第十一章前編「冷静と情熱の狭間で」1
「先生、また引きこもりになってませんか?
ダメですよ、一緒に外に出ましょう?
海でも山でもいいです、そうですね、あたしはカラオケでもいいですよ。
ドライブにも連れて行ってくださいよ」
突然、美術準備室に入って来たと思えばいきなり抱きついてきて、ヘビのように纏わりついてくる奈月。
俺はいつもの事かと動ずることなくパレットに乗せた筆を持ち、気にすることなく続けてキャンパスに筆を走らせた。
スクールバス爆破事件に始まったリリスの事件が終結し、その後一週間あまりで期末試験期間も終わった。
奈月やアンナマリーも含め、学生達は試験勉強に追われ部活からも遠ざかっていた。もちろん、ゴースト退治とも。
俺はその間、試験監督などの避けられない職務を除いてほとんどの時間をキャンパスに向かっていた。
リリスとの激闘でインスピレーションを得た俺は新しい作品の制作に取り掛かり始めると食事や睡眠もほどほどに、集中してキャンパスに向かう。
俺に対する求愛行動の止まらない奈月からは不規則な生活が続くと小言が止まらないのだが、俺はあまり気にせず作品の完成まで集中して取り掛かるようにしている。
日が空いたり、時間が空いたりするだけで膨らむ虚無感から逃げるように、無心でキャンパスに向かい続ける。
実生活を犠牲にして芸術活動に没頭するというのは、無駄な時間を費やしているという不安とも戦わねばならない。だから苦しくもあり、楽しくもあるのだと思う。
何物にも縛られることなく没頭する時間が俺は何よりも尊いと思い、何よりも自分の心の奥底にあるものと向き合っていると実感できるのだった。
「先生は本当に集中が途切れないですね。キャンパスに向かってるときは感覚器官が麻痺してるんですか? 不思議ですね……」
奈月は無反応な俺に飽きる様子もなく、肩を揉んで見たり、頬をつねってみたり、おでこに手を置いて体温を測ってみたり自由に過ごしている。
「よく飽きないな……。完成するまでこのままだぞ」
一方的に干渉を続けてくる奈月に俺は小さく呟いた。完成には程遠いが、離れようとしない奈月のために言ってやらねばならないことだった。
しかし、俺の忠告にもかかわらず奈月は弾けるような笑顔を浮かべた。
「やっと声を聴けました。ちゃんと生きてたんですねー。
あたしは先生の横にいられるだけで幸せですから。
キャンパスに真っすぐ向かってる真剣な顔をした先生があたしは好きです。
どんどん伸びてくる髭さんや汚れていく服を見るのも、嫌いじゃないです。
それに……先生の描く絵画だって、他では見れない歪んだ美しさがあってあたしは好きですよ」
シンプルに”歪んだ美しさ”と俺の絵画を表現する奈月。
象徴主義の画家に強い影響を受けた、おどろおどろしい人に見せるために作る絵画とは到底思えない歪んだ世界観を、奈月はどうしてか気味悪がることなくずっと見続けていられるようだ。
俺が奈月を根本的に拒絶しない理由は、俺の描こうとする絵を否定しないからかもしれないと常々思うところだった。
「あたしがスフィンクスになりますから、もう少し待っていてくださいね」
「俺はオイディプスになった覚えはない」
「でも、モローに影響された絵画を描いている。一緒でしょ?」
「一緒なわけあるか」
奈月は美術部員ではある、アンナマリーも同様に。
だが、それは元々美術に興味があったからというわけではない。
別の要因によるものだ。
しかし、美術部部員となり、俺と一緒にいる中で様々な画家の絵画を知ることになった。
俺がよく知る、ギュスターヴ・モローの描く絵画も。
「屋上にでも行くか」
「先生学習したね」
俺のぼそっとした呟きにも奈月は機嫌よく嫌味のように反応した。
煙草を吸わないと落ち着かない気持ちになり、俺は美術道具を一旦片づけた。
普段はここで吸うことが多いが美術品が汚れてしまうのは望むところではない。俺はわざわざ移動するのが面倒というのもあるが、この絵の具の匂いが染みついたこの場所で吸う煙草が背徳感があるからか分からないが、たまらなく好きなのだが。
奈月からも小言を言われてしまうので、最近は出来るだけ屋上の喫煙所で吸うようにしている。
俺が黒いシャツの上に白衣を羽織って美術準備室を出ると、当たり前のように奈月が横に付いてくる。
「おい、部活はどうした?」
「うん? あたしは後から入った新参者だから、二年生がしっかりやってるよ。それでなくても、もう五時前だよ」
「そうか……」
キャンパスに向かう時は時計を見ないようにしている。もちろん窓も閉める。
時間という概念から出来うる限り引き離した状態で描くようにしている俺は、集中し始めると余計に時間感覚を失う。今も現在時刻を完全に見失ったまま奈月と一緒にいる自分がいた。
「お腹空いてないですか?」
「あぁ」
「本当に不健康ですね」
朝食も抜いて車で通勤してきたから、食事を最後に摂ったのは昨日の晩だ。
そう考えると少しばかり空腹感を感じるようになった。人間という生き物は実に貪欲かつ単純だ。
「すっかり夏ですね」
屋上に出ると、今更な気がするが奈月が俺を見て言った。
まだ日が落ちるには早い。一面に広がる青空に照り付ける太陽、蒸し暑いこの場所に長時間いるのが毒だとよく分かる居心地の悪さだ。
日陰のベンチに座り、煙草を吹かす。白い煙が白い雲を目指して溶けるように昇っていく
度し難いものをキャンパスに描いていたせいで淀んだ瘴気に苛まれたからだろうか、まだ気が早いにも関わらず夕闇に続く黄昏時のように、心がゆっくりと精神世界の奥へと行きたがっているようだった。
「先生、好きです」
恥ずかしいことを口にするときだけ慎ましい距離を取る奈月の言葉が俺の心に優しく触れた。深淵に向かおうとしかけていた俺をこっちの世界に引き戻す奈月の声。俺は引き寄せられるように奈月の顔を見てしまう。
同じベンチに座り空を見上げていた奈月がハニカム笑顔で少女の目をして見てきているのが横目にも分かった。俺が欲情しないのを分かって言っている。どこまでも残酷なくらいに純真可憐なのだ、彼女は。
どうしてこんなことになったのか、俺には婚約者がいるというのに。
時々考えたくなくなるどうしようもなく不毛なことを、何故だか俺はまた思い出したくなった。
記憶の扉が開かれる。
封じ込めては開かれる秘密が隠された扉。
周りはどこにでもありそうな扉をしているのに、一つだけ花飾りの施された金のドアノブがついた可愛らしい木造扉をしている。
俺の意思に呼応してゆっくりと開かれた扉の先へと引き込められていく。
その先で時空を超えて閉じ込められた過去の思い出を呼び起こしてくれるのだった。




