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屍記~不死の災厄の作り方  作者: 青蓮
第三十四章 二世皇帝
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(169)

 胡亥を悪の仲間に引き入れた趙高は、次に李斯の説得に赴きます。


 李斯は、始皇帝の死にざまを見て自らの破滅に怯えていました。

 そんな李斯に、趙高はどんな言葉をかけるのでしょうか。

 この辺りは、ほぼ史実通りです。

 李斯は始皇帝の死にざまを見て、悶々としていた。

(陛下……あれほどの威容を誇ったあの方が、あのような死にざまで……)

 李斯の脳裏には、生ける屍となり部下を食らう始皇帝の姿がこびりついていた。豪華な皇帝の衣冠をまといながら、理性も品性も失った姿が。

 天下の頂点に立ちながらあんなひどい死にざまになるとは、想像もつかなかった。

 しかし一方で、どこか納得できる自分もいた。

(いや、あれほどの威容を誇ったからこそ、か……?)

 李斯はかつて、学問の師に教えられたことがあった。

 人間は栄えることに憧れ、盛んになろうとする。しかし盛んになりすぎると滅んでしまうので、何事もほどほどがいいと。

 そうやって考えると、始皇帝のひどい死にざまは栄華の代償のような気がした。

 天下の全てを手に入れ、天下の全てを己の思うままに動かして、過去に例を見ないほどの栄華を手にしたからこそ。

 だからその反動で、過去に類を見ないようなひどい死に方をしたのではないか。

 李斯はずっと自分を認め引き立ててくれた始皇帝を全て正しいと信じ、全力でその希望に沿うようにしてきた。

 しかし今さらになって、もう少し自重させた方が良かったのかもしれないと思った。

 ここまで天下の恨みを買ってまで好き勝手させなければ、もっとまともな死に方ができたのではないか。

 そして、その始皇帝にここまで引き立てられた自分も……。

(私は、大丈夫であろうか?)

 はたと、気づいた。

 始皇帝なき今、天下の頂点に一時的にだがいるのは自分と他数名。

 秦のために懸命に働いて始皇帝に尽くしていたら、いつの間にかこんな所まで来てしまった。

(果たしてここは、私に相応なのか?)

 李斯は元々秦の生まれですらなく、楚の田舎で小役人をやっていた。だというのに、今や臣の中で最も高い位につき、富貴も極まった。

 息子たちは始皇帝の娘を娶り、娘たちは始皇帝の息子に嫁ぎ、その婚礼となれば館の門前がお祝いの馬車で埋まるくらいだ。

 いつの間にか、それが当たり前になっていた。

 行動するときの供もどんどん増え、いつか始皇帝が嫌な顔をしていると言われるまで、やりすぎに気づかなかった。

 思い当たることが多すぎて、寒気がした。

 自分は今、明らかに栄えすぎている。

 このままでは自分も、転落してひどい死に方をするのではないか。

(いかん、このような時こそ用心しなければ!

 だが私はまだ何も悪いことをしていない、これからも正しい行いをしていれば……!)

 嫌な予感を覚えた李斯は、これからもう少し自重して生きようと決意した。そうすればきっと、破滅することはないと信じて。

 しかし、そうする自由はもはや李斯の手になかった。

 己のために他人をも悪の道に引きずり込む趙高の魔手が、今まさに李斯に迫っていた。


「李斯殿、今後のこと、少しよろしいでしょうか」

 趙高が訪ねてくること自体は、別に怪しいとも何とも思わなかった。

 そして趙高に言われるままに、自分たちの話を聞かれないように人払いした。もともと自分たちの話すことは国家機密だし、始皇帝の死を他に知られる訳にいかないので、当たり前の対応だ。

 李斯の馬車に乗り込むと、趙高は言った。

「やれやれ、このような所で陛下が亡くなるとは大事でしたな。

 して、これからどのようにいたしましょうか?」

 李斯は正しい事をしようと考え、こう答えた。

「まず我らが巡幸から帰るのに合わせ、扶蘇様を呼び戻す。いや、もう巡幸中にお迎えして一緒に都に帰っても構わぬ。

 そして都に帰ったら陛下の死を発表し、扶蘇様を喪主として葬儀を行う。

 後は扶蘇様を皇帝とし、我らはそれに従うまで!」

 臣下としてまっとうな、正しいやり方である。

 始皇帝の指名がないのであれば、次の帝位は長幼の順により扶蘇がつくことになる。長子があまりに愚か者だとまずいが、幸い扶蘇は優秀だ。

 しかし趙高は意味深に笑って、こう言った。

「またまたありきたりなことを!

 今、天下の行く末は私とあなた、それに胡亥様が握っているのですぞ。我々のやり方次第でどうにでもなるのに、何ともったいないことを」

 その言葉に、李斯はぎくりとした。

「な、何が言いたい……?」

「簡単なことです、私とあなたで胡亥様を立てればいいのです。

 そうすれば、あなたの子々孫々に至るまで栄華が約束されましょう!」

 趙高ははっきりと、言った。

 正しく考えて第一に継承権を持つ扶蘇を廃し、自分たちの勝手で胡亥を立てようと。世の正しいやり方を、私情で捻じ曲げよと。

 それが本来許されぬやり方であると、李斯には瞬時に分かった。

「貴様、言っていいことと悪いことがあるぞ!

 陛下がお亡くなりになられて、この国は我らの選択次第で潰れかねない危機にある。ここは堅実なやり方で国を安定させるのが、我ら臣の務めではないのか!」

 李斯は、すぐさま拒んだ。

 そんなことをしていいはずがない。できるとはいえ、こんな悪に手を染めてはいけない。

 こんなことをしたら、後々自分はどんな死に方をするか……考えるだけで恐ろしい。

 しかし趙高は、険しい顔で諭すように言った。

「あなたには、お分かりにならぬのですか……その正しいやり方が、ご自分の首を絞めることが。

 扶蘇様は、あなたより蒙恬を重用しておいでです。あなたのことは、陛下の言うことばかり聞いて自分を遠ざけたと恨んでいらっしゃる。

 その扶蘇様を帝位につければ、あなたが丞相の職を解かれるのは明らか。

 そして古来より、政変により力を失った元重職の者は、その財力や残った影響力を恐れられて殺されてしまうものです」

 それを聞いて、李斯の額にたらりと汗が流れた。

 趙高の言うことは、正論だ。

 以前扶蘇が民を休ませるため大工事を減らそうと訴えた時、李斯は始皇帝に逆らうなどとんでもないと取り合わなかった。

 その時扶蘇の側にいたのは、蒙恬と蒙毅。

 扶蘇が皇帝になればその二人のどちらかが丞相となり、李斯は自分のやり方に合わないと排除される可能性が高い。

 そして、蹴落とされた高位の者が殺されるのもよくあることだ。今だ財力と影響力を持つ者を不満を抱かせて生かしておけば、乱の元だからだ。

 始皇帝もその考えで、秦を強大にした功臣の呂不韋を殺してしまった。

 李斯が同じ目に遭う可能性は、十分ある。

 そうなれば李斯だけでなく、今幸せを謳歌している息子や娘たちも含め、最悪一族全てが根絶やしに……。

(そんな事になってたまるか!!

 私は、そんな結果のために身を粉にして働いたのではない!!)

 李斯は思わず、心の中で叫んだ。

 李斯はさっき正しい事をしようと思ったが、それは自分が不幸にならないためだ。結局、可愛いのは自分なのだ。

 だから正しいやり方で自分の身が危うくなると分かれば、その決意も揺らぐ。

 迷う李斯を、趙高はさらにそそのかす。

「公子様方だって同じこと、皇帝になれなければ皆宮中から追い出されるか消されるか……胡亥様もそれを危惧していらっしゃいました。

 だから皇帝の印を押さえている私に、共に栄華を楽しもうとおっしゃってくれたのです。

 李斯殿もここで協力してくだされば、胡亥様の覚えもめでたく、それこそ子々孫々まで世の春が続くことになりましょう」

「こ、胡亥様が……しかし……!」

 それでもなお、李斯は迷っていた。

 なぜなら李斯は知っているからだ……私欲のために邪なやり方をしたために、悲惨な末路を辿った多くの例を。

「しかし、あるべきやり方を歪めた者は報いを受けて滅んでしまうことが多い。それどころか、国そのものが崩れてしまうこともある。

 私は、陛下と共に築いてきたこの国に恩を仇で返すような真似をしたくない。

 どちらにせよ滅ぶなら、私は忠義を全うする道を選び……」

「あなたは滅びませんよ、私と胡亥様と共に歩まれるなら。

 だいたい正しいやり方など所詮人が決めたもの。儒者共が滅んだ例を殊更に論っているだけで、主を殺そうが親兄弟を殺そうが滅んでいない者などいくらでもいます。

 それに、賢者は小さなことに囚われぬと申します。あなたも古い常識などに囚われず、もっと大きな目で物を考えていただきたい」

 そこまで言われても、李斯はうなずけなかった。

 心の底からあふれる嫌な予感が、体を石のように固くする。

 自分はこんなに出世し、これ以上ないほど栄華を手にして、それでもまだどん欲に幸せに手を伸ばせというのか。

 そんな浅ましい事をして、どうなってしまうのか……。

 しかしここまでの説得が通じぬと分かると、趙高はにわかに怖い顔をして言った。

「力を貸していただけぬならば、あなたも排除させていただくことになるが……それでもよろしいか?」

「!?」

「たとえ少し違うやり方をしても、上と下が力を合わせれば失敗はありません。そもそも疑惑すら起こらないでしょう。

 しかし、あなたがその疑惑の元になるなら、胡亥様はあなたをお許しになられまい。

 約束された栄光と今そこにある災い、あなたはどちらをお取りになりますか?」

 趙高はさらに、轀輬車の方をチラリと見てささやく。

「今、陛下の死の真相を知っているのはあの場にいた我々のみ。

 つまり、我々の手でいくらでも筋書きを変えることができるのです。あなた一人に罪を着せて、一族全て誅殺することも……。

 今ならまだ、陛下のご遺体は明らかに他殺と分かりますね?

 私と胡亥様が揃って証言し、皇帝の印でもって命じたら……」

 あまりに露骨な脅しに、李斯は震えあがった。

 そう、始皇帝の死を隠し知る者を限るとは、そういうことなのだ。知る者の過半数が望めば、容易く書き換えられてしまう。

 そのうえ皇帝の印は、趙高の手にある。始皇帝の死を隠す限り、その印は始皇帝の命令の証となり逆らえない。

 逃げ道をなくした李斯の脳裏に、子や孫たちの顔が浮かんだ。

 李斯は、石のように固くなった首を力いっぱい縦に振った。

「分かりました……胡亥様の仰せのままに!」

「ほっほっほ、それでいいのです!共に世を楽しみましょうぞ」

 趙高はそれを見て、勝ち誇った笑みで去っていった。

 その姿を見送りながら、李斯はがくりと崩れ落ちた。天地が分からなくなったように足下が揺れ、背を伸ばしていることもできなかった。

(ああっ……私は一体何ということを!!これから、私はどうなってしまうのだ!?)

 趙高に手を貸して、すぐそこの破滅からは逃れた。

 しかし李斯の内に渦巻く嫌な予感はさっきよりずっと濃さを増し、消えることがなかった。

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