第三十章「天使の輪の巨人」8
黒江は冷や汗を掻きながら、必死の思いで凛翔学園まで車を運転させ、何とか辿り着くとちょうど凛音が出迎えた。
黒江は凛音から茜が巨大なゴーストに立ち向かうために出掛けたことを知ると、凛音に蓮を任せ、急いで茜の下へ急行した。
残された凛音と奈月によって、力ずくで車から降ろされた蓮は保健室のベッドに寝かされた。
保健室には最初から鍵は掛けられておらず、無人であった。
奈月は慌てた様子で月城先生を呼びに行こうとするが、蓮はがっちりと奈月の手首を掴んでそれを止めた。
「先生……」
驚いた奈月は身体をピクリと震わせ、瞳を潤ませながら蓮の顔を見ると、二人はそのまま見つめ合った。
凛音が後ろで青ざめた表情で見つめる中、車内でも、ここまで運ばれるまでも静かに黙ったままだった蓮が生気のない表情で口を開いた。
「もういいんだ、奈月。助からないことは自分がよく分かっている」
心が締め付けられるような弱々しい声だった。
「そんなこと……あたしは聞きたくないです!!」
嫌がる子どものように必死に首を振り、大声で訴えかける奈月に蓮は穏やかな表情を浮かべ、奈月の身体を抱き寄せると頭を優しく撫でた。
「奈月が生き残ってくれるだけで俺は嬉しい。どうしてか分かってくれるな?」
不意を打つ蓮の行動に抵抗できなくなる奈月。
蓮の言葉を聞き、抱き合い、愛し合ったことを思い出し、泣き崩れていく奈月。
自分は婚約者である沙耶の代わりでよかった。それだけの存在のつもりだった。
だが、蓮の口から伝わってくる言葉は、奈月に向けて贈られている気持ちの込められた言葉だった。
「あたしは三人で一緒に生き残りたかったのに……そのために一生懸命諦めずに頑張って来たのに……。
どうして生き残るのが先生でもなくマリーちゃんでもなくあたしなんですか……あたしの願いはもう全て叶いました。
大切な親友も出来て、一番大切なあなたに愛してもらうことが出来ました。
あたしは十分なくらい幸せです! だから……マリーちゃんと先生に幸せを分けて上げたかったのに……。
あたしが一人生きても、何の価値も、何の生きる意味もないんですよ!
あたしは先生に生きて欲しいんです。
先生には一番大切な沙耶さんと生きる未来があるじゃないですかっ?!」
ここに来て溜め込んできた想いを感情に乗せて吐露する奈月。
白いベッドで繰り広げられる壮絶な別れの瞬間を凛音は後ろから涙を零しながら見つめる。
「違うぞ……奈月。
お前らと過ごした日々は、沙耶と過ごした日々と変わらず幸せなものだった。
いや、二人いてくれた分、より充実していたと言えるかもな。
俺は恵まれていたよ、誰よりもそう思える。
だから奈月、忘れるな……お前は俺の半分しかまだ生きていないんだ。
俺の事は忘れて、長生きして、新しい幸せを見つけてくれ。
俺が沙耶を失ってから過ごしてきた時間のように、新しい幸せを見つけてくれ」
死にゆく運命にある蓮の脳裏には、既に最愛の人である沙耶が優しい表情で迎えに来ていた。
だが、一人残されてしまう奈月のために、蓮は言葉を尽くした。
奈月に生きる勇気を与えるために。
「出来ないです!! 先生より素敵な男性なんて出会えないです。
忘れたくなんてないです……先生と愛したことを」
涙ながらに訴えかける奈月。
泣きじゃくる奈月の姿に、蓮はどれほど自分が大切に想われ、本当に愛されていたのかを実感した。
「そうか……ありがとな。
俺は奈月に愛されて幸せだったよ。
だから、俺がお前に頼むことがあるとすればただ一つだけだ。
沙耶を……救ってあげてくれ。
あいつはお前と同じように、優しくて、愛おしい俺の女だ」
「それが……先生の願いですか……。
あまりにも大きな重荷ですよ。
救ってあげないと、罰が当たるじゃないですか」
奈月は蓮の沙耶に向けた愛情を感じ取り、声は震え感極まってしまった。
必死に目を開き、なおも言葉を掛ける蓮。
力尽きるまで、声を掛けようと、さらに蓮は言葉を続けた。
「それでいい、優しい奈月ならきっと出来るさ……俺は信じている。
お前のおかげで沙耶を忘れずにいられた。沙耶のいない苦しみを味わわずに済んだ。全部、お前が面倒なぐらい側にいてくれたおかげだ」
何度も血を吐きながら、ベッドに赤い血が染みついても、蓮は奈月を見つめ続けた。
「はい、あたしも先生がいてくれたから、愛することの意味を知りました。心から大切にしたいと思う人に二人も出会うことが出来ました。ありがとうございます」
蓮の手を握り、頬擦りをして、必死に別れを受け入れ止めようとする奈月。
そして、儚くも愛おしい時間は終わりを迎える。
「あぁ……奈月……俺はお前たちと一緒にいられて退屈しなかったよ。
だから、まだ20年しか生きられていない沙耶を救ってくれ。
自由に……絵を描かせてやってくれ」
その言葉と共に、力尽きゆっくりと瞼を閉じてしまう蓮。
ギュッと胸が締め付けられる感覚を覚え、次の瞬間には奈月は号泣して叫んでいた。
「せんせい……せんせいーーーっ!!!」
泣き叫び悲しみに暮れる奈月。
どれだけの想いが込められているか、二人の間に何があったのか、嫌でも分かってしまう凛音は感化されその場に座り込んだ。
それから間もなく、月城先生が保健室にやって来るが、蓮が再び目を覚ますことはなかった。




