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クライマックス(韓衆の失態的な意味で)!!
韓衆を助けてくれた趙という人物は、本当はどんな人だったのでしょうか。これまでの登場人物の中にいます。趙は姓です。
助けてほしくて目に見える優しさで判断して助けを求めたその果てに……今度こそ、取り返しのつかぬ谷底へ転がり落ちてしまいます。
淡い光の中、韓衆は目を覚ます。
「う……あ……小生は……」
まだボーッとする頭で、昨日のことを思い出す。
扶蘇や蒙恬が北に行かされてしまったのに耐えられず、半狂乱になって地下を飛び出し趙の屋敷へ駆け込んだ。
その時趙は不在にしていて、家人が気持ちを落ち着かせる薬を飲ませてくれて、そうしたらどっと疲れが出て眠ってしまったんだ。
「大丈夫ですか、だいぶひどい事になっていたと聞きましたが……」
側にいた趙が、心配そうに声をかけてくる。
「世話をした者に聞いたところ、あなたは体だけでなく心ももう限界のようだ。このままでは本当に、取り返しのつかぬことになってしまう。
のう、力になれるか分からぬが、相談だけでもしてくれないだろうか。
あなたがどんどん壊れていくのが、私は見ていてとても辛いのです!」
趙はそう言って、悲痛な表情で目頭を押さえた。
それを見て、韓衆の方も胸が痛んだ。この人の善意で助けてもらったのに、かえってこの人の心痛の種になって、自分はいったい何をしているのだろう。
趙は韓衆の肩を抱き、優しくささやく。
「あなたはもう全身が助けてと叫んでおられるのに、口だけが固く閉ざされております。それでは、助けたくとも助けられぬのです!!
どうか、この私に事情を話してくださいませ。
どうも秘密を抱えていらっしゃるのは分かります。しかし、いくら一人で抱え込んでも事態が好転するとは限りませぬぞ。
私は必ず秘密を守ります、だから……どうか!」
趙にすがるように言われて、韓衆はもうたまらなかった。
自分は今、助けを求めたくて求めたくてたまらない。助けてもらわなければ、本当にもうどうしていいか分からない。
そんな自分を、趙は助けると再三言ってくれている。
心から心配してくれている。
ただ、苦境の内容を話すことで研究の秘密はこの男に漏れてしまうが……この男はきちんと秘密を守ると言ってくれている。
思えば、この男はいつでも自分を助けると言って裏切らなかった。無償で他人を助ける善意の持ち主で、邪な欲などは感じられない。
こんないい人なら、秘密を知ったって悪いことをする訳がない。
この人なら、きっと大丈夫だ。
「そうですか……にわかに信じていただける話ではないのですが……」
そう言って布団をぎゅっと握った韓衆に、趙はまた薬湯を差し出す。
「話す前にお飲みなさい、少し落ち着いた方がよい。話すために思い出しているだけで、辛くなることも多々あろう」
「ありがとうございます……ここまで、気を遣っていただいて」
韓衆は、感謝して薬湯を受け取り、飲み下した。
すると、体中に入っていた嫌な力がすっと抜けるような感じがした。ふしぎと心が軽くなり、秘密を守ろうと悩んでいたことが馬鹿らしく思えてくる。
そう、いつもこうして趙の屋敷で休んだ時だけ、心まで解放されるような救われるような気持ちになった。
これはきっと、趙のにじみ出る徳と細やかな気遣いによるものだ。
やっぱり、今自分を助けてくれるのは趙に違いない。神様は自分を見捨てていなかった、この人を遣わしてくれた。
ならば、こんないい人に隠し事など必要あるものか。
全てを話せば、きっとこの人は自分を助けてくれるはずだ。
そんな確信に突き動かされて、韓衆は口を開いた。酔ったような目をして、それはもうぺらぺらと。
世を滅ぼしかねない秘密を、あらいざらい。
しかし、ふしぎと罪悪感はなかった。むしろ地下で口に出せなかった徐福たちへの恨み節も混じりはじめ、いくらでも口が回って止まらなかった。
全てを話し終えると、趙は深く考え込むような顔をして言った。
「そうですか……にわかに信じられぬ話ですが、本当だとしたら大事ですな。
……しかし、よく話してくださった。これほどの事をたったおひとりで抱え、失敗のせいでいつも周りからあしらわれて、さぞやお辛かったでしょうに!」
趙は、韓衆の手をぎゅっと握って告げた。
「私はこれでも、公子様の一人と親しい間柄です。そのお方のお力を借りれば、事態を変えることができるかもしれません。
この方には、少し事情をお話ししてもよろしいでしょうか?」
「は、はい!お願いします!」
公子と聞いて、韓衆の目は希望の光で一杯になった。
韓衆の脳裏には、扶蘇の顔が浮かんでいた。
あの扶蘇の兄弟で同じような教育を受けてきたなら、きっと素晴らしい人格者に違いない。それに公子につないでもらえば、自分が潰してしまった策をもう一度やれるかもしれない。
そうすればきっと、この失態を取り戻せる。
今度こそ間違えずに、きちんと世を救ってみせる。
意気込む韓衆に、趙は小さな薬の包みをいくつか渡した。
「私があなたを助けに行くまで、どうかこれで耐えてください。辛くて耐え切れぬ時、体が痛む時、眠れぬ時などに飲みなさい。
できるだけ早く動きますゆえ、どうかご無事で……」
「ありがとうございます!」
こうして趙に秘密を洩らした韓衆は、何食わぬ顔でまた地下に働きに行った。大変な秘密を洩らしてしまったが、ふしぎとそれほど罪悪感はなかった。
だって、人に知られたってそれが世の滅びにつながらなければいいじゃないか。
韓衆が見る限り、趙はとてもいい人だ。困っている人を思いやる心があり、実際に助ける行動力があり、人脈まで持っている。
厳しくて残虐なことばかり考える徐福よりずっといい、と思った。
だいたい、あんなになっても他人に助けを求めないのがおかしい。世の中には、こうやって助けてくれる人がきちんといるのに。
韓衆は己の身に起こったことをそう分析し、趙の助けを心待ちにしていた。
果たして、趙は思ったよりはるかに早くやって来た。
韓衆が地下に戻って半日ほど後、いきなり地下離宮が騒がしくなった。盧生と侯生が、工作部隊らの報告を聞いて目を白黒させている。
「ここに入りたいだと!?機密を盾に追い返せ!」
「そ、それが武装した兵を何十人も連れていまして、おまけに傷つけたらどうなるか分からない公子様まで……!」
それを聞いて、韓衆は目を輝かせた。
公子がいるということは、きっと趙が話をつけて助けに来てくれたのだ。
あれよあれよという間に、どかどかと武器を持った兵士たちが踏み込んでくる。その後方には、きらびやかな衣冠に身を包んだ趙の姿。
「おおっ趙殿!!」
韓衆はすぐに、趙めがけて走り出し、寄り添った。
「韓衆、貴様今度は何を……!?」
鬼の形相で叫ぶ徐福を遮り、趙は声を張り上げた。
「静粛に、私はここに正当な犯罪捜査で来たのです!手向かえば斬り捨てますぞ!
ここで、天下を乱す麻薬を製造しているという通報がありました。陛下のお膝元で、ゆゆしき事態であります。
ゆえにこの私、趙高が直々に調査に参りました!」
「趙高殿!?」
盧生と侯生が、目を真ん丸に見開く。
「趙高殿と言えば、高級を取り仕切る宦官の長であったはず!それがなぜ、麻薬の調査などと……越権ではないのか!?」
「ふふふ、後宮を乱す可能性のある事案ですからな。
それに、しかるべき証拠を揃えてしかるべき部署に引き継げばいいのです」
徐福たち相手に一歩も引かぬ趙高の様子は、韓衆の目にとても頼もしく映った。
やはり、この人に頼って正解だった。自分が信じた趙……趙高は、やはり才も徳も素晴らしくふさわしい地位の者なのだ。
「調査の根拠となる証拠は、どこに?」
尉繚ににらまれると、趙高はいきなり韓衆の懐に手を突っ込んだ。そして、自分が韓衆に渡した小包を取り出す。
「この男が持っているこれが何か……医薬に詳しい方ならば分かるでしょう」
趙高がそう言って投げ渡した一包を開き、観察してみて、侯生が驚愕の表情で叫んだ。
「阿片だ……!!」
阿片とは、ケシの実から作られる麻薬で、現代でも有名なモルヒネやヘロインの原料である。太古からその優れた鎮痛、鎮静作用で知られ使われてきたが、同時に強い中毒性のため社会問題ともなってきた。
韓衆が趙高に与えられていたのは、その危険な薬だったのだ。
「それが、ここから出たものである証明など……!」
なおも食い下がる尉繚に、趙高はさらに衝撃の事実を告げる。
「試しに、この男をしばらく拘束してごらんなさい。そのうち、見る者が見ればすぐ分かる禁断症状が出て、これを与えれば一発で治まりますよ。
だってこの男、何度も阿片で重い気持ちを散らしていましたからねえ……ええ、もう私の所に来ずにはいられないくらいに。
でも、それは私と限られた者しか知りません。
となると怪しいのは、最近出入りし始めた地下……分かりますよね?」
それを聞いて、医薬の知識がある者たちは顔面蒼白になった。
「まさか、最近の韓衆殿の不調……そういうことか!」
ここ最近の韓衆の不調……来た時は妙に気分が明るく大らかなのに時間がたつと異様に暗く神経質になり、腹痛を起こし、休ませても眠れず……まさに阿片の禁断症状だ。
そして韓衆が癒しを求めて趙の屋敷に通ったのも、阿片による幸福感と依存性にそうさせられていたのだ。
むしろ趙高はそうなるように、疲れ切った韓衆に阿片を与えたのである。
それでも趙高のやることだから何か深い考えがあるはずだと悩む韓衆をよそに、趙高はニヤリと笑ってこう言った。
「さあ、観念なさい!もう逃げられませんよ。
陛下や李斯にこのことを告発されたくなければ、私にその研究をよこしなさい!
陛下ではなく、私と胡亥様のために不老不死を捧げるのです!!」
口から出たのは、私欲の塊のような言葉だった。
そこに、韓衆を助けようという善意など毛頭ない。ただ自分と仲間の公子が不老不死になるためだけの、有無を言わさぬ脅迫。
韓衆は、あっけにとられて声をかける。
「え……あれ?世を救ってくださるのでは?
それに、公子様は!?徳の高い公子様が、そんなこと望むはずが……!」
うろたえる韓衆の前に、胡亥がとてとてと歩み出る。
「アハハハハ、きれいにだまされてやんの!今時さあ、徳とか礼とか何の役にも立たないって知ってる?
だから僕も、そーいうの関係なくほしいものは手に入れるの。
あ、そう言や邪魔な兄上を北に送ってくれたんだっけ?ありがとー!お礼に好きなだけ阿片あげるね!アヒャヒャヒャ!!」
胡亥は韓衆を嘲笑い、悪童のようにべーっと舌を突き出した。
悲しいかな、胡亥は扶蘇のような清廉で徳の高い人間ではない。むしろ真逆の、愚かで幼稚で、欲を抑えることを知らない人間だ。
そこに至って、ようやく韓衆は自分がはめられたことに気づいた。
しかし、もうどうにもならない。ここまで武装した兵に踏み込まれ訴える証拠を作られてしまったら、いかに徐福たちでももう逆らえない。
こうして、研究は欲まみれの趙高の手に落ちた。
人と世を守るために研究を終わらせるという徐福なりの幕引きすら、今はもう手の届かぬ夢の果てであった。




