二十三話「接触」
ミウが竜の巣へと辿り着いた頃、勇士は目印である碧い実を頼りに、全力で疾駆していた。
服はいつもの──回復術士専用の衣類へと着替えてある。この服を『いつもの』と称して、心ならず皮肉じみた哀愁を感じるものがあった。だがこれまでの苦難を共にしてきたせいか、それなりに愛着も沸いてきてしまっている勇士なのだった。洗濯されて清潔な状態になっているので、尚更着心地が良い。
洗濯と言えば、
『あれだけ土まみれのシワまみれだったのにどこも解れが無いなんて、不思議な服ですな』
ランドに手渡された時、そう言われた。
思えば確かに奇妙だと思う。あれだけ獣道を走って、時に死闘を繰り広げておきながら、せいぜい土などで汚れている程度に収まっている。枝で引っ掻いた場面もあったろうに、だ。
ひょっとすると、ファンタジーな世界という事もあって、耐久力が並々ならぬものがあるのだろうか。だとすると案外良い職業に就いた気もする。魔物を一撃で倒す、破格の能力を含めて。
──まあでも、魔物の角や牙で貫かれたりしたら、さすがに破けるんだろうけど。みんなも割りと破けてたりしてたし。
ここでいうみんなというのは勇士のクラスメイト──もはや想起したくもない唾棄すべき存在であるところの者達の事ではあるが、彼ら彼女らも普通に行動している分には無事に済んでいたが、戦闘で怪我を追った場合などは当然のように服が破けていた。いくら耐久力があるといっても武器や牙で斬りつけられたら別という事なのだろう。服の上からでも打ち身や痣は残るし。
ともあれ、相棒とも言える法衣を見に纏いながら、ランドに指示された通りの道をひたすら走る
そうして走りながら、ランドと祠にいた際の記憶を回想する。
「ゆ、ユーシ殿!? 何を言っておるのか! あまりにも無謀じゃ!」
勇士がブラッドドラゴンを討伐すると口にした際、案の定というか予想通り、ランドは見るからに狼狽えて、そう説得された。
「あのブラッドドラゴンですぞ!? 集落全ての者を率いても勝てるかも分からぬというのに、ユーシ殿お一人で行かれるなど、危険過ぎる!」
ブラッドドラゴンの強さはよく知っている。あくまでもゲーム内での知識でしかないが、それでもブラッドドラゴンがこれまでの魔物達とは比べものにならないほど脅威だというのは理解しているつもりだ。
「それでも、ぼくは行きます。何もせず指を咥えているだけなんて、ぼくにはできません」
迷いが無いと言えば嘘になる。
恐れが無いと言えば虚栄になる。
だが今こうしている間にも、ミウに危険が迫っているかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなかった。すぐにでもミウの元へと駆け付けたかった。
お姫様を助ける騎士を気取るつもりはない。
純粋にミウを助けたい。
ただ、それだけだ。
「……どうやら、決心は固いようですな」
しばらくの静寂の後、ランドは深く息を吐いて、重々しく口を開いた。
「本来なら力付くでも止めて、我々狼族だけで解決すべきなんでしょうな。だが族長として、この村の者達を無駄死にさせるような真似もできぬ。だからと言って儂一人加わったところでどうにかできる相手でもない」
祖父として、情けない限りじゃが。
そう力無く漏らして、ランドは勇士に頭を下げた。
「申しわけありませぬ、ユーシ殿。こんな事、貴方に頼める義理ではないのですが」
どうかミウを、助けてくだされ。
年長者であるランドに深々と頭を下げられ、勇士は一瞬腰が引けそうになりながらも、しっかり足に地を付けてこう告げた。
「はい。ミウはぼくが必ず連れ帰ってみせます──!」
以上が、勇士がランドと会話を交わした、最後の記憶である。
最後の記憶というと縁起でもない感じだが、無論死ぬつもりは微塵たりともない。ミウを助けに行って、自分が死んでしまっては意味がないのだ。
仮に勇士の命を犠牲にしてミウを助けられたとしても、あの子は絶対に喜ばない。むしろ余計な重荷を背負わせるだけだ。
これ以上、ミウの心に負担を掛けてはならない。
ミウも母親を救って、勇士自身も無事に帰る。
ハッピーエンド以外は、決して認めない。
「待っててミウ。ぼくも今からそっちに行くから──!」
一方、竜の巣へと足を踏み入れたミウは、薄暗い洞穴の中を黙々と歩いていた。
洞穴はとても広く、いかにも巨大なドラゴンが難なく住めそうなほど奥行がある。結構進んだつもりだったのだが、未だに最深部まで行き当たらない。
──百薬草があるのは、やっぱり一番奥の方なのかな?
『遠見の鏡』で見た時は、ブラッドドラゴンの尾らしきものも映り込んでいたので、あるとしたら最も広い空間だと思うが、まだまだ先は長そうである。
念の為、近くに百薬草が生えているかもしれないので、それとなく周りも注視しているが、現時点では苔ぐらいしか見当たらない。そんな簡単にゲットとはいかないらしい。
「う〜ん。できたらブラッドドラゴンに会いたくないんだけどなあ」
悩ましげに眉根を寄せて、ミウは両肩を抱いて溜め息を吐く。
今更逃げ帰るつもりはないが、あわよくばブラッドドラゴンを戦わずに済めべばと期待していたので、その分落胆も大きい。道すがら百薬草を見つけれたら、こんな気味の悪い洞穴に長居などしないのだが。
実際問題、ブラッドドラゴンに遭遇した場合の対処法を、ミウは持ち合わせていない。一刻も早く母親を助けたい一心で、猪突猛進的に危険地帯へと踏み入ってしまったわけであるが、殆ど武器も策もなく無防備さながらに挑んでしまったのである。
猛進というか、妄信というか。
きっとどうにかなるという楽観的を思考を強引に浮かべて──内心の小胆を隅に押し通して進行してきたが、ブラッドドラゴンへと刻一刻と迫っているという現実が、恐怖となってミウの精神を蝕む。
怖くないはずがない。獣人の子供の中でも優れた身体能力──低級の魔物くらいならあっさりやり過ごせるだけの膂力を持ち合わせはいるが、それもブラッドドラゴン相手ではお話にもならないだろう。相手にしてみれば紙切れも同然だ。
会わずに済むなら、それに越した事はない。
会って済ませなければならないのなら、そうせざるを得ない。
退却という二文字なんて、今のミウにはないのだから。
恐る恐る奥へと進む内、次第に巨大な気配を──竜の息吹というべき呼吸音が、ミウの耳に響いた。
最初はどこからか空気が流れ出ているのかと思ったが、自然の産物ではなく生物特有の――それも巨躯ならではの強い生気を感じた。
疑う余地もない。この先にブラッドドラゴンがいる。
そしておそらく、百薬草も。
「すぅ、はぁ。すぅ、はあぁ…………よし」
深呼吸を繰り返し、いまひとつ二の足を踏めずにいた自分を鼓舞して、ようやく一歩踏み出す。
心臓がばくばくと高鳴る。ついに此処まで来てしまったというプレッシャーが、ミウの小さな体に押しかかる。
暑くもないのに嫌な汗が背に伝う。緊張が全身に走る。
ややあって、他と比べて妙に光が漏れ出ている場所に来た。ミウが現在いる地点ではそこまでではないが、奥の方から僅かながらに光の束が穴蔵と思わしき空間を照らしている。ひょっとすると、天井のどこかが吹き抜けているのかもしれない。
最深の注意を払いながら、抜き足差し足で奥に近寄る。
そうして──
「うわっ…………」
いた。
そこに鎮座していた。
見上げなければならないほどの巨大な体。爬虫類的な鱗のある躯に、頑丈そうな爪を生やした四肢。頭には二本の曲がりくねった長い角。背にはトサカが生えており、全体的にいかにもドラゴンといったフォルムだ。
そして、彼の名を宿す何よりの証。
全身を彩る血のような真紅。
ブラッドドラゴン──。
「こ、こんなにでかいんだ……」
見上げなければならないほどと先述したが、それはああして鎮座──というより単に寝そべっているだけなのだが、実際に立ち上がったら、更にその威容を増すことだろう。予想していたより斜め上過ぎて、思わず呆然と立ち尽くしてしまう。
ちなみに、此処だけ明るかった原因は、やはりというべきか、天井がやや吹き抜けていたせいだった。もっともドラゴンが住処とするだけあって、場が広大過ぎるせいか、全てを照らせているわけではないが。
「あ、そうだ百薬草……!」
圧倒されている場合ではなかった。早く目的の物を探さなねば。
視線を四方八方に巡らせて、百薬草のある箇所を探す。
──あった! 見つけた!
時置いて、ブラッドドラゴンの背後ろに、遠見の鏡で見たままの植物が、ひっそりと生えているのが分かった。
見た目は綿毛になる前のタンポポに似ている。花弁は黄色ではなく雪のような真白で、葉が雄々しく空へと伸びていた。
間違いない。百薬草だ。
だが、場所が問題だ。百薬草を入手するには、どうしてもブラッドドラゴンのそばに寄る必要がある。今はどうにか安眠しているようなので、すぐに目覚めたりはしないだろうが、ミウが近付いた事によって、気配を察知される懸念がある。
しかし、近付く以外に方法はない。むしろ眠りに付いているだけ好機と見るだけだ。仮にこれが起きている状態だったら、接近すらままならなかっただろうし。
故に、行くなら今しかない。
ごくり、と生唾を嚥下して、ミウはそっとブラッドドラゴンのテリトリー内に侵入する。
足音を立てず、息も潜め、ミウは少しずつ百薬草との距離を詰める。
ブラッドドラゴンの様子を横目で窺いつつ、ミウは順調に百薬草へと歩を進める。
そして、ついに百薬草を掴める位置まで辿り着き──
──やった! これでお母さんの病気を治せる!
と。
百薬草へと手を伸ばそうとした──その時だった。
突如、寝ていたはずのブラッドドラゴンが、鼓膜が破れそうなほどの咆哮を上げた。




