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救護所の病人模様と、地下のトップ二人。
地下で研究が進められるようになったのは、工作部隊のとある活躍のおかげでもありました。
実験の安全に必要不可欠な、アレです。
救護所には、多くの病人が運び込まれていた。
工事現場で病により働けなくなった者は、一筋の望みをかけて救護所に運び込まれる。
だが、助けてもらえるとは限らない。そこにいる者の興味を引くものがなかったり面倒なだけだと思われたりすると、すぐ放り出される。
そもそも、病床や医師薬師の数からして全く足りていない。
その少ない人的資源を使ってやることが研究なのだから、これが労働者たちの希望になり得ないのは当然だ。
さらに、ここに入れた者の運命も決して明るいものではなかった。
「はあっ……クソッ……やっぱうつったか……」
救護所の片隅で、黥布はボロ布にくるまって震えていた。
体は燃えるように熱いはずなのに、悪寒で体中がゾクゾクして震えが止まらない。腹が猛烈に痛み、しかし出るものは出てこない。逆に食い物は体に入れる気にもならず、気分が悪くて何度も吐いた。
いわゆる、傷寒と呼ばれる重い熱病だ。
しかも、伝染性が高く時折流行を起こす疫病だ。
黥布は一週間ほど前、同じような症状で動けなくなった仲間を担いで運んだ。おそらくその時に汚物がついて、うつったのだろう。
だが、天は黥布を見捨てていなかった。
ちょうど黥布が発症した辺りで、救護所が設置されたのだ。
黥布は救護所に運び込まれ、その病が傷寒であると分かると、治療もとい治療法の実験対象となった。
その病が、大流行を起こす事があり、治療法の確立が望まれるものだったから。
そう、大流行の恐れがあるからこそ……これまで重症者はこれ以上人にうつさないように死体と一緒に焼却されていたのだ。
だが、ここができたことで一応の隔離と治療が可能になった。
おかげで、黥布は死の運命を逃れる事ができた。
(誰のおかげか知らんが助かった……。
天下に羽ばたくこの俺様が、こんな所で死んでたまるかよ!)
黥布は腕の刺青を見るたび、心を強く持つ。
(俺の人生はうまくいってる……ここまでは本当に、順調なんだ。だからここから、もっとうまくいくはずなんだ……。
ここを足掛かりに、俺は……!)
黥布は、かつて占い師にこう言われたことがあった。
罪を犯し咎人となった後、王になるであろうと。
当時は、とても信じられなかった。天下は秦という一つの帝国に覆われてしまい、一体どこに王の立つ隙があるのかと。
しかし、罪人となり刺青を入れられて驪山陵に来た時、信じる気になった。
きっかけは、ほんの些細な法令違反。ちょっと前まで当たり前にやっていたことが違法と罰せられ、悪意なき犯罪者を無数に生み出している。
そんな者たちが労働力を得るため厳しく摘発され、使い捨ての消耗品同然に工事現場に送り込まれている。
しかも作っているのは無駄にぜいたくな墓。
これっぽっちも国益のためにならないことのために、民が働き手を取られている。
この現状を前にして、痛感した……もう、この国は長くないと。
そしてこの巨大な国が倒れる時にはそれ相応の大乱が起こり、その中で流れに乗れば自分が王になることもあるかもしれない。
(……だから今はとにかく生きるんだ!
こんな所で病なんかに負けてられねえ!
そうだ、俺のは不治の病って訳じゃねえんだから……)
何としても生にしがみつくために、黥布は素直に医者たちに協力する。苦しい中必死に自分の状態を伝え、よりよい治療を求める。
幸い、傷寒は治らない病ではない。大流行を起こせば多くの死者を出すものの、それはかかった者の一部でしかない。
むしろ病気の中では、かかっても希望が持てる方である。
近くに寝かされている別の病人を見ていると、特にそう思う。
その病人は、何度も引き付けを起こしていた。大きな音がしたり誰かが触れたりするたびに、白目をむいて背を弓なりに反らせ、がくがくと体を引きつらせる。
(……ありゃ助からねえヤツだな。傷口から毒が入ったか狂犬にでも噛まれたか。
俺はまだああいうのでなかっただけマシか……)
どう見ても脳神経をやられた時の症状、おそらく狂犬病か破傷風である。工事現場では怪我が多いため、破傷風もそれなりに発生するのだ。
この手の病は、傷寒とは別の意味があって集められていた。
かかったらほぼ治ることなく、死に向かうだけの病……不治の病として、治療法を見つけるために研究されている。
それから黥布は知らないが、もう一つ目的があった。
医師や薬師とは異なる服装をした一団が、その病人を布でくるんでどこかへ運んでいく。
「これは、我々の特別な研究のためにもらい受ける」
その病人を担当していた医師は、ぺこぺこと頭を下げて素直にその病人を手放した。どうやら、見慣れぬ一団の方が地位が高いらしい。
(……つっても、治せるもんかね?
どこに行こうと、ああなった奴は助からねえと思うが……)
連れて行かれる病人を見送りながら、黥布は心の中で独りごちる。
どんな名医が診ても治らない病はあるし、あれはその類だ。ここから何かをやっても、助かる見込みがそれほどあるとは思えない。
残された時間は短いだろうに、このうえ一体何を研究するというのか……。
だが、黥布はここで考えるのをやめた。
あの男がこの後どうなろうと、黥布には関係のない話だ。顔見知りの一緒に働いていた奴がそのうち死ぬ、それだけの話だ。
黥布にできる事は、もしそいつと同郷の奴でもいてそいつの消息を聞かれた時に、死んだと答えることだけだ。
せめてそうしてやるためにも、自分は死なないように頑張らねば。
黥布は、襲い来る苦痛を少しでも流すように大きく息を吐いた。
「ほう、破傷風の患者が手に入ったか。
すぐにでも人食いの病毒を与えろ」
工作部隊たちが救護所から戻ってくると、徐福は報告を聞くなり次の指示を出した。工作部隊たちは、すぐそれを実行するべく隔離区画に向かう。
徐福はニコニコと目を細めながら、それを見送っていた。
「さて、どのような変化が出るかな……」
「ずいぶんと楽しそうだな」
尉繚が、苦笑しながら声をかけてきた。
徐福は興奮を隠そうともせず、答える。
「当たり前だ、ようやく見えてきた道を歩くことができるのだから、研究者としてこれほど嬉しい事はないさ。
おまえたちに襲撃された時はどれほど遅れるかと気を揉んでいたが、かえって早く進められそうだ」
それを言われると、尉繚の表情が固くなる。
独断で襲撃し失敗したことも、それを機に工作部隊そのものが徐福の手中に落ちたことも、尉繚にとっては業腹だ。
それを和らげるように、徐福は最近の功績を誉めてやる。
「それに、おまえの部下が仙黄草を見つけてくれたのも大きい。
あれがないとどうしても安全面から実験を控えざるを得ないが、補給の目処が立ったおかげで安全と進行を両立できる。
このような働きは、おまえの部下でなければできまい」
その賞賛に、尉繚の表情がわずかに緩む。
最近、工作部隊の植物についての専門家が素晴らしい知らせを持ってきた。
仙黄草が、大陸にも存在していて補給できるというのだ。
仙黄草は尸解の血と人食いの病毒を検出できる非常に重要な薬草だが、これまでは補給を蓬莱に頼ってきた。
その蓬莱の在庫も心もとなくなり、安全の確保がおぼつかなくなっていた。
しかし、それが大陸にあったならもう心配することはない。そこから補給すれば、これまで通り頻繁に検査を行って安全を確保できるから。
尉繚は、真摯な目で徐福を見つめて言った。
「……あれだけはできる限り早く見つけるよう、厳命しておいた。
感染者が人食い死体になるどころか発症する前に見つけられるあれは、この実験……引いてはこの国の生命線だ。
たとえおまえたちが何か間違いを犯したとしても、これがあれば迅速に検査して感染者を見つけることで国を守れるかもしれん」
国を守る事は尉繚の本意である。
だから尉繚は仙黄草の捜索を地上での最優先任務と位置づけ、各地の人脈を総動員して迅速に発見させたのだ。
「今、できるだけ早く仙黄草をここに届けるよう人を動かしている。
万が一のことがあっても、すぐに大人数を検査できるようにな」
尉繚の皮肉交じりの一言に、徐福は真面目にうなずいた。
「ああ、そいつはありがたい。
冗談でなく、どんなに気を付けていても事故は起こる。起こった時の備えを整えておくことは、何より重要だ」
徐福も、これについては尉繚と同じ考えだ。
備えられる資材が十分にあるなら、早く備えておいて損はない。
特にこの実験は大きな危険を孕んでいるのだから、国や自分たちが滅びないために備えは不可欠だ。
ここから様々な病をかけ合わせることで、危険がどのように変化するか分からないのだから。
それを踏まえて、徐福はもう一つ指示を出す。
「尉繚よ、忙しいところ申し訳ないが、仙黄草がある地域で伝承の聞き取り調査もやってくれぬか。
仙黄草があるということは、そこが尸解の民の元の居住地であった可能性が高い。もしかしたら、周囲に何か伝承が残っているかもしれん。
仙人の村や人食い死体について、何か分かったら教えてくれ」
「なるほど……それも安全対策に生かせるならば、労はいとわぬよ」
安全に研究を進めたい、そのために必要な資材と情報は最優先で入手すべきだという点で、二人の認識は一致していた。
こうして安全対策を進めながら、その一方では危険な病を次々と集めて運び込んでいく。
徐福たちは両方の意味で、順調に研究を進めていた。




