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働きすぎで倒れた韓衆に、手を差し伸べてくれる人が現れました。
その優しさに韓衆は感動しますが、彼は本当に信用できるのでしょうか?
でも孤立無援になって視野が狭くなっていると、それが唯一の善意に見えてしまうものです。
まぶたを通して差し込む光に、韓衆は目を覚ました。
「う……うっ、ここは?」
気が付いたら、韓衆は柔らかい布団に寝かされていた。周りを見ると、そこは上等な調度品の置かれたこぎれいな部屋だった。
明らかに、地下でも自分の宿舎でもない。
慌てた韓衆は飛び起きようとしたが、体に力が入らない。何度か手足をばたばた動かして、ようやくのろのろと起き上がった。
すると、ついたての向こうから人の声がした。
「おや、起きましたか。
では、まず食事の用意をさせましょう」
出てきたのは、これまた上等で美しい服をまとった男だ。しかし少し小柄で太り気味で、声は妙に甲高い。
その男は心配そうに韓衆を見つめ、尋ねる。
「一体どうなされたのですか?
見たところ奴隷でもないのに、あんなに夜遅くまで、しかも倒れるまで働かされて。私が見かけて拾わなければ、どうなっていたことか!
その言葉に、韓衆は気まずくなって目を伏せる。
「いえいえ、そんな……働かねばならないのは、私の不始末が原因でして……」
「それにしても、倒れてはやりすぎでしょうに!
不始末を取り戻すにも、まずは体が大事ですぞ」
己を責める韓衆に、男はいたわりの言葉をかけて休息をすすめる。そうしているうちに、いい匂いがして温かい粥が出てきた。
それを見て、韓衆は仰天した。
その粥には干しエビやクコの実など栄養のあるものがふんだんに散らされており、自分のような身分の者が食べるものではなかったからだ。
「そ、そんな……こんな良いもの、いただけません!」
遠慮する韓衆に、男は柔和な笑みを浮かべて言う。
「いいのですよ、私がいいと言うのですから。人の好意は、素直に受け取るものですぞ。
それにどうやら、あなたには頼れる人がいないようだ。でなければ、あんな風に行き倒れになるものか。
よろしければ、私を頼ってもいいのですよ」
その言葉に、韓衆は思わず目頭が熱くなった。
その通りだ、今の韓衆にはすがれるものが何もない。失態のせいで徐福たちは冷たくなってしまったし、取り締まりのせいで扶蘇や蒙兄弟にも近づけない。
おまけに皆が自分のせいでとんでもない迷惑をこうむったため、その自分から助けてなんて言い出せる訳もない。
さりとて、この地に家族親類や長い付き合いの客もいない。
韓衆は、身も心も孤立無援になってしまっていたのだ。
そこにこの男だけは、手を差し伸べて飯を出してくれた。これで心が動かないわけがない。
「……では、お言葉に甘えて」
食べていいと言われると思い出したように空腹が襲ってきて、韓衆はたまらず出された粥を一すくい食べた。
途端に、粥の温かさと豊かな味が口いっぱいに広がる。反射的に飲み下すと、そのぬくもりが胃から腹全体に広がっていく。
「あああっ……う、うまい!!」
韓衆の目から、ぶわっと涙があふれた。
気が付けば韓衆は、夢中になって粥を貪っていた。胸の中が温かくて感謝でいっぱいになって、それでもそれを口に出す暇もなく食べ続ける。
あっという間に粥がなくなると、韓衆ははっと我に返った。
「申し訳ありません、お見苦しいところをお見せして……」
恥ずかしがる韓衆に、男は穏やかに言った。
「いやいや、あなたが少しでも元気になって何より。
それほど、あれほど腹を空かしたところに急に食物を入れたのだ。消化を良くするために、薬も飲みなさい」
男の差し出した薬湯を飲みながら、韓衆はまたほろりと涙を流す。
こんなに他人に気遣ってもらえたのは、いつぶりだろうか。
咸陽に来てからは他の詐欺方士たちから疎まれ、盧生と侯生とは真実を知るまで水と油の仲だった。研究の仲間になって一時は手を取り合えたものの、前の失態でまた憎まれるようになってしまった。
誰にも心を許せず、叩いて叩かれるばかりだった。最近は仲間にも心を許してもらえず、叩かれてばかりだった。
そんな中自分にここまでしてくれるこの男が、韓衆には神様に見えた。
韓衆が薬湯を飲み干すと、男は心配そうに言った。
「さて、これでひとまず安心ですが……あなた、このまま帰って大丈夫ですか?」
「えっ……?」
「お節介なようですが、私にはあなたがとてつもない苦境にあるように思える。今ここで腹を満たしても、すぐまた同じように倒れる気がしてならぬ。
それでは、私が今ここで助けてやった意味がない。
どうでしょう、こうして助けたのも何かの縁です。もし何か事情があるのなら、私に話していただけませんか?」
その言葉に、韓衆はぎゅっと胸が狭くなった。
今のこの苦しみを聞いてもらえる、助けてもらえるかもしれない。そうなったら、どんなにいいだろう。
しかし、今自分が抱えている問題は軽々しく口にしていいものではない。もし外に漏らせば、世界がどうなるか分からない。
救ってほしいのに、話したいのに、すがりたいのに……。
難しい顔で身を固くする韓衆の背中を、男は優しくさする。
「……やはり、何か事情があるようですな。
ですが、今無理に話していただかなくても構いません。守るものがあるなら、それも仕方のないことでしょう。
しかし、かといって見捨てるのも忍びない。
これからもあなたのために、門は開けておきますぞ。飯を食いに来るだけでもいい、少しでも休まるならいつでもここに来なさい」
そのどこまでも優しい言葉に、思わず助けてという言葉が韓衆の喉元まで出かかった。しかしどうにか、それを飲み込む。
男は少し残念そうな顔をして、韓衆に一枚の札をくれた。門番にこれを見せれば、いつでも助けてもらえるという。
「私は、趙と申します。少しでもあなたの力になれたら嬉しい。
そう自分だけで抱え込まずに。世の中、捨てたものではありませんぞ」
その男……趙は最後まで快く韓衆を送り出してくれた。
もう日はだいぶ高く昇っていたので、韓衆は慌てて地下の仕事場へと向かう。今日もあの針のむしろのような仕事場で、終わりの見えない研究に打ち込まねばならない。
だが、韓衆の足取りはいつもより軽かった。
最近は仕事のことを考えるだけで気が重かったのに、それがだいぶ気にならなくなっている。今なら、周りにきついことを言われても笑って流せる気がした。
頼れる人がいるだけでこんなに変わるのかと、韓衆は驚いた。
世の中は厳しいことも多いが、逆に優しい人もいる。自分には、辛い時にすがれるものがある。
今まで凝り固まっていた心が、一気にほぐれたようだった。
韓衆は久しぶりにピンと背筋を伸ばして、しっかりした足取りで仕事に向かった。
その後姿を見送る趙の顔が醜く歪んだことには、気づきもしなかった。
それに、いくら韓衆の心持が変わったって現実は変わらない。
今日も今日とて、冷たい目を向けてくる同僚に囲まれて悲惨な病人の観察。昨日少し調子が良かった検体は、今日明らかに悪くなっていた。
「……心臓が弱ってきている。もっと麻黄を増やさなければ」
「はいはい、いつもの流れですね。
きっとこいつもあと七日ももちませんよ」
石生の投げやりな言葉を聞きながら、韓衆は少しでも良くなるように必死で工夫して薬を作る。
その努力のかいあって、人食いの病の進行を遅らせる配合はだいたい分かってきている。息道を広げ心臓を強くする麻黄を中心に、侯生の元気が出る薬や工作部隊の秘薬を参考にして作り上げた。
おかげで、韓衆の薬を与えられている検体は、感染してから死ぬまでの日数がこれまでで最長を記録しそうだ。
もっとも根本的な解決にはならないし、それが検体にとって幸せなことかも分からないが。
それに、別の問題も生じてきている。
「麻黄の在庫が少ないですね……発注はしてあるのですか?」
「ええ、もちろんです。
ただ、最近咸陽で麻黄の値段が上がっておりまして……その、我々が大量に使い続けているせいで市場への供給が追い付かぬようで」
治療薬の中心を担う麻黄が、使いすぎで手に入りづらくなってきている。
今は工作部隊が駆け回って何とか手に入れているが、流通している量が減って値段が上がり、市井で使うにも影響が出ているという。
それを聞いて、徐福は苦々しい顔で言った。
「まずいな……アレは北の乾燥地帯に生えているものだから、国内で賄える量が限られておる。
かといって、匈奴がこちらの欲するまま提供してくれる訳もない。
……そうだな、いっそ産地ごと手に入れさせようか。
また民の負担は増えるだろうが、そうして始皇帝に不満がたまれば、あいつに潰された策をもう一度やれるかもしれん」
その恐ろしい言葉に、韓衆は真っ青になって身震いした。
麻黄を手に入れ、ついでに始皇帝の支配を傾けるために、徐福は外国への侵略戦争まで起こさせる気だ。
全ては、天下万民を死の災厄から救うため。
しかしその過程でどれだけの人が死に、民が苦しみに喘ぐというのか。
だがそれも、韓衆が世代交代の策を潰してしまったせいなのだ。あれさえうまくいっていれば、こんな事にはならなかった。
それに気づくと、韓衆の少し軽くなっていた心はまた鉛のように重くなって、奈落の底に叩きつけられた。
(ううっ……また、民が……しかし、これも小生のせい!
小生は決して、悪いことをしたはずは……なのに……!!)
自分が扶蘇を守ろうとしたせいで、天下の民はどんどん不幸になる。あの清らかで尊い扶蘇を守ったのは、そんなに悪いことだったのか。
どんなに考えても答えが出なくて、苦しみばかりが増していく。板挟みになった心は、今にも自重で潰れて粉々になりそうだ。
(誰か……誰か小生を助けてくれ!!)
その叫びに応えてくれる者は、あの趙と名乗った男以外にあるはずもなかった。




