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二十四話「窮地」



「おかあさん。なんでウチにはおとうさんがいないの?」

 まだミウが幼児だった頃の記憶だ。

 その時からミウには母親と祖父しか身近におらず、父親はどこにもいなかった。

 だから、当然と言えば当然の疑問であった。ミウのような片親もちらほらといたが、どちらかと言えば両親共に揃っている家の方が多かった。

「おとうさんはどこにいるの? どこかにおでかけしてるの?」

「……そうね。ミウにはまだ話していなかったものね」

 月夜の綺麗な晩だった。

 淡い光に照らされつつ、ミウと母は玄関そばの梯子に足をぶらつかせながら月見に興じていた。

 本来なら、体の弱い母にあまりが夜の冷えた外気に触れさせるべきではないのだが、その日は体調がすこぶる良好だった事と、何故かこの時に限って母本人がミウと月見をしたがった事もあり、二人で揚々と話し込んでいた。

「ミウのお父さんはね、空の上にいるのよ」

「おそらー? おそらのどこー?」

「空の上よ。ずっとずっと空の上──雲よりも遠い所。そこから私達を見守ってくれているのよ」

「どうしてー? どうしてミウのところにきてくれないのー?」

「……そう、ね。行きたくてもいけないのよ。どうしてもね」

「えー? へんなのー?」

 ミウが小首を傾げて、隣りに座る母を見上げる。その可愛らしい仕草に、母は慈愛に満ちた笑みでミウの頭を撫でた。

「ミウには、まだ少し難しくかったかしらね」

「よくわかんなーい。じゃあ、おかあさんとウチとで、おとうさんのところにはいけないの?」

「うーん。今すぐは無理ねぇ」

「なんでー? ウチ、おとうさんにあってみたい。だってウチ、おとうさんにあったことないもん。いまからあってみたい」

「それはダメよ。決してダメ」

 いつになく強めの口調で、母がミウに語りかける。

「お父さんに会いに行くのはまだ早過ぎるわ。お父さんに会うにはね、証がいるのよ」

「あかしー? なんのー?」



「ちゃんと元気に、ずーっと長生きする事よ」



 母がミウの頬に触れて、魂に刻むかのように粛々と言の葉を紡ぐ。

「毎日健康に過ごして、立派に成長して、いつか好きな人と家族を作って、お祖父ちゃんやお母さんよりもずっとずっと長生きして──そうしたら、きっとお父さんにも会えるから」

「ぜんぜんわかんなーい。なにいってるのおかあさん」

 幼児という事もあって、理解が及ばずに眉をひそめるミウに、母はクスリと笑みを零して手を伸ばした。

「今はまだ分からなくていいわ。その内、分かる日がきっとくるから」

 母に優しく抱き寄せられ、心地よい温もりに包まれるミウ。

 甘い匂いがミウの鼻腔を擽る。体付きはとても華奢なのに、抱かれているだけで安堵感を覚える。

 いつしか、ミウは母の腕の中で微睡み。

 母と月見をしたおぼろげな記憶は、ここで最後だった。




 ブラッドドラゴンが、咆哮を上げながら、その巨体を起こす。

「あ……あ……っ」

 声が出ない。足も竦んで、後ずさる事もできない。ブラッドドラゴンのその威容さに、ミウは完全に圧倒されていた。

 ギョロリと、その獰猛な瞳がミウに向けられる。そのどう見ても友好的ではたい──むしろ敵愾心に満ちた雰囲気に、ようやくミウは正気を取り戻したようにハッとした顔で一歩後退した。

 とは言え、背後は行き止まりだ。あるのはせいぜい生い茂る百薬草だけ。すでに目的の百薬草は手に入れたが、ブラッドドラゴンを倒す決定打にはなりえない。

 兎にも角にも、今はブラッドドラゴンから逃げる事の方が先決だ。

 いくら身体能力に優れている獣人とは言え、ブラッドドラゴンに勝てるはずなどないのだから。



 ──でも、どうやって逃げよう? どうやって逃げたらいい?



 後方は言わずもがな、前方だってブラッドドラゴンの巨体が邪魔をして、出入り口までの道を塞がれている。出入り口まで行こうと思ったら、まずこのブラッドドラゴンをやり過ごさなければならない。

 しかしながら、相手は同胞を何十人と殺した文字通りの怪物だ──巨体に似合わず素早い動作が取れると考えておいた方が得策だろう。

 まして、ミウはやっと十歳になったばかりの少女──正直言って、五体満足で逃げきれるどうかすら怪しい。



 ──それでも、ウチは絶対百薬草を持って帰る。お母さんが待ってるんだ!



 立ち塞がるブラッドドラゴンを見据えながら、ミウは百薬草を懐に隠す。そして思考をフル回転させる。

 今のところ、ブラッドドラゴンがここを離れる気配はない。それどころか、そブラッドドラゴンは侵入者であるミウにゆっくりとその巨体を向けようとしていた。

 そして、僅かにブラッドドラゴンの口が開かれようとしているのを見て、ミウは表情を凍りつかせた。



 ──ひょっとして、炎を吐こうとしてる!?



 昔、祖父から聞いた事がある。大抵の竜族がそうであるように、ブラッドドラゴンもまた炎を吐く事ができるのだと。

 その灼熱の炎は肉を焼き骨をも残さず灰と化す。その身に火が回れば、もはや助かるすべはない。

 だが同時に、炎を吐くまでにタイムラグがある事も、ミウは教えられていた。



 ──チャンスは一度だけ。炎を吐く寸前にブラッドドラゴンの足の隙間を通り抜けさえすれば……!



 ブラッドドラゴンの一挙手一投足見逃すまいと、ミウは視線を尖らせる。

 ブラッドドラゴンは確かに強大だ。だが決して隙がないわけではない。いくら骨をも焦がす灼熱の炎といえど、股ぐらに入り込まれては、向こうも安易に炎を吐けないはずである。下手に炎をミウに向けて吐けば、自分の身さえも焼きかねないのだから。

 これが、この危機的状況から脱せる唯一の方法。

 ミウが無事に洞穴から脱出できる、最も冴えたやり方のはずだ。

 そうして、ついに。



 ブラッドドラゴンの口が喉の奥まで見えそうなほど開かれた。



 ──今だっ!



 ブラッドドラゴンが炎を吐こうとする直前、ミウは全速力で疾走した。

 ブラッドドラゴンが炎を吐く際、一度深く息を吸い込む習性がある。当然、それまではブラッドドラゴンの攻撃を受ける事はない。ミウはその隙を突いて走り出したのだ。

 目指すは、ブラッドドラゴンの股下を超えた向こう──出入り口!

 中間地点まで一気に来た所で、背後からごうと何かが勢いよく燃え盛ったような音が響き渡った。

 おそらくは、ブラッドドラゴンが火焔を放射したのだろう。しかしミウは振り返るような真似はせず、ただ出入り口一点のみを目指して駆け抜ける。

 背に広がる炎の熱を感じながは、ミウはブラッドドラゴンの股ぐらの中へと入る。ここまでは炎も来ないはずだ。

 だが、まだ油断はできない。このまま休む間もなく、出入り口まで突っ切る!

 そして、ブラッドドラゴンの股下をも越えて、ミウはついに出入り口付近まで無事に辿り着く事ができた。



 ──やった! あそこにさえ入っちゃえば、ブラッドドラゴンも簡単には付いて来れないよね!



 ブラッドドラゴンが先ほどまでいた空間とは違い、通路の方は幾分狭い構造になっている。それこそ、結構身を屈めないと、ブラッドドラゴンの体ではそうそう簡単に通り抜けないはずだ。

 最悪、ブラッドドラゴンが通路に向けて炎を吐く可能性も否定できないが、幸い、身を守るための巨石ならいくらでもある。あとはブラッドドラゴンがまごついている間に、この洞穴が抜け出せばいいだけだ。



 ──待っててね、お母さん。すぐに病気を治してあげるからね!



 などと、最後に気を緩めてしまったせいだろうか。



 いつの間にかすぐ頭上にまで迫っていたブラッドドラゴンの尻尾に、ミウは直前になるまで気付けなかった。

「え──?」

 自分の全身をも覆う黒い影に、ミウは今更ながら目を丸くして頭上を見やる。

 そこにあったのは、ブラッドドラゴンの雄々しい尻尾。

 ミウの華奢な体なんて容易く潰せてしまえそうな、凶悪な代物。

「────っっ!?」

 それでもとっさに真横へと飛び退けたのは、獣人の類まれなる身体能力のおかげだろう──ブラッドドラゴンの巨大な尻尾が直撃するより早く、ミウは回避に成功した。

 だが、猛烈な勢いで振り下ろされた際の衝撃までは防ぐ事はできず、ミウは枯葉のごとく吹き飛ばされた。

「きゃあああああっ!?」

 飛び散る石つぶてが容赦無くミウの体に次々と当たる。

 衝撃波に呑まれ、悲鳴を上げながら宙に体を投げ打されたミウは、そのままろくに受け身も取れず、強かに背中を壁にぶつけた。

「かはあっ!」

 肺に溜まった空気が、まるで急激に押し付けたように口から漏れる。そして重力に従うようにミウは右肩から地面に落ちていった。

 ドスン! という落下音のすぐ後に、ズキンと鈍痛が走る。肩から落ちたおかげで、どうにか懐に入れていた百薬草を死守できたが、その代償にダメージが大きく残り、即座に立ち上がれそうになかった。

「けほけほっ! うっ……た、立たなきゃ。お母さんの所に、行かなきゃ……」

 激痛が全身に伝わる中、ミウは決死の思いでどうにか上半身だけでも起こす。

 と。

 ブラッドドラゴンの影が、ミウの全てを覆い被さった。

「あ…………」

 こちらを遥かな高みから睥睨しているブラッドドラゴンに、ミウは顔面を硬直させて絶句した。

 固まったままでいるミウに、ブラッドドラゴンが咆哮を上げながら牙を剥く。ミウを喰い殺す気なのだ。

 逃げようにも、足が竦んでしまって思うように動かせない。体を起こすので精一杯で抵抗する余力すらなかった。

 せっかくここまで来たのに。やっと百薬草を手にいれたというのに。これで母の病気が治せると思ったのに。

 こんな所で、全てが台無しになってしまうだなんて。

 悔し涙で視界が滲む。もうどうする事もできない状況に、ミウは歯を食いしばった。



 ──ごめんね、お母さん。ウチ、なんの役にも立てなかった……。



 瞳から大粒の涙を流して、心の内で母に謝罪した、その瞬間――



「ミウううううううううっ!!」



 と。

 どこからか、ここにいるはずのない勇士の声が、高らかに響き渡った。




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