(171)
ようやく巡幸が終わって、一行が咸陽に帰ってきました。
同時に、趙高の陰謀も本格的に動き出します。
久しぶりに、留守番組だった官僚が再登場。そして例の実験施設も健在です。
どうにか穏便に始皇帝の葬儀を済ませたものの、李斯たちの胸中は……。
始皇帝の巡幸の行列が、ようやく咸陽に帰ってきた。
多くの民や都にいた文武百官が、出迎えのために沿道を埋め尽くす。
しかし轀輬車が都に入ってきた途端、沿道の人々は思わずひれ伏したまま顔をしかめて鼻を覆った。
「うげっ……何だこの臭い!!」
轀輬車が近づくと、むっとするような生臭さが辺りに広がった。何かが腐っているような、鼻を突く悪臭だ。
しかし皇帝のすぐ近くで騒ぐとそれだけで罪になるので、文句を言う者はいなかった。
その間に、行列は何事もないかのようにしずしずと通り過ぎていく。
行列が行ってしまうと、民たちは何があったのかとざわついた。しかしすぐに行列の末尾にいた兵士が事情を教えてくれた。
「ああ、ありゃ海の魚の塩漬けの臭いさ。
陛下が東の海岸でとても気に入られてな、たくさん持ってきて轀輬車の側に積んである。
臭いはかなり強烈だが、味はやみつきになる旨さらしい!」
そう言われると、民たちは一応納得した。
それに、そんな事よりずっと重大な都を揺るがす発表が都中の話題をさらっていった。
都に帰るとすぐ、李斯と趙高により始皇帝の死が発表された。そして始皇帝の遺言で次の皇帝に指名された胡亥が、盛大な葬儀を執り行った。
文武百官皆参列し、偉大なる皇帝の死に涙した。
始皇帝の墓は当初の予定通り驪山陵となったが、途中から目的を変えたためまだ完成しておらず工事が続けられた。
そして始皇帝の遺体は、宮中の仮の墓に安置された。
「……しかし、旅の途中で陛下が亡くなられるとは災難でしたな」
帰って来てから儀式の連続で疲れ切った李斯と趙高い、都で留守番をしていたもう一人の丞相である馮去疾が声をかける。
李斯は、少しやつれた顔でうなずいた。
「ああ、全くどうなることかと思った。
旅先故すぐおまえに相談することもできぬし、あんな無防備な場所で発表する訳にいかぬし、そうすると巡幸は続けねばならぬし……。
全く気が抜けなかった」
「いやはや、お疲れ様でございました」
李斯の苦労をねぎらうと、馮去疾は尋ねた。
「それで、陛下はどのようにして亡くなられたのです?
何か怪しいことなどは、ございませんでしたか?」
すると、李斯と趙高は複雑な顔を見合わせた。
「怪しいと言えば怪しいか……怪異の方向でな」
「え、怪異……一体何が!?」
思わぬ答えに戸惑う馮去疾に、李斯と趙高は始皇帝の最期を話した。自ら海神の手下退治に赴いたせいで呪われ、体が異常に冷えて死んだと。
それを聞くと、馮去疾は痛ましい顔をした。
「な、何と……ご自分で妖怪を退治しようとして……李斯殿が止めようとしても聞かなかったと。陛下がそのように決められたのでは、我々にはどうにもなりませんな。
天下に敵なし、自分なら何に挑んでもいいとでも思っていたのでしょうか」
「そうかもしれませんね、王位についてからずっと手厚く守られておりましたから。
暗殺者が現れても傷つくことはありませんでしたし、世を甘く見ていらっしゃったのか」
趙高も、悔しそうに俯いて言う。
李斯は始皇帝の仮の墓所に目をやってささやく。
「道中暑かったし長い日数かかったせいで、陛下のご遺体は柩の中ですっかり腐ってしまわれた。おかげで臭いをごまかすために魚の塩漬けを積んで、我々まで臭い中旅をせねばならなかった。
……ところでおぬし、陛下が亡くなられたのはどれほど前だと思う?」
いきなり問われて、馮去疾は目をぱちくりした。
「え……それはどういう?」
「先日、柩の中に怪しいところがないか確認するために陛下のご遺体を見たであろう。ひどく腐っていたが、まだ肉が人の形を保っておったな」
「ええ、そうですね……ですから、二十日ほど……もっと短いでしょうか?」
馮去疾の答えに、李斯と趙高はまたも顔を見合わせた。
そして、言いにくそうに少し口をもごもごした後、告げた。
「もっとずっと前だ。陛下がお亡くなりになったのは、沙丘でのことだ」
「えっ!?」
馮去疾は、目をむいた。
沙丘といえば咸陽からまだ遥か遠く、巡幸の道程で言えば北の地へと大回りする前の地点である。
そこから咸陽に帰って来るまでには、どう考えても一月以上かかる。
しかも季節は夏、暑さで物は腐りやすいはずだ。その気候であれだけの日数放置したら、肉はほとんど溶けてしまうだろう。
だが、柩の中の始皇帝はそうなっていなかった。そのうえ腐肉がたくさんあるのに、ウジが驚くほど少なかった。
「そんな……日数から考えて、おかしい……」
「そうだろう。私も驚いた。
しかしこういう話を聞いたことがあるぞ。呪いや祟りで死んだ者の死体は、魂が落ち着けず腐るのが遅いと」
李斯は、この怪現象も呪いのせいだと信じていた。
何せ、それ以外に説明できる理由がないのだ。そのうえ死に方からしておかしかったし死んでから化け物になったため、それの延長線上と考えるのが一番しっくりくる。
馮去疾も話を聞いて、それを信じた。
「そうですか……それではやはり、陛下は呪われたのですね」
「ああ、だから本来ならばこのような呪いに侵されたものを都に入れたくなかったのだが……陛下のご遺体ゆえそうもいくまい。
しっかりお祓いをして、国そのものに呪いが及ばぬようにせねば」
李斯の言葉に、趙高と馮去疾も心配そうな顔でうなずいた。
これほど人知の及ばぬ恐ろしい事が続いて、皆何となく嫌な予感を覚えていた。もしかしたらこれは、もっと恐ろしいことの前触れではないかと。
そのもっと恐ろしいこととは、秦の滅亡以外にあり得ない。
あれほど長かった乱世を終わらせ人の敵はほとんどいなくなったというのに……神を敵に回せば滅びも有り得るかもしれないと思えてしまう。
だって、あれほどの偉業を為しそのうえ仙人に近づこうと努力していた始皇帝ですら、負けたのだ。
自分たちでどうにかなるものかと、怖くなった。
「……とにかく、我々は全力で胡亥様を支えねば。
泣き陛下の築いたものを崩させぬよう、一丸となってこの危機を乗り切るのだ!」
その恐怖を振り払うように、李斯が言う。
「幸い、陛下と先人たちにより容易に崩れぬ法による統治が確立している。我々はそれを厳格に運用し、浮足立った国を引き締めるのだ。
それから次に帝となる胡亥様はまだ若く経験が乏しいが……趙高よ、任せてよいな?」
李斯に言われて、趙高は力強くうなずいた。
「分かりました、全身全霊で胡亥様を支えましょう!」
「うむ、それぞれできる事に全力を尽くして国を守ろうではないか!」
決意を込めた顔を合わせて、三人は誓った。
たとえ始皇帝がいなくなっても、秦の国は何者にも負けない。自分たちが力を合わせて、この国を守り切ってみせる。
ただし何のために守るかは、一人だけ動機が違う奴がいたが……李斯も馮去疾もこの危機を乗り切ることで頭が一杯で気づかなかった。
王宮での仕事が一段落すると、趙高は驪山陵に向かった。工事を急ぐ人々の間を抜け、一人地下へと降りていく。
日の光が届かなくなり闇が濃くなるにつれ、趙高の笑顔が歪んでいく。
さっきまでの優し気で柔和な笑顔が、人を弄びその魂を食らいつくさんとするような悪鬼の笑みに変貌していく。
(くくくっ……皆きれいに騙されてくれましたねえ!)
趙高は、さっき国を守ろうと誓い合った者たちを嘲笑う。
(訳の分からぬことが次々に起こったらあんなに怯えて、呪いだと信じ込んで……。
ああ面白い、本当は怪異でも何でもないのに!)
そう、全てを仕掛けた趙高は全てを知っている。
始皇帝の病は自分が発生するよう仕向けた人食いの病。他人には不可解な症状も死後化け物になったのも、自分にはもはやおなじみの現象。
死体が腐るのが遅いのもウジがあまり湧かないのも、尸解の血や人食いの病毒がもたらす作用と分かっている。
しかし、知らない者には何が何だか分からない。
だから説明のつく話をしてやれば、真偽も分からず飛びついてしまう。
(ふふふ、人を騙すなど容易い。
国の頂点に立ち自分たちは賢いと思っている者共も、あの有様よ。ましてや世間知らずの胡亥様など、赤子の手をひねるようなもの!)
いつもあんなに尽くしている胡亥への忠誠心など、趙高にはみじんもなかった。
ともに国を支える李斯や馮去疾との仲間意識も、欠片もなかった。
趙高が大事にしているのは、ただ己のみ。
趙高が守りたいのは、己のものになる国。
周りにいる同僚たちもそして仕えている胡亥でさえも、そのために利用し蹴落とすだけの獲物にすぎない。
(さあて、これから皆私のために尽くしてもらいましょうか!)
もはや見知った人が見ても別人かと疑うような邪悪極まりない笑みを浮かべて、趙高は重い鉄の扉に手をかける。
何も怪しいところはないこちら側と、死と腐臭に満ちたあちら側を隔てる扉に。
今、あちら側の存在を知っているのは趙高と胡亥のみ。
そしてあちら側では、始皇帝が死のうとも研究が続けられている。
死を超越して永遠の命を手にし……永遠に天下の頂点に立つ者に捧げられるべき、崇高な研究が。
趙高は扉を開き、あふれ出す腐臭を浴びながら心の中で叫んだ。
(さあ、この私に不老不死を捧げるのです!
全ての邪魔者を消して永遠に皇帝として君臨する、この私に!!)
このとんでもない野心の咆哮は、他の誰にも届かない。
壮麗な驪山陵に隠されたこの狂気の実験施設のように、趙高の野心は未だ柔和な仮面の下にきれいに隠されていた。




