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婚姻の解消と祖国への強制送還を告げられた姫は、それに反論することもなく、何の感情もこもらないような瞳でクリストファーをぼんやりと見返すだけだった。
クリストファーは少し眉を顰めて姫の様子を伺ったが、やがて諦めたように目線を逸らした。
影に抱かれるマリーを見ると、先程までぐったりとしていた彼女の目が開いてクリストファーのほうをぼんやりと見ていた。
いつから気づいていたのだろうか?二度と会うことは無いと決意したのにマリーにこのような形で再会してしまい、クリストファーは複雑な思いに胸が苦しくなった。思わず彼女の名を呼ぶ。
「マリー…」
その瞬間、マリーに向かってガラスの水差しが投げつけられた。
彼女を抱く影はそれを冷静に避けたが、周りにいた人間に飛び散った水がかかり、一気に皆が殺気立つ。
ベッドサイドにある水差しを姫がマリーに向かって投げたのだ。
「なにをする!!」
クリストファーは思わず抜刀し姫に剣先を突きつける。先ほどまで表情を無くしていた姫が、今は眦をつり上げ、怒りで顔は紅潮している。興奮しているのか、肩で息をする彼女を見てクリストファーはその異様な変化にたじろいだ。
「…姫はなぜマリーを害そうとするのだ。そんな事をしても、あなたに何のメリットもない筈だ」
姫は嘲るように笑う。が、クリストファーを見つめるうちにその瞳にみるみる涙が盛り上がってきた。
「…最初にその女を見た時から、わたくしにはわかっていましたわ…。
わたくしには無いものを全て持った女ですもの、殿下はきっとひとめでも見たら夢中になると。そうしたらもう二度とあなたはわたくしを顧みないでしょう?
だから絶対にあなたに会わせたくなかった。あなたの瞳に一瞬だってその女を映したくなかった…」
そう言うと姫は大粒の涙を流して顔を伏せた。
クリストファーは思ってもみなかった姫の言葉に戸惑う。
「姫…は…私がマリーと出会うのが嫌で?そんな、そんな事で彼女を傷つけようとしたのか?」
クリストファーの言葉に姫は激高する。
「そんな事?!そうでしょうね!あなたにとってはわたくしの気持ちなど取るに足らない事でしょうね!
殿下がその女の名を愛おしげに呼ぶのを、わたくしが今どんな気持ちで聞いているかなんて考えもしないのでしょうね!」
クリストファーは返事が出来ない。全くもって想定外の姫の反応に対処できずにいた。
誰もが沈黙する中、エマが思わずといった感じに発言した。
「姫…殿下のことが好きだったんでしょう?」
「「「ええっ?!」」」
クリストファーやノア、護衛の男達も思わず声をあげた。
「えっ?だって初夜からずっと拒否してるのに?だったら何故拒否するわけ?!」
ノアが若干混乱した様子で何故かエマに質問している。
「何でみんな予想外ですって顔してるのよ?
姫は、殿下が好きだからこそ…初夜が嫌だったんじゃないの?」
エマがそう言って姫のほうを見やる。
姫は視線を落としたまま、ポツリと言った。
「殿下は…わたくしの名をご存知ですか?」
急に話を振られたクリストファーは戸惑いながらも答える。
「は?名?それは…もちろん知っているが?だからなんだ」
姫は悲しげに笑ってクリストファーを見る。
「…初めてお会いしてから、今まで、あなたがわたくしの名を呼んでくれた事がありますか?
…挙式の間中も、あなたはわたくしの名を呼ぶ事も、微笑みかけることもなかった。
そんな方と初夜が迎えられますか?
そんなわたくしの気持ちを慮る事もなく、面倒だと言わんばかりの態度でいらしたではありませんか!
なのに何故わたくしばかりが責められるのです!」
姫の言葉に誰も答えられずに沈黙する。
いつまでも続く長い沈黙を破り、クリストファーが姫に向き直り小さな声で言った。
「…すまなかった、ヴィクトリア…」
クリストファーの言葉に驚いたように目を瞠ると、苦しげに顔をゆがめた。
「いまさら…呼ぶなど…卑怯ですわ…」
あとは姫の嗚咽が響くばかりで、それ以上言葉を発するものは居なかった。
***
姫は隣国の迎えが来るまで、身分の高いものが入る座敷牢に幽閉される事となった。
さすがに縄は打たれなかったが、兵士に両脇を固められ連行される。
その場に立ち会ったクリストファーに姫が言葉を投げかけてきた。
「殿下はわたくしの考えを醜いとおっしゃいましたね?」
「ああ、身分を笠に着て他者を傷つけるなど人として有るまじき行為だ。
姫は、従者や自分より身分の低い貴族の娘などどうしようと構わないと思っているのだろう?
そのような考え方でいたからこそこのような事態を引き起こしたのだ。
祖国であなたの扱いがどうなるかわからないが、反省をせねば極刑は免れぬぞ」
それを聞いた姫はフッと笑い、軽蔑したようにクリストファーを見る。
「ご自身の事をよほど高潔であると信じてらっしゃるようですが、殿下はわたくしと同じ穴の狢ですわよ?お気づきでないならわたしが教えて差し上げましょう」
姫の言葉にクリストファーを含む周りの人間が気色ばむ。それに構わず姫は言葉を続けた。
「あのマリーとかいう女を好いておられるようですけど、あなたはあの女の胎を金で買ったのですよ?その意味をお分かりです?
身分を笠に着て、一人の令嬢の人生を好き勝手にしようとしたのですよ」
「わ、私は代理母など反対した!」
「本当に殿下が反対なら阻止できた筈です。ですがあなたは宰相らが計画を進めるのを放置した。その結果がこれですわよ?
あの女に会うまでは、訳ありの令嬢の一人や二人、どうでもいいと、どうなろうと構わないと思ってらしたからでしょう?」
クリストファーは何か反論しようと口を開きかけたが、言える言葉が見つからず口を噤んだ。
その様子を眺めていた姫は、微笑んでクリストファーに告げる。
「わたくし達はとてもお似合いの、似た者夫婦でございましたね。ではお元気で、クリストファー様」
最後に彼の名を呼び姫は連行されて行った。
それを見送るクリストファーは、姫の言葉がずっと澱のように腹の底に溜まったままだった。
これにて姫は退場です!
お疲れさまでした!
今思い出したんですけど、まだマリーパパがいたんですよね…ああ…めんどいのがまだ居たなあと若干凹みました(自業自得)




