(163)
舞台が変わって、始皇帝サイドに戻ります。
巡幸を続けていく中、始皇帝の体に異変が起きていました。
ここまで読んでいただいた方なら、症状から一発で分かるはずです。
そして、それを仕掛けたのは……。
海の向こうの破滅などいざ知らず、始皇帝は巡幸を続けていた。
また自分の偉業を称える石碑を立てたり、各地で神を祀ったりしつつ、巡幸は海から離れてまた内陸に入った。
始皇帝は海が恋しくて後ろ髪を引かれる思いだったが、仕方ない。
最高指導者である始皇帝が、あまり長く都を空ける訳にはいかない。まだまだ命令を下してやることが山のようにあるのだ。
それに、防備が不完全な旅先にあまり長く留まるのは考え物だ。
せっかく仙薬をたくさん持ってきてもらえるのに、それを使う前に暗殺されたら意味がない。早く安全な王宮に帰り、しっかり身を守らなければ。
そういう訳で、大きな目的を果たした巡幸は都への帰路についた。
またつまらない日々に戻るものの、始皇帝の胸には大きな達成感があった。
(これで一年後まで生きていれば、朕は不老不死になったも同然。
徐福も仙人とうまくやったようなことを言っておったし、後は待っておれば全てはうまくいくであろう。
しかし、蓬莱は見てみたかった……徐福が戻ったらたっぷり話を聞かせてもらおう)
始皇帝は、知らない。
蓬莱は桃源郷でないどころかもうないし、徐福は二度と戻らない。
それに、巡幸はまだ終わっていない。安心というのは、無事都に帰って安全な王宮に入ってからするものだ。
なのに、皆に守られた始皇帝は、もう旅が終わったように土産物を眺めていた。
不意に涼しい風が吹き抜け、始皇帝は背中がぞくりとした。
「む……」
思わず背中を丸め、見事な織模様の毛織物を羽織る。これは北方の特産品だと言って、趙高が持ってきたものだ。
「やはり北だからか、夕方は涼しいのう。
奴め、気が利くわい」
始皇帝は毛織物を羽織ったまま、轀輬車の中でまた書簡に目を通し始めた。妖怪退治よりつまらないが、これも大事な仕事だ。
始皇帝は、これからもこんな日々が続き、このまま都に帰れると信じて疑わなかった。
己の内に既に根を張っている滅びの元になど、気づくはずもなかった。
それから一週間ほど経って、始皇帝は体の異常に気付いた。
手足や指先が水に浸けたように冷たく、体がだるくて元気が出ない。そのうえ、食欲もなくなってきた。
もちろん皇帝の不調を放置することはなく、すぐに典医が診察する。
「体の深いところまで冷えが溜まってございます」
原因はよく分からないがとにかく冷えていることは分かったので、典医はすぐに体を温め消化をよくする薬を処方した。
すると、数日は調子が良くなった。
しかしすぐに、薬を飲んでも冷えが取れなくなってきた。一時的にぽっと温かくなっても、ものの数時間で冷たくなってしまう。
それに気づいた典医は薬を強くしたが、またしばらくすると効きが悪くなってきた。
李斯たち側近は、困り果てた。
「これはどのような病だ?一体何が起こっている?
もっとよく効く薬はないのか!?」
典医も、困り果てて答える。
「はてさて、このようにただ冷えるだけという病は滅多にございません。普通は初めに元となる病があって、闘病に体が疲れてくると体力がなくなって冷えるものでございます。
ですが、陛下の場合は体力を消耗させる他の病が見つかりませぬ。
それに、強い薬は毒性も強いもの。原因がわからぬままこれ以上強い薬を用いますと、かえって命を縮める恐れがございます」
「ぬう、この役立たずめ!」
始皇帝は憤慨し、他にも名医を呼んでこいと命じた。
しかしどんな医者や薬師を呼んでも、変わらなかった。皆一様によく分からない病状に首を傾げ、手に余ると言うばかりだ。
そのうち始皇帝は暑い季節だというのに毛布が欠かせなくなり、腹具合まで悪くなってきた。典医も、脈が弱く沈んでいると言い出した。
明らかに、悪化してきている。
思わぬ病に、始皇帝は焦った。
「ええい、何とかならぬのか!?
このままでは、徐福が仙薬を持ち帰る前に……いや、咸陽に帰りつく前に……」
始皇帝と同じことを考えて、側近たちの顔も蒼白になる。
一日二日ですぐ死ぬような病ではない。しかし、人間が栄養を取れなくなって生きていられる時間は長くない。
咸陽に帰りつくまでにかかる時間だけでも、それをゆうに超えるだろう。
まして、一年となれば……。
このまま病が治らなければ、始皇帝はこの旅の途中で……。
『死』という最悪の一文字が、皆の脳裏をよぎった。
始皇帝は、思わずふらつきそうになる体を必死で支えた。一瞬暗くなった視界を、しっかりしろと己を叱咤して取り戻す。
そんな訳がない。そんなことがあってたまるか。
自分はもうすぐ仙人になれるのだ、徐福が仙薬を持ち帰れるように手を尽くしたのだ。なのに、こんな時に死んでたまるか。
何かの間違いだと思いたくても、自分の体が冷たくなっているのはもうごまかしようがなくて。
医者が自分に触れるたび、その手の温かさにぞっとした。
いつもは何も感じないのに、今はこんなに違うのかと。
自分が死体に近づいているのだと思うと、恐怖で居ても立ってもいられない。
(い、一体どうすれば……!?)
焦る始皇帝に、医者の一人が言う。
「他の方々も言っておられますが、これはどうも尋常な病ではございませぬ。もしや、我々医者の出る幕ではないかもしれませぬ。
陛下……もしや、何か呪いを受けるような心当たりは?」
「呪い!?」
その言葉に、始皇帝も側近たちも仰天した。
だがこの時代、呪いは本当に存在すると信じられている。だから始皇帝たちにとっても、それは有り得る話だった。
そこで、李斯が真っ青になって悲鳴のように言う。
「へ、陛下、まさか……あの妖怪退治の時に、海神の呪いを受けられたのでは!?」
言われて、思い出した。
妖怪退治の時、徐福に言われたではないか。始皇帝は海に出て直接海神の手下を傷つけたため、呪いを受ける可能性があると。
そう言えば李斯も、始皇帝が自ら海に出るのに反対していた。そんな得体の知れないものと対峙して、何かあったらどうするのかと。
その懸念が、現実になったというのか。
「あああ、やはりこの命と引き換えにしてもお止めするべきだったのだ!
わ、私が、もっと強くお止めしていれば!!」
李斯がその場に崩れ落ち、わんわん泣き出してしまう。
「黙れ、あれは朕の判断であった!貴様の落ち度ではないわ!」
悲嘆にくれる李斯を叱りつけながら、始皇帝は今さらながら己の判断のまずさを痛感した。
あれは自分に課せられた試練だから自らの手で越えてやろうと勇んで行ったが、今考えると無駄な蛮勇だった。
皇帝としてあれだけ守られているから大丈夫だろうと高をくくっていたが、人ならざる化け物……いや神の力を侮っていたということか。
目に見える武器がなくても、安全な訳がなかった。
代わりにやってくれる者ならいくらでもいたのだから、始皇帝本人はむしろ安全な陸地で物忌みをしていればよかったのだ。
なのに調子に乗って自分で戦った結果が、この体たらくだ。
李斯や一部の側近たちは止めてくれたのに、自分はそれを振り切ってしまった。
自分の考えが正しいと信じたから。そして、仙薬を手に入れるために自分で戦うという状況の爽快さに抗えなかったから。
そして、臣下たちに自分を抑える権限などなかった。
結局、己の判断の誤りが己の身に跳ね返ってきたのだ。
しかし、ここで趙高が叫んだ。
「そうだ、仙薬をお使いになられては!?」
「そうか、仙薬……!!」
始皇帝は、弾かれたように顔を上げた。
そう言えば徐福に、仙人になるには足りないが仙薬を受け取っている。徐福は、それが呪いにも効くようなことを言っていた。
ならば、それを使えば助かるかもしれない。
始皇帝は、すぐに趙高に命じた。
「仙薬を使うぞ、今すぐ持ってこい!!」
「は、ただいま!」
趙高は軽く頭を下げ、仙薬を取りに走りだした。
神秘には神秘、あれがあれば助かるはずだ。始皇帝は祈るような気持ちで、趙高の後姿を見送っていた。
始皇帝からだいぶ離れると、趙高は袖で口元を隠してほくそ笑んだ。
(ふふふ、順調に発症していますねえ……よきかなよきかな!)
何を隠そう、始皇帝に病の元を与えたのは趙高なのだ。珍しいもの好きな始皇帝に、北方の土産と称して天然痘患者の使っていた毛織物を献上した。
始皇帝の体内には元々尸解の血があるため、それと天然痘の病毒が組み合わさりさらに酒が過ぎれば……。
(ほっほっほ、これで陛下はもう都に生きて帰れぬ!)
始皇帝の体を蝕んでいるのは、人食いの病に他ならない。
この病の事は趙高しか知らないため、他の誰にも治せる訳がない。そもそも、治療法が存在しないのだ。
それでも死ぬまでは献身的なフリをして、趙高はこれまた趙高しか正体を知らない仙薬の箱を手に取った。




