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盧生と尉繚が帰ってきて、徐福はさらに過激な策を仕掛けます。
北の匈奴への侵略戦争……それはとある残酷な目的をもって、韓衆の守ろうとした人たちを巻き込みます。
天下を救う策を捨てても守りたかった人が自分のせいでこうなってしまうのに、韓衆は耐えられるでしょうか。
どこまでも、裏目に出ます。
それからしばらく、咸陽は平穏だった。
始皇帝に直訴した儒者の一部は官職をはがれ、参加した公子たちは軟禁されたが、ふしぎとそれ以上の変化はなかった。
地下の研究も、目立った成果はなかった。
韓衆が必死に治療しようとしていた検体は、死亡までの最長記録を更新し、しかし本人は苦しみのあまり殺してくれと泣きながら死んでいった。
そんな折、盧生と尉繚が咸陽に帰ってきた。
始皇帝の巡行が終わってから、約一か月後のことである。
始皇帝は、わくわくしながら盧生と侯生を待っていた。ここしばらく謁見がなかったため、寂しさと不安が募っていたのだ。
それに、盧生が何か重大なものを持ち帰るとも聞いていた。
その期待に応えて、盧生が一巻の書を取り出す。
「お待たせいたしました、録図書でございます」
「おおっ……これがその、未来を記したという……!」
始皇帝はすぐに書を持ってこさせ、手に取った、その手は、感動と期待のあまりぶるぶると震えている。
これこそが、今回の巡行の成果と言うべきものだ。
今回は仙人、羨門高の手がかりを求めて東へ巡行したが、そんなものが簡単に手に入る訳がない。
始皇帝は羨門高の伝説がある碣石山に自分の偉業をたたえる石碑を立て、しばらくその山の周辺で調査をした。
しかし、会う手がかりになりそうなものはない。
それでも諦めきれない始皇帝は、盧生にもっと深く調べろと命じてそこに残してきた。
するとしばらくして、盧生が鬼神のお告げにより未来を知ることができたと連絡があった。その予言を書き留めたのが、この録図書である。
……という触れ込みだが、もちろん嘘である。
盧生は海岸や近くの小島で祈るふりをして、蓬莱を連絡を取り合ってそちらの調査を進めようとしていた。
しかし、始皇帝に対しても全く成果なしで帰る訳にいかない。
それをごまかすための苦し紛れの成果が、録図書であった。
とはいえ、これは全く無意味なものではない。これには、始皇帝を徐福の思う通りに動かすための仕掛けがしてあった。
「ほほう、どれどれ……」
始皇帝はさっそく、録図書を開いて読み始めた。しかしその表情はどことなく拍子抜けして、退屈そうだ。
録図書には、いつ始皇帝が仙人になるのか記されてはいない。ただ当たり障りのない国のことが並べられているだけだ。
この年は火事が起こりやすい、水害が起こりやすい、肺の病が流行る、など。
しかし、しばらくして読み進めていた始皇帝の手がはたと止まった。
「な、何じゃこれは……!」
始皇帝の視線の先には、こんな一文があった。
『始皇帝百五歳の時、秦に危機が訪れる。秦を滅ぼすものがあるとすれば、それは胡であろう。』
始皇帝の手が震え、額に汗が流れる。
これは、とんでもない予言だ。良い意味でも、悪い意味でも。
まず始皇帝が百五歳まで生きられるということは、きっといつか仙人になれるのだろう。普通の人間は、こんなに長く生きられない。
次に、秦を滅ぼすものは胡である。つまり始皇帝が仙人として生き続けていても、秦という国は滅ぶかもしれないということ。
それゆえ、その先の未来は読めないとでもいうように録図書はここで終わっている。
始皇帝は、自分の足元の地面が崩れ落ちるような恐怖を味わった。
自分は何のために仙人になるのか。この国を永遠に支配するためだ。その国がなくなってしまったら、意味がない。
始皇帝は真っ青になって、盧生に問う。
「こ、この国が滅ぶとは……決まっているのか?」
盧生は、静かに首を横に振った。
「いいえ、未来は確かに定まってはおりません。
未来とは、そこに至るまでの様々な過去が絡み合ってできるもの。ゆえにそこに至るまでに行動を変えれば、未来は変わります。
ゆえに、鬼神も天運の要素が強いことしか予言できないのです」
そう言われて、始皇帝はひとまず胸を撫で下ろした。
まだ秦の滅亡は決まっていない。その危機から先がどうなるか分からないから、その先の予言がないのだろう。
となると、今から秦が滅亡しないように手を打たねば。
(ううむ、もはや国内に敵はないと思っていたが……胡か。
あの蛮人どもなら、有り得るな)
胡とは、中華の外に住んでいる異民族のことである。
大昔から、中華の地は時々異民族の侵入を受けてきた。東は海で西は砂漠なのでそこはいいが、北と南の異民族は油断するとすぐ騒ぎ出す。
特に北の匈奴などは強いうえに気性が荒く、この国がいくつもの小さな国に分かれていた頃は、北の国がそいつらによって存亡の危機に立たされることすらあった。
こんな歴史があるので、この予言には真実味がある。
始皇帝は、録図書を握りしめて呟いた。
「北の蛮人どもを徹底的に叩き潰し、もっと遠くへ追いやらねばならぬ!
そして二度とこの国に入れぬよう、防壁を築かねばならぬ!」
始皇帝は、すぐさま対策を取ることを決意した。
つまり、北の匈奴たちへの侵略戦争と、匈奴を防ぐための壁……国境に延々と伸びる長城の建設である。
「朕のこの国を、滅ぼしはせぬ!
李斯よ、すぐに取り掛かるのだ!!」
始皇帝が命令を下すと、側で聞いていた李斯はうやうやしく頭を下げてこう言った。
「は、ただちにこの国の災いを取り除きます。
ついでに、これを利用して今陛下のお側にある災いの種も取り除きとうございます。
この匈奴討伐や長城建設に、先に扶蘇様と謀って陛下を阻もうとした不届き者どもを送り込みましょう」
「ほう」
始皇帝が興味深そうに眉を動かすと、李斯は得意げに続けた。
「こうして奴らを都から離してしまえば、すぐに陛下に刃が届くことはなくなります。妻子を置いて行かせれば、人質にとることもできます。
それに、北の荒れ地では反乱を起こそうにも満足に食糧が手に入りますまい。我々が送る食糧だけが、奴らの命綱となるのです。
さすれば、皆陛下のありがたみを理解し、理解できず無謀な行動を起こす者は命を落とすでございましょう」
要するに、北の戦や工事を不穏分子の追放先として使うのだ。
その一石二鳥の策に、始皇帝は手を叩いて喜んだ。
「ハハハッそれは良い!そうして厳しい環境で揉んでやれば、扶蘇も政には何が必要か分かり心を入れ替えるだろう。
方士たちよ、それで未来は変わろうな?」
始皇帝の問いに、盧生と侯生は満面の笑みで答えた。
「は、陛下のご賢察恐れ入ります!」
「こうして行動を起こせば、未来は変わりましょう。
それに……北の荒れ地は、肺や咳の病に効く麻黄の産地でございましたな。ついでにそれも確保しておけば、肺の病が流行っても犠牲が少なく済むかと。
さすが陛下、一石三鳥でございます!」
こうして、徐福の思惑通り北への侵略戦争が始まった。
そして始皇帝に異を唱えた首謀者の扶蘇と、彼とつながりが深いことが判明していた蒙恬たち国を思う将軍たちが北に送られた。
扶蘇を中心にまとまっていた世を思い民を思う者たちはバラバラに引き裂かれ、不毛の地に飛ばされてしまったのである。
その扶蘇を思いながら、韓衆は今日も働いていた。
(見つけ出さねば……治療法を。
し、小生が……扶蘇様を守ったのは、間違いではない……。それを無駄にせぬため、早く……治療法を……。皆の恩に、報いねば……)
しかし、韓衆は最近不調に見舞われていた。
それは働きすぎと、周りの冷たい扱いによる心の痛みのせいかもしれない。
いつも仕事が終わると、韓衆は身も心もくたくたになっている。以前助けてくれた趙の屋敷に行って休息すれば少し心が軽くなるが、半日もするとまたどんどん気が重くなって苦しくなってくる。
おまけに、腹具合まで不安定だ。地下で長時間働いていると、急に腹具合が悪くなることがある。
そんなだから気分も不安定で、趙のところに行かなければ落ち着いて眠ることもできなくなってきた。
こんな状態の韓衆を、周囲はどこまでも役立たずだと罵る。
特に今日は尉繚が帰ってきたため、詳しい事の次第を聞いた尉繚から一日中負の感情を浴びせられ続けて参っていた。
そこに、盧生と侯生がとどめを刺しにくる。
「ああ、扶蘇様と蒙恬だが、匈奴討伐と長城建設で北へ行かされるぞ」
「ま、陛下相手に正面からあんな事をしたら、そりゃそうなるな。
生きてるだけマシかもしれんが、北の荒れ地は作物もまともに育たん。果たして、生きて帰って来られるかどうか。
こんな事なら、清く中途半端にやらずに、命がけで立ち向かっていれば……なあ?」
それを耳にした瞬間、韓衆は絶叫した。
「うわあああ扶蘇様ああぁ!!!」
耐えられるものでは、なかった。
自分が情に流されたせいで、誰より守りたかった扶蘇がこんな目に遭うなんて。人と世を思い力を束ねようとしてくれた高潔な者たちに、恩を仇で返すことになるなんて。
こんなつもりじゃなかった。こんなの全然考えてなかった。
自分はあんなに覚悟を決めて扶蘇を守るつもりでこうしたのに、それが巡り巡って扶蘇をこんな残酷な目に……。
「あ、ああー違う違うよぉ~!なんで、何でっ!?
こんなのない!なぁ~い~!!」
現実を受け止めきれず幼児のように駄々をこねる韓衆に、徐福は冷たく言った。
「今日はもう仕事にならんようだから、帰っていいぞ。
ただし、次はその分仕事を増やすからしっかり働けよ。いくら嘆いたって、扶蘇様が戻ってくる訳じゃないからな」
「ひいいぃぎぃやあああぁ!!!」
韓衆は叫びながら、一目散に地下から逃げ出した。
どうしてこうなったのか訳が分からなくて、とにかく理不尽に苦しくて、それでも誰も助けてくれなくて。
韓衆は半狂乱のまま、趙の屋敷に駆け込むしかなかった。




