかし、痛みは彼が思うよりはるかに早くやって来た。
「ぐっ……お、おまえ……!」
目を覚ました娘が、いきなり馮去疾の手に噛みついたのだ。この死にかけの体のどこにそんな力が残っていたのかと思うほどの力で。
それを見て、獄吏は面白そうに嘲笑った。
「へへへ、そういうことか……もう娘はてめえが殺したいほど憎いとよ!
当たり前だよな、助けてくれなかったもんな」
実際獄吏の言う通りかもしれないと、馮去疾は思った。娘の中では、いくら苦しんでも助けてくれない自分も敵になってしまったのだろう。
獄吏は、娘の髪を乱暴に掴みあげてささやく。
「どうだ、親父が何をどんな風に悪いことしたか具体的な話をしてくれて、教えてくれたらちょっとは優しくしてやるぞ。
それとも、今度はおまえが親父を痛めつけてみるか?」
娘はうつろな表情で、食いちぎった馮去疾の肉をぐちぐちと噛んでいた。
それをごくりと飲み込むと、白く濁った目で獄吏の方を見つめた。そして、氷のように冷たい手で獄吏の手を取り……。
「ぎゃあっ!!何しやがる!?」
いきなり、獄吏が娘を放り出した。
その手から、血がしたたっている。
娘が、獄吏の手に噛みついたのだ。
「こ、このアマ……よくも!!」
思わぬ攻撃に、獄吏は一瞬で頭に血が上った。一方的に痛めつけるのはこっちなのに、逆に傷つけられたのが我慢ならなかったのだ。
「ふざけんじゃねえぞ、オラァ!!」
獄吏は大きく振り上げた棍棒を、娘に向かって力いっぱい振り下ろした。殺さないための手加減などない、怒りに任せた暴力だ。
その棍棒は娘の頭に当たり、ボグッと鈍い音を立てて陥没させた。
「あ……やっちまった」
娘の体は一度びくりと痙攣し、それきり動かなくなった。
馮去疾と妻は、声を上げて泣いた。生きていたと思っていた娘は、すぐまた二人の前で、今度こそどう見ても死んでしまった。
ただ、死んだ以上はもう苦しむこともない。
もしかしたらその方が幸せなのかもしれないと、馮去疾は思ってしまった。
……よもや、この娘が噛んだ時点ですでに死んでいたなどと……誰も気づく者はいなかった。
「趙高様、人食い死体らしき案件が出ました」
その報告は翌日、趙高に届けられた。監獄内での感染拡大を示す、全員の定期検査結果も添えて。
趙高は、興味深そうに目を細めてそれを眺めた。
「ほう、一体目は異常と認識されずに殺されてしまいましたか。
しかしまあ、監獄も戦場も言うことを聞かぬ者には容易く暴力が振り下ろされますからなあ……このようなこともあるでしょう。
おまけに、誰かに新たに感染させたわけでもなし」
娘が噛んだ馮去疾も獄吏も、その前日の検査で既に感染が判明している。娘を看護したり拷問したりする中で、感染したのだろう。
「なるほど、弱っている者は発症が速いので人食い死体となって異常に気付かれるのも早いかと思いましたが……意外とそうでもないですね。
これなら、相当感染が広がるまで気づかれぬやもしれません」
趙高は、ニンマリと悪どい笑みを浮かべる。
趙高にとって気づかれにくいということは、より多くの反乱軍を感染させられることを意味する。だからこれは、都合が良かった。
結果を分析している食客たちも、それぞれ意見を言う。
「この場合、娘を一旦看護することにすれば、獄吏以外にも感染が広がったかもしれません。戦場では、その流れも期待できるかと」
「獄吏の担当が決まっているのも、感染が広がらぬ一因でございましょう。
この娘を多くの獄吏が拷問していれば、その分感染者も増えたかと。もっとも、馮去疾と妻を直接拷問する者の感染も時間の問題でしょうが」
「戦場では誰が誰を相手にするかなど決まっておりませぬから、乱戦の中で多くの感染者が出ることになりましょう。
もっとも、味方の感染をどうするかという問題もありますが」
ここに、犠牲者を思ったり感染を危険視したりする者はいない。
なぜなら皆が自分を富ませるために他人を踏みつけることしか考えないからだ。道理も慈悲も、ここには存在しない。
誰も人の心を持たない、悪魔の会議室だ。
そこで趙高は、賭け事でもするように言った。
「さて、このままでは馮去疾は何も気づかぬまま死にそうですな。しかしあれは元々何も知らぬので、そんなものでしょう。
もう三日ほどしたら、馮去疾と李斯を同じ牢に入れてみましょうか。
李斯なら何か気づくかもしれませんが、果たして……見ものですなあ!」
趙高たちは、揃って哄笑を上げた。
それから趙高は、さらに残酷なことを思いつく。
「しかし、一応は陛下の使いの前で自白を引き出したいところですが……そうだ、素晴らしい手がありました!
李斯になら、あの手が使えるかもしれません。
薬師に命じて、あれの延命薬を用意させなさい!」
悪魔は、善意で開発されたものすら悪事のために弄ぶ。
趙高は、李斯を徹底的に追い詰める気でいた。いくら今の皇帝の寵愛を受けているとはいえ、他に頼る先を潰す意味でも李斯は必ず真っ黒に思わせて堕とさねば。
それはまた、趙高の焦りの裏返しであった。
こんなに法を厳しく運用し政敵を排除しているのに、情勢はだんだん厳しくなってきている。思いのままにならぬものへのうっぷんを晴らすべく、思いのままになるものを徹底的にいたぶるのだ。
それに、希望もあった。
(これで李斯が思い通りになれば、他の者や反乱軍の将も同じように思い通りに操れるようになる!これさえ成功すれば、もう敵はいない!
ただ、言う事を聞かせても使い捨てになるのが欠点ですが……恨みを持ったまま従う者を始末する手間が省けたと思っておきましょう)
そこに、監獄からの伝令がやって来て一通の書状を差し出す。
「李斯から陛下へ、性懲りもなく上書でございます」
趙高は、中を見ようともせず言った。
「囚人に上書など許されぬ。今ここで焼き捨てなさい」
伝令は素直に従い、李斯の魂を込めたうえ書はめらめらと燃えて灰になっていく。その様子を見て、趙高は酷薄な笑みで呟いた。
「所詮、法の上に立つ者に敵いはせぬのだ。
李斯がこうなる日が、誠に楽しみなことですな!」
無慈悲な業火を終着点と定めて、悪魔の実験は次の段階に進もうとしていた。




