エマの恋1
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戸締りをしっかりとするから、と言って今日はエドには家に帰ってもらった。
店は軌道にのって順風満帆だが、マリーとエマは、いつまでもこのままではいられないのかもしれない。エマはマリーに付き合ってここまで一緒に居てくれたが、本来ならとっくに結婚していてもおかしくない年齢だ。
エマに甘えたままじゃダメだなと思うが、もしもエマが遠くに行ってしまうかもと考えるとそれだけで暗澹たる気持ちになってしまう。
エマも何か思うところがあるのか、その日の夕食は二人ともほとんど会話しないままだった。
食後にマリーはいつものようにお茶を淹れる。
なんとなく、甘いお茶のほうがいいような気がして、ミルクとはちみつをたっぷりいれたお茶のカップをエマにも渡す。
ゆっくりとカップを傾けてしばし無言でお茶を飲む。
「ねえ・・エマは結婚とか考えていないの?」
恐る恐るマリーはエマに訊ねてみた。
「うーん・・そうねえ・・まあ、それよりもさ、私マリーに言わなきゃいけないことあって」
「うん、なあに?」
「わたしね、子どもが出来たかも」
ぶはっ。
マリーは淑女にあるまじき勢いでお茶を吹き出した。
エマが『なにやってるのよ』と言いながら布巾で机とびしょびしょのマリーを拭く。その間マリーは、エマが何を言っているのか分からずパクパクと魚のように口を開け閉めしているだけだった。
「まだ分からないんだけど、月のものが遅れていて・・でももし出来ていたら、店をどうしようかなって。出産の頃は人を雇わないといけないかもしれないし・・相談しなきゃいけないなって思ってて・・。
ねえ、マリー?ちょっと、黙ってないで何か言ってよ」
「え・・・な、なにか・・なにか・・?あっ・・結婚してください・・???」
「落ち着いてマリー。どう考えてもマリーの子じゃないし、女同士は結婚出来ないわ」
「ええーー?!こっ・・子どもって?!エマさあああん!ちょっと何言っているのか分からないわ!エマはいつの間に結婚していたの?!あああ相手は誰?!」
マリーは全く予想もしていなかったエマの言葉に混乱する一方だったが、ふと見ると、エマのカップを持つ手が小さく震えているのが目に入った。
(エマ・・震えている・・エマも本当はすごく悩んでいたのかも・・)
いつもと変わらない口調で冷静に話しているようにみえるが、落ち着いてみてみればエマは泣きそうなのに無理やりやせ我慢して平静を装っているのだとマリーは気が付いた。
混乱していた頭がすうっと冷えて、マリーはエマの隣に座り直し、手を握って静かな声で問いかけた。
「ごめん、取り乱して。ちゃんと聞くから、どうしてそうなったのか全部話して。それから二人でこれからの事を考えよう?」
マリーがそういうとエマはフッと肩の力を抜いて、泣きそうな顔でほほ笑んだ。
「うん・・そうだね・・最初から話すね・・」
エマはマリーの肩に額を乗せながら、小さな声で話だした。
***
その日エマはパンの配達のため王宮に来ていた。
王宮にある国軍宿舎へのパンの配達は、基本的にはエドとサムが手伝いに来られる日は彼らにお願いしている。
それ以外の日はエマが運ぶ事にしている。基本、マリーがパンの仕込みをしているからというのもあるが、王宮に出入りする貴族にマリーの顔を晒したくないからだ。
その日はパンの配達のほかに、納品に関する相談で、エマは宿舎にパンを届けたあと、厨房の責任者と話し合いをするため執務棟にある小さな執務室に通されていた。
納品に関する相談というのは、現在納めている塩パンが好評なので、単価を上げるから納品数をもっと増やしてもらえないだろうかという話だった。
マリーと話し合って、仕込みから考えて可能な数の上限を算出して、これならまあ出来るだろうという数を納品することになり今回契約書を新たに交わすことになったのだ。
厨房の責任者と話をするのだと思っていたのだが、いざ執務室に行ってみると、そこに居たのは王太子付きの政務官であるノアだった。
「あら?ノアさん?なんで政務官様がパン屋との契約を担当するの?部署移動でもしたの?殿下の側近はクビになったのかしら」
「いや、久しくアンタたちの店にも行っていないし・・。
王太子の御用達ってことになっている店だから契約に関することは俺が担当することにしたんだ。久しぶりだな・・・エマさんは相変わらずだな」
「そう・・政務官様も相変わらず忙しくて寝不足そうな顔をしているわね」
店で会う時と変わらない砕けた口調で話してしまうが、本来エマがそんな気安く話すような身分の相手ではない。だが今更改まるのも変な感じがして、お互いぎこちないまま契約書を作成した。
契約書の内容を確認しサインをするだけなので、大した時間もかからずに終了した。
「えっと、これで終わりよね?じゃあ・・帰るわ。政務官様も忙しいでしょうし」
「あー・・いやせっかくだし少し話せないか?ひょっとしたらもう店には顔を出せなくなるかもしれないし・・」
ノアはそういってソファの方を指し示す。
「そうなの?マリーが寂しがっていたけど、まあ元々王太子様が出入りしていいような店じゃないものね。残念だけど、もう政務官様ともお会いすることは無いってことね?残念だわ」
「全然残念そうじゃなく言われてもな。エマさんも少しは寂しがってくれよ・・。
いや、それだけじゃなくてな。
俺には歳の離れた兄貴がいるんだが、兄貴のとこには子どもがいないんだ。このままだと家を継ぐ人間が居なくなるから、俺に早く結婚して子どもを儲けろと最近うるさくってな。
それで、俺が結婚したら爵位を譲って自分は静養地で若隠居したいんだと」
そんな話を平民の自分に言われても・・とエマは思うが、政務官の進退問題など下手な人に言えないのだろう。宮仕えと無関係な自分に愚痴りたいのかもしれない。
「はあ・・それでノアさんは結婚して領地に帰るの?ノアさんは殿下と同じく女なんて煩わしいっていうタイプかと思っていたわ。
結局、意外と無難な人生を選ぶのね。それならちゃんとお相手の女性を大事にしてあげないと、殿下みたいなことになるわよ・・・」
「イヤイヤイヤ、殿下と一緒にしないでくれよ。俺は殿下と違ってちゃんと女性の扱いくらい心得ているよ。これでも俺はかなり女性にもてるんだよ。人をヘタレ扱いしないでくれ」
「ふーん・・どうだか・・」
ニヤニヤするエマにノアはムスッとした表情で決まり悪そうに横を向いた。
エマはさすがにからかいすぎたかと思い、話題を切り上げる。
「じゃあ、もしかすると本当に会えるのは今日で最後かもしれないって事なのね、ノアさんにはいろいろお世話になったから感謝しているわ・・じゃあ・・・」
そういってエマは立ち上がり手を差し出す。ノアはまだ何か言いたそうにしていたが、黙ったままエマに倣い右手を差し出した。
ノアを真っ直ぐ見つめるエマは、ニコッと笑うと差し出していた右手でノアの胸元のシャツをぐいっと引っ張り、驚くノアに顔に寄せキスをした。
目を見開いたまま固まるノアの唇を、自分のそれで食むように口づける。
唇を合わせていたのはほんの一瞬で、エマはすぐに離れ、呆然とするノアに微笑みかける。
「とても女性の扱いに慣れているようには見えないけれど・・まあ頑張ってね。これは私からの餞別ってことで。じゃあさようなら。元気でね、政務官様」
ノアが固まったまま動かないのでエマは勝手に挨拶をして帰ろうとした。だが、背を向けたエマの腕をノアが掴んで引き留めた。
「・・・っとにアンタは・・っああもう!」
ノアはたまりかねたように叫んでエマを抱きすくめ、そのままソファに押し倒した。
かみつくような勢いでエマの唇を自分のそれで塞ぐ。
そのままノアは、何かに急かされるようにやや乱暴とも思えるやり方でエマを抱いた。
どうしようもう先謝っとこう。ウチのノアさんがすいません。




