第47話 平和への道
中央同盟と協商国が世界の覇権をかけて戦った第一次世界大戦は、5年にわたる血みどろの戦の果てに協商国の勝利で終わった。
1918年の初夏、ブレスト=リトフスクにてヒンデンブルク元帥はドイツ帝国を代表して、協商国に対する降伏文書に署名した。
これにより最高司令官コルニーロフ元帥に率いられたロシア帝国軍は、欧州最強の陸軍国ドイツを打倒した主役として、歴史にその名を刻み込んだのである。
そしてドイツ降伏から半年後、ケーニヒスベルクにて戦勝国の最高首脳部による会談が開始された。
皇帝ニコライ2世とイギリス首相デイビッド・ロイド=ジョージ、フランス首相ジョルジュ・クレマンソーの三巨頭による会談は、さらに半年もの長きにわたって続いた。
ブレスト=リトフスク条約からケーニヒスベルク会議まで半年もの時間がかかったのは、ひとえにドイツ南部で発生したバイエルン・レーテ共和国およびアルザス=ロレーヌ共和国と、ハンガリーで発生したハンガリー評議会共和国という、3つの共産主義政権による反乱を鎮圧するためであった。
この鎮圧作戦で主導的な役割を果たしたのは、今や欧州最大最強の陸軍国家となったロシア帝国である。
ヴィルヘルム2世の失墜後、名実ともにヨーロッパ最強の君主となったニコライ2世は新たな国際秩序を再建すべく「欧州の解放者」としてバイエルンとアルザス=ロレーヌ、そしてハンガリーの3国を共産主義国から「解放」していった。
この「解放」戦争に対してロシアの影響力が増大することを嫌った英仏は一切の援助を行なわなかったものの、ロシア帝国はかつての敵であったドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー二重帝国の義勇兵と協力して共産主義政権を倒していった。
共産主義政権の方も、頼りにしていたレーニンの共産フランスが援助を拒否したことや、共産主義革命から日が浅かったこともあって瞬く間にロシア軍に撃破されていく。
そして1919年にようやくフランス北部のコミューン政権をのぞく全ての共産主義政権が崩壊すると、協商国は本格的に中央同盟国の戦後処理へと動き出す。
皇帝ニコライ2世の関心は、おおむね次の3点に集約できた。
1点目に、ドイツ軍の侵攻によってロシア帝国が被った甚大な被害に対する賠償問題。2点目に、戦後における中央同盟国の政治的影響圏の問題、そして3点目にフランスの共産主義政権に対する外交的立場の問題であった。
講和会議では、ほとんど満場一致でドイツへの賠償によって膨大な戦費やアメリカから借りた債務を補おうという方向で固まるも、政治的影響圏については現状の国際秩序維持を図るイギリスと変更を求めるロシアの路線が対立した。
イギリスは勢力均衡をとるべくロシアとフランスに対抗する勢力としてのドイツ帝国やオーストリア=ハンガリーの分割には消極的だったが、自国の安全保障を図ろうとするロシアとフランス第3共和国がこれに反対する。
―――かくして会議は平行線を辿るも、意外な形で妥協を見せることとなる。
1919年3月、マルセイユで最後まで抵抗していたフランス第3共和国政府が、前年の12月より開始された「クリスマス攻勢」に耐えられず、本土を捨ててアルジェリアに亡命したのだ。
『ダイナモ』作戦と名付けられた大規模な撤退戦に10日で1000隻もの艦艇が急きょ動員され、わずか10日で20万の政府関係者と10万の兵士がマルセイユから脱出した。そしてロシアからも僅かながら航空機と飛行船が派遣され、アルプス山脈を越えるイタリア経由で必死の脱出が続けられる。
この作戦に参加した“マルセイユの偉大なる小さな船たち”にはフランス海軍のみならず、イギリス海軍とイタリア海軍、そして民間の様々な貨物船、漁船、遊覧船および救命艇が緊急徴用され、この“マルセイユの奇跡”は亡命フランス人の心に深く刻まれることとなった。
こうした事態を受け、さすがのイギリス国内でもウィンストン・チャーチルら強硬な反共主義者たちから「ロシアに妥協すべき」との意見が日増しに強くなっていき、ついにロイド=ジョージも「ヨーロッパの憲兵」としてのロシアの役割を渋々ながら認めざるを得なくなっていく。
そして講和会議はロシアのニコライ2世主導で進んでいき、協商国の代表は中央同盟を解体するという基本方針を決定した。個々の国家においても、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー2重帝国、オスマン帝国はその解体と分割統治が決定される。
条約の具体的な内容は以下の通りである。
まず、ドイツ帝国は解体・再編成されて西部の「ライン同盟」と東部の「ドイツ帝国連邦」の2つに分割された。
このうちライン同盟はバイエルン王国、ヴェルテンベルク王国、ヘッセン大公国、ウェストファリア共和国、ラインラント共和国、アルザス=ロレーヌ共和国、ハノーファー王国、ホルシュタイン公国といった西ドイツの国々からなる。
同盟会議で選ばれる最高議長が国家元首となるものの、構成国の自治権は非常に強く、実態としては‟現代に蘇った神聖ローマ帝国”とも揶揄される存在であった。首都は3つに分割され、行政府はハンブルク、立法府はフランクフルト、そして司法府はケルンに置かれたことが、ライン同盟の分裂ぶりを如実に表しているといえよう。
ライン同盟は実質的にイギリスの傀儡国家であり、総合的な国力ではロシアの傀儡であるドイツ帝国連邦を上回っていたものの、政治的に地方ごとに細かく分断されていることから統一した動きをとることが困難であった。
そして残るドイツ帝国連邦はブランデンブルク王国、ポメラニア公国、メクレンブルク大公国、ザクセン王国、シレジア公国など東ドイツの国々からなり、盟主は首都ベルリンを有するブランデンブルク王国で、退位したヴィルヘルム2世の後を継いだ息子ヴィルヘルム3世が立憲君主制のもと国家元首となった。
こちらは連邦化したとはいえ盟主であるブランデンブルク王国が圧倒的な力を有していたため、実質的にはダウンサイジングした旧プロイセン王国といった形で、親英派の多い海軍・海洋国家路線から親露派の多い陸軍・大陸国家路線へと舵を切った。
しかし東プロイセン州、自由都市ダンツィヒはロシア帝国に割譲され、残るポーランド分割で得た領土(西プロイセン、ポーゼン)はオーストリアが第3回ポーランド分割で得た領土と共に、再興されたポーランド王国に編入される。
こうした成り立ちから、ポーランド王国は念願の独立を果たしたとはいえ完全にロシアの傀儡国家であり、対ロシア協調の見返りに旧ポーランド領を少しづつ返還してもらうことが、基本的な外交方針となった。
そして海外領土のうちカメルーンはロシア初のアフリカ植民地(ロシア領カメルーン)となり、さらにドイツ膠州湾租借地(青島)の租借権はロシアに委譲された。
なお、ドイツ天津租借地の租借権は大日本帝国へと委譲されることになり、鉄道敷設権や鉱山採掘権といったドイツが中国に有していた利権の大半も大日本帝国の手に渡った。
また、タンザニア、ナミビアはイギリス植民地となり、同国のアフリカ縦断政策が完成した他、太平洋に浮かぶドイツ領ニューギニアやドイツ領サモアもすべてイギリス植民地となる。
続いてオーストリア=ハンガリー二重帝国であるが、オーストリア王国、ハンガリー王国、ボヘミア王国、スロバキア王国、スロベニア王国の5王国からなる「ドナウ帝国」が設立し、辛うじて立憲君主制のもとハプスブルク家の統治が存続した。
ドナウ帝国はイギリスを中心とする自由主義陣営とロシア中心の権威主義陣営の緩衝地帯となり、微妙なバランスの中で各国のスパイがウィーンやブダペストで暗躍した。
しかしガリツィアはロシアに割譲となり、うち西ガリツィアはポーランド王国に編入される。さらに「未回収のイタリア」の一部となる南チロルとイストリアはイタリア王国が回収した。また、トランシルヴァニアのうち南部はルーマニアに編入されることになる。
そして戦勝国となったセルビア王国は、ハンガリー王国からヴォイヴォディナ地方を割譲し、ブルガリアからはブルガリア領マケドニアを割譲、さらにモンテネグロ、およびオーストリア=ハンガリー二重帝国から独立したクロアチア、ダルマチア、ボスニアと統合することで「ユーゴスラビア王国」を形成した。
ユーゴスラビアは第一次世界大戦でロシアに見捨てられた苦い経験から国民の間には反ロシア感情が根強かったものの、政府高官レベルでは一定の距離を保ちつつも現実的な親露外交がとられた。
そしてルーマニア王国に関しては、ベッサラビアとモルダヴィアをロシアに割譲し、交換条件としてドブロジャをブルガリアから、トランシルヴァニア南部をハンガリーから獲得した。
大戦中にロシアに占領されたこともあって、戦後はしばらくロシア主導の協商軍最高司令部(GHQ)が統治し、ルーマニアは独立後もその影響から逃れることはできなかった。
一方のブルガリア王国はドブロジャをルーマニアに、西トラキアをギリシャに、そしてブルガリア領マケドニアをセルビアへ割譲したものの、賠償金に関しては請求を免れることとなった。
敗戦処理の中で農民運動や共産党、共和主義の勢力が伸張して一時は王室の存続すら危ぶまれたものの、若き新国王ボリス3世は陸軍とロシア帝国の援助によって敵対勢力を抑え込むことに成功した。
そしてオスマン帝国はロシアとの戦いで大きく疲弊した結果、国境線が大きく変更される。
まずコンスタンティノープル、東トラキア、エーゲ海地方とマルマラ地方の沿岸部、エーゲ海諸島がギリシャ王国に割譲され、首相ヴェニゼロス率いるギリシャは悲願であった大ギリシャ=メガリ・イデアを形成した。
地中海の覇権を握るイギリスとバルカンに強い影響力を持つロシアに挟まれたギリシャであったが、政治的にはロシアを真似た強権的な独裁政治を行う一方、経済的にはイギリスとの結びつきを強めた。
さらにクルディスタン、アルメニア、イラクはロシア保護のもと王国として独立し、エジプト、シリア、ヨルダン、パレスチナはイギリス保護のもと、共和国として独立する。
加えてキプロス島はイギリスに、ロードス島とドデカネス諸島、クウェートはロシアにそれぞれ割譲された。ロシアはこれによって悲願の「南下政策」を達成することになった。
こうした過酷な講和条約に対してトルコではムスタファ・ケマル率いるアンカラ政府が蜂起したものの、オスマン帝国分割を望む協商国がギリシャとオスマン帝国のスルタンを支援したために蜂起は失敗した。
その結果、希土戦争はギリシャと協商国の勝利で終わり、オスマン帝国は解体・再編成された上で辛うじてアナトリア半島に残る領土を保持した。
オスマン帝国は国内の自由主義勢力や民主主義者、民族主義を抑え込んでスルタン独裁を維持するべく、かつての敵であったロシア帝国に接近して強力な秘密警察を組織し、反政府活動を抑え込んでいくことになる。
また、第一次世界大戦の勃発とともに政府が崩壊して群雄割拠状態となっていたアルバニアでは、1919年にようやくロシアの援助で有力氏族の長であったアフメト・ゾグが統一を果たし、ゾグ1世として即位した。
新生アルバニア王国の指導者となったゾグ1世はイタリア王国と経済的な結びつきを強める一方で、ロシアの影響下にあるユーゴスラビア王国と同盟を組むことでイタリアを牽制していく。
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かくして1919年の夏にようやく、全ての中央同盟国との講和条約が締結される。
敗戦国にとっては領土の割譲や少数民族の独立に加えて、多額の賠償金が課されるという非常に厳しい条約であったものの、スターリンの前世のベルサイユ条約と違って、フランスの共産主義政権や国内の反乱に備えて軍備の制限は大幅に譲歩されることとなった。
そのため中央同盟諸国の方も、君主制に反対する共和主義者や資本主義を敵視する共産主義者の反乱という内側の脅威に対抗するため、「反共に関して協商国は旧・中央同盟政府を支援する」という約束を取り付けることで妥協と講和へと流れていく。
そして協定通り、ロシアを中心とする協商国軍は条約締結と同時に元・敵国の政府に対する支援および干渉戦争を行い、現地の共産主義・共和主義者の反乱軍を粉砕した。
一方、大戦を通して「モンロー主義」の原則を貫いたアメリカであったが、イギリスとロシアによる実質的な欧州分割という形に終わった大戦の結末に不安を覚え、欧州に大規模な再建計画を提示する。
発案者であるアメリカ副大統領トーマス・マーシャルの名前を取って「マーシャル・プラン」と呼ばれた大規模な復興支援は、パンに飢えていた欧州の救世主となった。大戦に加われなかったアメリカは、欧州の再建を通じて影響力を発揮すると同時に、国内の膨大な生産力の売り先である市場を確保したのである。
イギリスやロシアからは「再建などしたら、再び中央同盟が復活してしまうではないか」という慎重論も少なくなかったが、その両国もアメリカから多額の借金を抱えていたため、あまり強く出ることが出来なかったという事情もあろう。
そして何より、泥沼化したフランス内戦によって北フランスで世界初の共産主義政権が誕生したという外交事情がドイツやオーストリアへの融和姿勢へと結びついた。
かくして、第一次世界大戦は終わりを告げたのであった。
ツァーリライヒ的な何か。
地図つくりたいけど、どうしたらいいのか分からん。
ようやく完結が見えてきましたが、次回はその他の国の情勢を。




