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感染系の小説を書いていたら、現実でも感染対策が大変なことになってきました。
しかし、感染症の正体がすぐ見える時代に生まれて良かったです。始皇帝の時代みたいに呪いとか邪気とかいって効果のない対策に奔走しなくていいですから。
新展開で、新しい人物が登場します。以前登場して、紹介を忘れた人物も。
扶蘇:始皇帝の長子で、聡明で周囲に将来を期待されていた。しかし、始皇帝の死後趙高の陰謀により非業の死を遂げた。
蒙毅:蒙恬の弟で、文官。扶蘇を支持していたが、やっぱり趙高に殺されてしまった。
「……全く、近頃の陛下の言動は目に余る」
二人の男が、歩きながらひそひそ声で話していた。
「いくら理想が素晴らしいとはいえ、あの方士どもに入れこみすぎではないか。しかも、そのために民まで動かすとは。
どう考えても、度が過ぎておる」
「そのうえ李斯殿や他の高官も異を唱えることがない。陛下のお考えに沿うばかりで、大きな目で天下を見るということをしない。
兄上の仲間の将軍たちの方が、まだ話が分かりますよ」
話しているのは将軍の蒙恬と、弟の文官蒙毅であった。
この二人は未だ盧生と侯生のことを信用しておらず、その二人にどんどん取り込まれていく始皇帝に幻滅し始めていた。
「全く……昔はあんな風ではなかったのに」
「ああ、天下をよく見て、何よりも現実に沿っていらっしゃった。
しかし今は……もう天下の民のことなど目に入っておらぬようだ。それどころか、前々から仕えてきた我々の言にも耳を貸してくださらない」
蒙毅は、悲しみに目を伏せて己を納得させるように呟く。
「天下を統一して、もう自分は何をしてもいいと思ってしまわれたのだろうか。
古来より、大きな国とその君主は国が安定した時から腐り始めると言われるが……よもや陛下もそのようになってしまわれるとは。
そして、その先に待っているのは……くうっ、我々がこの国にどれだけ尽くしたと……!」
蒙恬は、悲観する弟の肩を叩いて勇気づけるようにささやいた。
「滅ぶってか?……そうはならんさ。
陛下は確かにもうろくしてきたが、その陛下がいつまでも国を治める訳じゃない。人の命には、限りがあるんだ。
次が大丈夫なら、持ち直すさ」
その言葉に、蒙毅は遠い目をして呟いた。
「そうだな、次……次か……」
「ああ、扶蘇様なら大丈夫だろう」
蒙恬が、期待している次世代の名を告げた。
始皇帝は不老不死を目指しているが、今はまだただの人間だ。そうである以上、生きていれば死が迫ってくる。
当然、その後のことは考えてある。
数多いる始皇帝の子供たちの中で最年長であり、聡明と評判で、間違いなく後継ぎであろうと噂されている皇子。
彼こそが、扶蘇である。
その優しく正義感の強い笑顔を思い浮かべて、蒙毅は少し希望を取り戻す。
「そうか、扶蘇様なら、きっと大丈夫だ。
あの方なら人々の意見を広く取り入れて、民に優しい世を作ってくださるだろう。きちんと現実を見て、手の届かぬ理想より今いる人の生を大事にしてくださる。
今の陛下のように、訳の分からぬ方士どもに惑いはすまい!」
扶蘇が導く世を思い、蒙恬と蒙毅は顔を合わせて笑った。
しかしその笑みは、前を見た途端曇ってしまった。
「方士共……!!」
二人が進んで行く通路の先に、見つけてしまったのだ。二人が国を腐らせる悪として憎んでいる、二人の方士の姿を。
盧生と侯生は、通路の端に寄って壁にもたれて休んでいた。その顔は少しやつれ、目の下には薄い隈ができている。
ひどく、疲れているように見えた。
それを見て、蒙恬は忌々し気にぼやく。
「フン、まともに仕事もしていないくせに、何をそんなに疲れるのやら」
「どうせ遊び疲れですよ、兄上。あんなに金をもらっても消えてしまうということは、連日酒と女に溺れているのでしょう」
「ハッ、違いない。
不老不死を語る方士どもが遊びすぎで体を壊すとは、笑えん話だ」
「全くだ……噂によると、宿舎に帰らない日が多いらしい。その間どこで何をしているかと思えば、当然の結果でしょう。
いっそこれで死んでくれたら、少しは笑えようが……」
二人の様子を勝手にそのように判断して、言いたい放題である。
しかし、それも仕方ない。二人が最近あまり宿舎に帰らないのは事実だし、その間二人が何をしているか周囲は知らないのだ。
知らない上に二人が言いだしたことの影響を憂いて憎しみが入れば、こういう見方になってしまうのも無理はなかった。
そのうえさらに憎らしいことに、この二人は身なりと場所からして始皇帝に謁見して来た帰りなのだろう。
また何を吹き込んだのかと、蒙兄弟の眉間にしわが寄る。
「次は……扶蘇様は、こんな輩に惑わされぬと良いが」
すれ違いざま、蒙恬はぽつりと吐き捨てた。
一方、盧生と侯生はどうしていたか。
二人は、とにもかくにも始皇帝を隔離するように動いていた。この先どうするかはまだ決まっていないが、感染を他へ広げないことが大事だ。
感染を起こすのは唾、出血を伴う傷、交合の三つ。
そのうち、交合をやめさせるのは無理がある。それに、交合が後宮内に限られていればひとまずそこ以外には広がらない。
唾も、始皇帝自身が人に噛みついたりしなければ大丈夫だ。実験で、日常会話や食器の共用程度では感染しないと分かっている。
そもそも、唾で感染するのは人食い死体が人に噛みついた場合だけ。体の組織が破壊されていなければ、病毒は唾に出ないのかもしれない。
となると残る問題は、出血を伴う傷。
始皇帝の場合、暗殺者の襲撃が危険だ。
始皇帝はこれまでに二度、暗殺されそうになっている。そのうえ今は民の負担が重くなり、世の人々が始皇帝を憎み始めている。
もしまた暗殺者が現れ、始皇帝の血がまき散らされ、それに大勢が触れたり血をかぶった暗殺者が逃げたりしたら一大事だ。
それを防ぐため、盧生と侯生は始皇帝に姿を隠すよう進言していた。
「方術では、仙人になろうとする者はなる前から人を避けよと申します。
仙人になっていてもいなくても、他人、特に世俗に塗れた者と交わるだけで邪気を受け神気を害されます。
だから我々方士は、普段人里から離れたところで修行するのです」
「また、邪気は直接会わなくても向けられることがございます。居場所を知られ、姿を見られ、悪しき思いを向けられるだけで良くないのです。
呪いに近い形、とでも申しましょうか」
二人は、始皇帝にもっともらしく姿を隠すことの効能を説いた。
とにかく仙人になりたい始皇帝は、熱心にそれを聞いている。
それにこの時代、呪いは本当に力を持つと信じられていた。その中には、悪意のこもった目で見られるだけで呪われる邪眼の呪いなんてものもある。
そんなものを受けたら清らかとは程遠い状態になるであろうことは、始皇帝にも容易に想像がついた。
「なるほど……では、姿をできるだけ見られず、居場所を知られないようにすれば良いのか」
「はい、その通りでございます。
また、陛下の血のついたものはすぐ焼き捨ててください。血は強力な呪物になりますし、高い仙才を持つ者ならなおのこと」
「ただし、臣下から陛下への連絡手段は残しておいてください。
陛下の目が届かなくなれば、下の者が何をするか分かりませんので」
二人の進言は、すぐに始皇帝の命令となって実行に移されることになった。
命令を受けた李斯も、これには大賛成だった。
李斯は、何度も暗殺されそうになる始皇帝の身を何とかして守らねばと思っていた。そのうえ最近も驪山陵の暴動があったため、神経質すぎるほど思い悩んでいた。
「なるほど、陛下の居場所が分からねば暗殺もできまい。常々から姿が見えねば、行動を把握することも遠くから狙うこともできまい。
それならば、陛下の御身は今よりずっと安全になる。
お二人の提案には、心より感謝する!」
天からの光を見たように謝辞を述べ、李斯はすぐに計画を練り始めた。
「よし、では宮殿の陛下がお通りになる廊下を全て二層構造にして、上を陛下専用としよう。ああ、宮殿と宮殿をつなぐ回廊もだ。
それから、大きな道の一部を塀や垣根で覆って通る者が見えないようにしよう。各地につながる街道も、陛下の巡幸のためにそうするのだ。
これは大仕事だが、陛下のためにやり遂げてみせるぞ!」
李斯が考えたことの大きさに、盧生と侯生はまたも開いた口が塞がらなかった。
「あの……陛下の移動を制限するとか、そういうことではないので……?」
「何を言う?陛下はこの天下の頂点に立っていらっしゃるからして、何人もその行動を制限などしてはならぬ。
たとえその身に制約があってもできるだけ自由に行動できるようにするのが、我々臣下の役目ではないか」
李斯の案は、またしても天下に大きな負担を強いる大工事であった。
しかもこれは二人の進言にも、あまり行動を制限されたくない始皇帝の意志にも適っているため、反論できない。
こうして二人はまた、天下の多大なる恨みを買ってしまった。
そういうことがあって、二人はとてつもなく気疲れしていた。ただでさえ最近は地下で検査と会議が多くて疲れた体に、気疲れがさらに重くのしかかる。
蒙兄弟が見たのは、二人のそんな姿だった。
しかし事情を知らぬ蒙兄弟は、二人に追い打ちをかけるように呪われそうなほど恨みのこもった視線をぶつけて去っていった。
そんなどうしようもない状況に、つい二人の口からも弱音が漏れる。
「もう、やめたい……逃げたい……」
ここまでどうしようもなくなると、韓衆の言っていた全てをなかったことにするのが一番いいのではと思えてくる。
しかし、始皇帝を殺すのは容易ではない。
奇しくもそこで、二人の脳裏をさっき蒙兄弟が呟いた名がよぎった。
(扶蘇様を立てれば、あるいは……)
世をこの状況から解放したいと願う蒙兄弟と自身らが解放されたいと願う二人の方士は、図らずも同じ人物に願いを託していた。
それは不確かだが強い輝きを放つ、次世代への希望であった。




