(167)
始皇帝がゾンビ化して葬られましたが、趙高と胡亥にとって本番はこれからです。
死体が動いたなどということを、李斯は簡単に認めません。
趙高はどのように、李斯を言いくるめて命をつなぐのでしょうか。
またもやゾンビ警報。
どれほどの間、動かずに茫然としていただろうか。だいぶ長かったかもしれないし、ほんの少しの間かもしれない。
「大丈夫でございますか、胡亥様」
趙高の優しい手が、そっと胡亥の肩に触れた。
「あ、ち、趙高……父上は……?」
ようやく我に返った胡亥は、趙高の肩ごしに父を見た。
父はさっき食っていた宦官に重なるようにして、倒れ伏していた。両眼から火箸が突き出し、だらりとして動かない。
「終わった……の?」
「ええ、もう動かないでしょう。
しかし、早くこの場を処理しませんと。他の者に気取られる前に……」
だが、そう言って動こうとした趙高の手を、李斯が掴んだ。
「き、貴様……よくも陛下を!!」
叫ぼうとした李斯の口を、趙高が塞ぐ。
「静かに!!このような時に騒いで人を呼べば、何かあったと声高に知らせるようなものですぞ!
そうなれば、あなたも疑われるのが分からぬのですか!?」
趙高がそう言ってやると、李斯は必死で息を整えようとし始めた。
始皇帝の死を前にして気が動転しているが、人に知られたらまずいということは認識できているらしい。
それはそうだ、始皇帝の死体は普通の状態ではない。
全身血まみれで、おまけに両眼に火箸が刺さっている。どこからどう見ても、明らかに他殺と分かる。
そして、周りに転がる二人の宦官の死体。
最悪、この場で生き残っている全員が反逆を疑われて処刑されてもおかしくないほど怪しい事態だ。
うかつに人を呼ばない方がいいのは、誰にでも分かる。
趙高は、李斯の肩を掴んで呼びかける。
「李斯殿、気をしっかり持たれよ!
ここで対処を誤れば、我ら全員の首が飛びますぞ。あなたは何も悪くないのに、無駄に命を散らすことはありませぬ」
趙高の気遣うような言い方に、しかし李斯は睨み返して言い放つ。
「へ、陛下を殺した貴様の情けなど要らぬ!
わが命に代えても、貴様を突き出して……」
「陛下がどうなっていたか、ご覧になったでしょう!
あのまま誰も止めなければ、国を支える者がどれだけ食い殺されたか分かりませぬ。そうして国が崩れるのを、陛下が望まれると!?」
そう言われると、李斯は非常に苦々しい顔をして押し黙った。
さっき始皇帝は確かに手当てをしようとした宦官を食い殺したのだ。その口で噛みつき、肉をちぎって食べていた。
どう考えても、まともな行動ではない。しかも、人前で堂々とやっていた。
李斯や趙高が呼びかけても、言葉での応答はなかった。
どういう訳かは分からないが、始皇帝が正気を失っていたのは確かである。
そして、始皇帝がどんな状態であろうと、秦の兵や官吏たちは手荒なことができないよう法で縛られている。
手荒にしないで対処しようとすれば始皇帝から一方的に噛みつかれ、最悪趙高の言う通り国が崩れるまで食い散らかされかねない。
趙高は始皇帝に手を下したとはいえ、国を守ったのだ。
正気の始皇帝がどちらを望むかは、明らかだ。
「なるほど……ならば趙高殿だけを罰するとして……」
それでも趙高を罰しようとする李斯に、胡亥が言い放つ。
「何言ってんのおまえ!?趙高が父上を止めなかったら、おまえも食い殺されてたくせに!
今のは、誰も罰する必要なんてない。ここにいる誰も、悪くなんてない。父上を殺した犯人なんて、ここにはいないんだから。
だって父上は、もう死んでたんだから!!」
しかし、李斯は取り合おうとしない。
「またそのような戯言を!
現実から目を背けるのもいい加減に……」
そんな李斯をなだめるように、趙高が提案する。
「まあまあ、そんな事より医者を呼んで見せてみようではありませんか。
そうすれば、陛下の身に何が起こったか分かるかもしれませぬ」
その意見には、李斯は反対しなかった。
李斯とて、始皇帝がどうなってしまったのか知りたい気持ちはある。専門家に見せてそれが分かるなら、それが一番の証拠だ。
するに、いつも始皇帝を診察している典医が呼ばれた。
「どうだ、陛下はどれくらい前に死んだか分かるか?」
典医は目の前の惨状に胆を潰したが、さすがに叫んだりはしなかった。皇帝の侍医ともなると、緊急時にどのように振舞えばいいのかも分かっている。
典医は始皇帝の着物を脱がせ、あちこち触って確かめる。
「もう安全に呼吸も脈もございませぬ。体温もなくなり、腰や足に死斑が出てございます。
ただし、体温はお亡くなりになる前から異常に下がり、死斑もそれらしいのが出始めておりましたが……」
「それで、どのくらい前だと思う?
両目の火箸が、致命傷ではないのか?」
「……いいえ、それは違います」
典医の答えは、李斯の考えとは違っていた。
「生きて働いている体の部分には、必ず血が通っているものでございます。しかしこの火箸の傷、出血が全くございません。
これは、死体を傷つけた時の所見でございます」
典医はそう言って、火箸を引き抜く。
ついさっき始皇帝が動いている時に刺したのに、松明で照らして布で拭ってみても、ほとんど血がついていない。
「これだけ深く刺されば、おそらく脳にまで達していたでしょう。
脳は全身の動きを司る場所、ここに血が通わずして人が生きることはあり得ません。しかるにここで出血がないということは、死後の傷に相違ありませぬ」
そう言われると、李斯も気味が悪くなった。
「だが、その火箸を刺されるまで陛下は動いていらしたのだぞ。それについては、どう説明するのだ?」
「は?そのような訳がないでしょう。
脳の血が止まって生きている人間などおりませぬ!」
今度は、李斯が典医に信じてもらえない。
しかも典医はきちんと始皇帝の遺体の状態を見て、専門的な知識でこう言っているのだ。決していい加減なことを言っている訳ではない。
「……では本当に、死体が動いて?」
青ざめる李斯の耳に、ごとりと何かの物音が届いた。
轀輬車の中だ。
「あの中には確か……陛下に食われていた宦官が一人おりました。
典医殿、彼も見てもらって構いませぬか?」
趙高がそう言って、典医を轀輬車へ連れて行く。李斯と胡亥と生き残った宦官も、その後に続いた。
轀輬車の中をのぞくと、さっき食い殺された宦官が起き上がっていた。
その宦官の肩から首にかけては肉が大きく抉られ、首の骨が見えている。おまけに腹は破られ、ブチブチにちぎれた内臓がこぼれている。
「そ、そんな……このような傷で生きていられるはずが……!」
戸惑いながらも手を伸ばした典医を、宦官が乱暴に掴んで引き寄せる。
そしてさっきの始皇帝と全く同じように、大口を開けて典医に噛みついた。
「あっ……ぎゃあああ!!!」
悲鳴が大きく響き渡る前に、李斯と趙高は大急ぎで轀輬車の扉を閉めた。窓は閉まっているので、これでだいぶ音を防げるはずだ。
それ以上に、あんなものを外に出したくない。
「み、見ましたか李斯殿……先ほどの陛下とそっくりですぞ!」
「ああ、認めたくないが確かに見たぞ!
死体だ、死体が動いて人を食っている!何なのだあれは!?」
事ここに至っては、李斯も死体が動くと認めざるを得なかった。そしてたとえ別人でもそうなった者がいたならば、始皇帝がそうなった可能性は捨てきれない。
「の、呪いです……海神の呪いに違いありませぬ」
趙高が、震える声で呟く。
「呪いの中には……呪い殺した者の死体を使役する術もあると聞いたことがございます。
へ、陛下に呪いをかけた海神が……陛下のご遺体を使って、この国を滅ぼそうとしたのではございませぬか?」
「なるほど……呪いの穢れは伝染することもあると言うしな」
李斯も、そう言ってうなずいた。
「分かった、こういうことなら誰も悪くない。
危うく海神の思惑に乗せられ、国を滅ぼされるところであった!」
李斯は額の汗を拭い、ようやく趙高に感謝の眼差しを向けた。
よもや目の前にいるこの男が呪いとされる不気味な出来事を引き起こした張本人だとは、夢にも思わなかった。
しばらくすると、轀輬車の窓から煙が出てきた。
「これは……あの宦官が明かりを倒したのか!?」
このままでは轀輬車が燃えてしまうと、李斯は慌てた。
しかし、胡亥はむしろ安堵した表情で言う。
「消す必要はないよ、呪われた死体ごとこのまま燃やそう!」
その意見に、誰もがうなずいた。あんな恐ろしいものが中にいるのだから、これ以上被害を出さないためにも燃やしてしまった方がいい。
ついでに、轀輬車の外で始皇帝に食い殺された宦官の死体もその火の中に放り込んだ。
バチバチと舞い上がる火の粉が、まき散らされた病毒を浄化していく。
こうして事態は秘密裏に葬られ……始皇帝の死も感染の制御も、全ては趙高の手の内にあった。




