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共通の敵が引っ込むと、趙高はすぐに政敵の排除にかかります。
胡亥を完全に自分の操り人形にし、偽りの檻に閉じ込めて心ある臣下たちと憎み合わせる卑劣な策略です。やり方がエグい、しかし史実である。
反乱を鎮圧できてもいないのに、何をやってるんだか……しかしそれが趙高クオリティ。
反乱軍が函谷関から押し返されると、胡亥はホッと一息ついた。
「あーびっくりした、本当に都まで攻められるかと思っちゃったよ。
でも、きちんと追い返せて良かった。朕は永遠に生きるのに、国がなくなっちゃったら意味がないもの」
そう言えば父の始皇帝も、そう思って北の異民族を征伐させていた。胡(北の異民族)が国を亡ぼすという、予言を信じて。
「はぁ……まだ胡も完全に制圧してないのに、国内からあんなのが湧くなんて。
でも結局、あの予言が正しいならあいつらは国を亡ぼす者じゃなかったってことだ」
胡亥は、冗談交じりにそう言う。
かつて胡が秦を滅ぼすかもしれないと未来を予言した録図書……あれが徐福たちの狂言であると胡亥は知っている。
知っていても、そこだけは信じていた。
法治がしっかりしていれば国は崩れないと李斯は胸を張っているし、もうこの地にあった敵国は全て滅ぼしたのだから。
国内に逆らう者などいていいはずがない。
なのに、一時的とはいえあんなに反乱軍が暴れまわったのはなぜか。
「ねえ、やっぱり……朕はなめられてるの?」
不安を隠しきれない顔で、胡亥は趙高に聞いた。
「思い出すとさ、父上の代にはこんなことはなかった。
下々の奴らは父上が命令を下せば何でも素直に聞いてくれてたし、李斯たちだってしっかり仕事をして国を安定させてたよ。
なのに、朕が即位してからどんどん悪いことが起こって……朕を悪く言ったり口答えしたりする輩が増えて……」
そう言う胡亥は、途方に暮れた子供のようだった。
そんな胡亥に、趙高は悲しそうに答える。
「正直に申し上げて、侮られているのはあると思われます。
先帝は長いこと王として勤め、確かな実績をもって皆を従えていらっしゃいました。しかし陛下はまだ若く経験が浅いので、いいようにできると思う輩もおりましょう」
その答えに、胡亥は泣きそうになって趙高にすがりついた。
「ええーっ!!じゃあ、どうすればいいの!?
経験と実績なんて、いくら急いでもそうすぐできるもんじゃないよぉ!」
焦る胡亥をなだめるように、趙高は優しく言う。
「落ち着かれませ、本来なら皇帝陛下を侮ること自体があってはならないことでございます。これは民も臣下も気が緩んでいるからでしょう。
陛下のせいではございませぬ」
「うんうん、そうだよね~!朕は何も悪い事してないし一生懸命頑張ってるよ!」
もはや趙高にべったりの胡亥に、趙高は一つの策を吹き込む。
「とはいえ、下々のそのような見方と増長は避けねばなりますまい。
まず、大勢の臣下を集めて政策を論じるのをやめましょう。もしそこで陛下に何か誤りがあれば、野心ある者は獣のようにそこに食いつくでしょう。
そのような隙を見せず、格が違うのだと思い知らせるのです。手の届く、意見を差しはさめる存在だと思わせてはなりません。
そのために、姿を見せずお声も聞かせぬようにいたしましょう!」
その提案に、胡亥は目を輝かせた。
「そっかぁ……人前に出なければ隙を見られることはないもんね!さっすが趙高、頭いい~!
でも、それだと朕一人で全部決めなきゃいけないのかな?」
また不安になる胡亥を安心させるように、趙高は柔和な笑みで言う。
「信頼できる者のみを側に置いて、話し合えばようございます。私などでよろしければ、微力ながらお手伝いいたしますぞ」
「やったぁ~!ありがとう!
おまえが一緒にいてくれるなら、何も心配しなくていいや」
「ええ、そうですとも……全て、私にお任せくださいませ」
胡亥はすぐさまその意見を採用し、姿を隠して王宮の奥に閉じこもってしまった。
政治や軍事の大切なことを決めるにも、他の官僚や大臣たちに案だけ出させてほとんど趙高と二人きりで決めるようになってしまった。
確かにこれなら、趙高以外に失敗を見せずに済む。
しかしこれでは、趙高が何か悪いことをしても胡亥が気づかなければ止められる人がいない。
そのうえ判断を下すための情報も、趙高からしか入ってこなくなる。その情報が本当に正しいか、確かめることもできない。
これこそが、趙高の本当の狙いであった。
こうしておけば、胡亥は完全に趙高の操り人形となる。
心ある者が止めようとしても、その意見は胡亥に届かない。直接会って訴えることもできない。
それどころか、趙高が胡亥にあらぬことを吹き込んで罪をでっち上げ放題だ。皇帝の持つ権限の全てを、趙高が握っているようなものだ。
しかも、胡亥が望んでそうしたのだから、この体制を批判すること自体が皇帝の意に逆らうことになってしまう。
もはや趙高の思うまま、やりたい放題だ。
それでも胡亥はそれに気づかず、趙高を信じ頼り切っていた。
皇帝にふさわしい器も才能もなく、それに薄々気づいて自信を無くしかけた胡亥にとって、多くの人の目に晒されるのは恐怖だった。
だから、目の届かぬところに逃げた。
たとえそれが佞臣の作った鳥かごであっても、胡亥にとっては誰からも批判されない安心の方がはるかに大事だった。
これに困ったのは、李斯たち大臣や官僚たちである。
反乱軍はまだいなくなった訳ではないのに、その対策や国を立て直す政策を論じようとしても胡亥と直接話せなくなってしまった。
直接会って話さなければ、危機感が伝わりにくいし細かいところをその場で話し合うこともできない。
書簡に書いて渡すだけでは、胡亥がそれに対しどんな意見を持っているか、それに関してどのくらい知っているかも分からない。
何より、都合の悪い事や耳の痛いことからいくらでも逃げられるではないか。
その証拠に、胡亥の現状を省みないぜいたくはどんどん悪化している。
このままでは、自分が始皇帝と共に築いてきたこの大帝国が本当に崩れてしまう……李斯は焦っていた。
そこに、趙高が訪ねて来て困り果てたように言った。
「いやはや、最近の陛下には困ったものです。
この大反乱の鎮圧でだいぶ財政も厳しいのに、無用の宝物や愛玩動物を集めて大工事を急がせるばかりで……。最近など、皇帝の格式を整えるためとおっしゃって金銀宝石で飾り立てた馬車を千乗も作らせるとか……。
しかし、私が諫めようとしても卑しい身だと聞いてくれないのです!」
そう言って目頭を押さえながら、趙高はすがるように訴える。
「うっ……うっ……このまま国が崩れてしまうのを、私は見るに忍びません!しかし私などの力では、どうしようもないのです!
ですが、臣において最高の身分で実績も豊富なあなたならば、陛下も聞いてくださるでしょう。私めとは、言葉の重みが違いますから。
李斯殿、どうかあなたから陛下をお諫めして、国を救っていただけませんか!?」
そう言われて、李斯はカッと目を見開き胸を張った。
「言われるまでもない、私はずっと前からそうせねばと思っていた!
まして、そんなひどい事になっているとは……よく知らせてくれた!
最近陛下は朝廷にお出ましにならぬので、直接言う機会がなかったが、もうそんな事は言っておれぬ。何とか引きずり出して、灸をすえてやらねば……!!」
李斯の目には、救国の志がメラメラと燃え上がっていた。
すると、趙高は気を利かせたように言った。
「ああ、ありがとうございます!!
それでは私が陛下が暇な時を見つけて、あなたにお知らせしましょう。そうすればきっと、謁見できるでしょう」
「おう、頼んだぞ!
右丞相の馮去疾や他にも重職の者に声をかけておく。皆で力を合わせて陛下の目を覚まさせ、この国を支えようぞ!」
李斯は趙高の申し出に深く感謝し、力強くその手を握った。
よもやそれこそが趙高の巧妙な罠だと、露ほども気づかずに。
趙高が本当に胡亥の目を覚まさせようなどと、思う訳がない。胡亥にはこのまま自分が引き継ぐ財を貯めさせて、汚名をかぶって死んでもらうのだから。
李斯にあんなもっともらしいことを言ったのは、別の目的のためだ。
趙高は李斯をその気にさせると、すぐ行動に移した。
胡亥が宴を開いたり女と戯れていたり楽しい事に熱中している時に、李斯たちに今陛下は暇ですと伝えたのだ。
当然、胡亥は出てこず李斯たちは会えない。
そこで趙高が今陛下は遊びの方が大事だと言っていると平謝りすると、李斯たちは大事なのはこっちだとますます燃え上がる。
一方の胡亥は、楽しい事に水を差されて怒る。
こんなことが何回も繰り返され、ついに胡亥はキレた。
「はあああん!?李斯たちは朕を何だと思ってんの!?
朕が暇な時なんていくらでもあるのに、何でわざわざ朕が楽しんでる時を狙って邪魔しに来るの!!
もう完全に朕のことなめてんじゃん!!一体何がしたいんだよぉ!!」
胡亥の李斯たちへの印象が最悪になったところで、趙高は吹き込む。
「陛下、これは危険でございます!
臣下が君主を振り回すようになって、ろくな事になった例はございませぬ。きっと歴史上語られる悪臣のように、陛下を脅して自分の地位を上げ……王として独立したり国を乗っ取ったりしようとしているのでございましょう」
それを聞くと、胡亥は合点がいったように怒りの息を吐いた。
「へえ、そういうことね……とっくに忠誠なんかないから、あんなことができるんだ」
「そうでしょう、全く嘆かわしいことです。
ともかく、このままでは李斯たちはさらに大それた行動に出るでしょう。特に李斯殿は先帝の死と遺言の本当のところを知っておりますから……最終的には、それを出してくるものと」
途端に、胡亥の顔からすっと表情が消えた。
呆けた顔の仮面のような顔の口だけ動かして、胡亥は呟く。
「分かった……そっちがその気なら、朕にも考えがあるよ。
趙高……李斯たちを反逆罪で捜査して。
朕に盾突いたらどうなるか、思い知らせてあげるよ」
胡亥はついに、李斯たちをも取り除く命令を下した。どれだけ建国に功があろうと、どれだけ国に必要な能力を持っていても、関係ない。
胡亥と李斯たち重臣の仲は、趙高の卑劣な策によってズタズタに裂かれていた。
もう胡亥は、今一番国を支えようと頑張っている李斯たちのことを信じられない。李斯たちがどんなに胡亥を思って諫めようとしても、届かない。
そして国に必要な人材をことごとく切り捨てた末に、自分と国はどうなってしまうのか……偽りの屈辱に支配された胡亥は、何も分かっていなかった。




