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大変な人の手に研究が渡ってしまいました。
それがどのくらい大変かは、秦の歴史を知っている方なら分かっていただけると思います。だって、あの二人だもの。
それにより、秦の政治はますますひどい方向に舵を切らされていました。
徐福はその状況の中、自分にできることを考えていました。
咸陽は、始皇帝が帰ってきてからますます工事が多くなっていた。
王宮では廊下を全て二階建てにする工事が進められ、都の広い道では中央に塀や垣根で囲まれた皇帝専用道ができる。
それだけでも忙しいのに、またとんでもない大工事の予定が発表された。
「この国は広くなり、全土を治めるために仕事の量も必要な役人の数も増えた。しかし、政務を行う役所は未だ既存のものを使ってやりくりしておる。
おかげで、役所が数ばかり多く分散し、仕事に支障をきたしておる!
これを改善するために、新たに中枢となる大きな宮殿を建造する。仕事でも儀式でも宴でも、多くの人が集まれるようにするのだ」
要は、仕事の量に比べて今までの宮殿が手狭になったので新しく大きなものを作ろうというのだ。
この案自体は、だいぶ前からあった。
しかし必要な出費も人手も多く不急のことであったため、先送りされていたのだ。
それがなぜこの忙しい今なのかと、官僚たちは驚いた。
そのうえ、作ろうとしている宮殿の規模はとんでもなく大きい。広さも高さもこれまでにないもので、一万人を収容できるほどだ。
そんなものを作るためには、今よりさらに税を上げて民を徴用しなければならない。心ある者たちは皆、国の荒廃を憂えた。
それでも、始皇帝が進めろと言ったことには従わねばならない。
たちまち全国から人が集められ、咸陽から近い阿房というところの丘が削られて建物の土台ができ始めた。
その宮殿は地名から、阿房宮と呼ばれた。
しかし、なぜ急にこんな工事が始まったのか。
それは、趙高が始皇帝と李斯にこう進言したからだ。
「最近、陛下がお姿を隠されることが多くなり、仕事上の連絡が滞ることがたびたびあります。しかし、だからといって多くの方にお会いになっていは陛下に害があると聞きました。
つきましては、陛下への連絡、陛下からの命令、そして部署間の連絡も手早くできるよう役所の中枢を一か所にまとめてはいかがでしょう」
それは、始皇帝と李斯にとっても頭の痛い問題だった。
始皇帝は邪気を除いて仙人に近づくために、あまり多くの人に会ってはならない。というのは建前で、本当は始皇帝から他への尸解の感染を防ぐためだ。
徐福が盧生と侯生に命じて、そうするよう仕向けたのだ。
幸い、すっかり不老不死への夢に取りつかれた始皇帝は、二人の方士の言う通り他の人間をあまり近づけぬようにしている。
宮殿の通路や町の大通りに皇帝専用道を作り、執務室にいない時に皇帝の居場所を漏らした者は死刑と定められた。
では始皇帝に急いで連絡したい時はどうするかというと、始皇帝が連絡を受けられる場所をいくつか設けておいて、そこに一斉に伝令を出す。そうすると、始皇帝がそこを通った時に連絡を受け取れる。
……そんな非効率なことをしているから、どうしても仕事の流れが悪くなっていた。
ただでさえ仕事が立て込んでいる時に、これは良くない。
ならば始皇帝以外の部分だけでも集約して効率化しようというのが、今回の趙高の進言であった。
始皇帝と李斯は、すんなりそれを受け入れた。
「そうだな、国を運営するための仕事が滞るのは良くない。
それでは民が不自由し、君子にふさわしくないと天に見限られてしまう」
始皇帝は統治者として仕事はしっかりやる性分だ。それは自分でより多くのことを決めたい強欲さと、天に良く見られたい虚栄心の裏返しでもある。
そして上がしっかり仕事をしていれば国が豊かになると、それも分かっている。
ただ、あまり民を巻き込みすぎるとかえって民が苦しみ国が基板から弱るという発想がないのだ。
自分は国のために仕事を増やしているのだから、たくさんやることで国を害するわけがない。そう考えて数々の大事業を推し進めているのだ。
李斯も、効率を良くするための投資には前向きすぎるほど前向きだ。
「良い案です、そうすれば既存の建物ももっと活用できましょう。
小さくて不便な古い役所は、書物や道具を保管する倉庫といたしましょう。国が広くなったせいで保管すべきものが増え、様々な役所が悲鳴を上げております。
それと、行政の機能を新しい役所に移せば、咸陽宮を丸ごと後宮にできます。さすれば、お妃さまたちもまとめて管理できます」
それを聞くと、始皇帝は思わずニンマリとした。
「ほほう……それなら、若い女をもっと増やせるな」
後宮の事情も、それを後押しした。
始皇帝の後宮には、最近若い新しい女が入りづらくなっていた。盧生と侯生の進言によって、一度でも手を付けた女は外に帰さなくなったからだ。
これも本当は、後宮の女から外への尸解の感染を防ぐためである。
そのせいで、後宮の女は増える一方になってしまった。しかし管理上あまり分散させるわけにもいかず、場所が限られているせいでこれ以上増やせない事態に陥ってしまった。
もっとも、後宮にまだ手を付けていない女はそれなりにいる。
しかし、その女たちも時が経つにつれて年を取っていく。それに今まではあまり不自由していない事でも、制限されると途端に不自由に思えるものだ。
そういう訳で、後宮として使える場所が増えて若い女を入れられるようになるのは始皇帝も大歓迎だ。
むしろたくさん集めればその中に高い仙才を持つ女もたくさんいて、仙人となり地下にこもった後もついて来られる女が増えるとすら考えていた。
こんな流れで、また過去に類を見ない大工事が始まった。
……これを進言した趙高にも、もちろん裏の目的がある。
趙高はほくそ笑みながら驪山陵の地下に入り、研究にいそしむ徐福たちに言った。
「ほっほっほ、もう陛下の寿命を気にして急ぐ必要はありませんぞ。ここ以外に、研究を行える新たな場所を確保しました。
陛下が死んでここを引き払うことになっても、そちらで研究を続けられますぞ」
そう、趙高は新たな工事現場を作り、そこの地下に新たな研究施設を作るつもりで阿房宮を作らせ始めたのだ。
ここ驪山陵は、元々始皇帝の墓だ。
今は仙人となった後の住居とされているが、研究が完成する前に始皇帝が死ねば当初の予定通りここに葬られるだろう。
いや、もはや研究が完成したとて始皇帝を不老不死にはしまい。
研究の成果を使うのは、おそらく趙高と胡亥だ。自分たちの権力が欲しくてたまらないこの二人は、たとえ研究が完成してもそれを始皇帝に渡さないだろう。
そんなことが可能なほどに、ここは趙高に制圧されてしまった。
となると、研究が完成しようがしまいが、始皇帝は人間の定めに従って死ぬ。
その時点でこの驪山陵は墓となり、ほどなくして閉じられ、研究には使えなくなる。
だが趙高にとって、そこで研究が終わっては困るのだ。
自分が不老不死に、欲を言えばもっと神に近づくために、自分が生きている限り研究を続けてもらわなくては。
そういう訳で、趙高は自分のための研究体制を着々と整え始めた。
「感謝しなされ、こうしておけば治療法が見つかる前に終わらせねばならなくなることはありませぬぞ。
もっとも、治療法が見つかったとて、終わらせやしませんがね」
趙高は嫌味たらしくそう言って、甲高く不快な笑い声をあげた。
それでも、徐福たちは言い返すことができない。
もうこの研究は、徐福たちのものではない。下手に抵抗すれば徐福たちは捕らえられ、処刑されるだろう。
そして後は、趙高の配下がこの研究を引き継ぐことになる。
その者たちはもちろん知識を詰め込んで手順を軽く見ただけで、この研究の危険性を深く理解していない。
そんな奴らに研究を任せれば、徐福たちよりはるかに多くの問題を起こすだろう。そのうえ成果のことしか考えておらず、問題の兆候を見逃すかもしれない。
そうなれば……今度こそ、世の破滅だ。
それを防ぐために、徐福たちは従わざるを得なかった。せめて経験豊富な自分たちが研究を続けることで、世を守るしかない。
また、研究員の中には積極的に趙高に取り入ろうとする者が現れ始めた。
「趙高様、本日、わずかに知能が改善したとみられる人食い死体が現れました!」
嬉々としてそう報告するのは、元死刑囚の石生である。
石生たち元死刑囚の助手は、この研究に携わって命が助かったため、この研究にとてつもない使命感を感じて入れ込んでいた。
徐福が危険を感じてこの研究を終わらせようとした時も、まるで自分の存在意義が奪われるように感じて反対意見を述べていた。
そんな彼らにとって、趙高は研究の救い主だった。
彼らは趙高にすり寄り、自分たちの思うように研究を進めようとし始めた。
「ほっほっほ、それは重畳!
もうこの研究は徐福ではなく、あなたに任せても良いですね」
「いえいえ、そんな……徐福様は我々をこの道に導いてくださった大恩あるお方。ないがしろになどできません」
口ではそう言っているが、石生の表情は緩み、目には狂気が宿っている。
もはや石生は真面目な書生ではなく、不老不死に取りつかれた狂気の科学者だ。とにかく研究を進め、新たな理を手に入れることしか考えられなくなっている。
「だって、この研究を始めたのは徐福様ですよ。
あの方の人生を懸けた時代を変える大研究なのに、やめていい訳がありません!そんな親が子を捨てるような真似、あの方はしませんよ!
今は少し危ない目に遭って弱気になっているだけです。
だからそれを払って情熱を取り戻していただくために、私たちがもっと頑張って……」
とうとうと語る石生は、方向を違えた情熱にキラキラと輝いていた。
正直、徐福にもこうなるのではないかという予感はあった。研究を終わらせるのに反対された時、その危うさに気づいてまずいと思った。
だからこそ、こいつらが引き返せなくなる前に、自分が最高指導者のうちに終わらせようとしたのだが……もうそれも叶わない。
韓衆と趙高により、その道は潰えた。
今徐福にできるのは、せめて自分が研究の指揮を執り今日明日の平和を守るのみ。……だが、それでも遠い未来を守れる保証はない。
(俺がいくら安全に気を遣って今日明日を守ろうと、趙高がいる限り危険はなくならぬ。いつまで守っても、キリがない。
かくなるうえは……)
もうこの研究は、徐福の思い通りにならない。
国の安全と存続に、責任を持つこともできない。
この八方ふさがりの状況に、徐福はついに最後の手段を考えるに至っていた。国がどうにもならなくても、せめて人類を守る最後の策を。




