第十六章「震える街」1
茜が沈んだ様子で玄関の前にやって来たのは凛音と簡易的な夕食を摂り、お風呂から上がった直後だった。
「お母さん……茜先輩が」
部屋までやって来た凛音に突然そう言われ何事かと私は心底思った。
私はドライヤーで髪を乾かすのを中断して、外に出られるような恰好ではないネグリジェ姿のまま凛音に腕を掴まれ、そのまま玄関に連れ出された。
「茜……どうしたの?」
いざ、家に帰っていたはずの茜の目の前に立つと、私はこの夜遅くにやってきたことで嫌な予感がした。胃がキリキリと痛むのを感じながら、渋々応対する覚悟を決めて茜に聞いた。
雨音と歩いて二人で家に帰っていたはずの茜がここにいる時点で重大な理由があると思わざるおえなかった。
「先生……あたし、もうどうしていいか分からなくなりました」
自分の気持ちが整理できていないのだろう、茜は放心状態のまま言った。
「家には一度、帰ったのよね?」
重たい空気の中、私の言葉に茜は声を出さずに頷いた。
帰る場所を失くしたような、そんな様子をしている茜を放っておくは危険だと私は理解できた
憶測でしかないが、私は家に居ることが出来なくなるような出来事が起きたのだと想像した。
「いいわ、気にしないで今は入りなさい」
安心して話せるようになるまで、今はゆっくり落ち着かせる時間が大切だと判断した私は家の中に入るよう茜を招き入れた。
家の中に入った茜は凛音に案内されてリビングの方に向かった。
私は心がざわついたまま凛音に後を任せて部屋に戻った。
疲れているのに今日一日中続いている緊張状態が止まず、通信も戻らないことでどう過ごしていいか分からない落ち着かない時間が続いた。
気付けば私は自室のソファーに座り冷蔵庫から取って来た赤ワインを飲みながら、茜がお風呂に入っていると想像できる水の音を聞いていた。
しばらくすると部屋に遠慮がちに茜がやって来て二人で話すことになった。部屋に来ることは予想できていた。
凛音の薄ピンク色のパジャマを着た茜が私の隣に座る。
茜は筋肉が付いている割に凛音の体格と変わらない様子で、問題なく着こなしていた。
「少し落ち着いたかしら?」
茜がお風呂に入り、赤ワインを取りに行った際に凛音から茜の両親が亡くなったことを事前に知っていた私は茜の顔色を伺いながら聞いた。
「はい……ショックが大きくて自分が嫌になりました。けど、少しだけ気持ちの整理が付きました」
落ち着きを取り戻したように見せながら、心の奥にまで突き刺さった傷口の深さを私は感じ取った。
それから茜は、両親が亡くなっているのを見てきたと、時折血と同じ色をした赤ワインの瓶を見つめながら話した。
「こんなことになるなんてね……つい先日家庭訪問で二人と会ったばかりなのに」
深い愛情を持って茜を想ってきた音楽プロデューサーの片桐哲弥さんと声優をしていた片桐美紀さん。
確かな愛情を二人から受け取ってここまで成長してきたと茜はよく理解していた。二人の喪失を受け入れることはそう簡単なことではないだろう。
「先生は……怖くないんですか? 失うことの痛みが」
細々とした切ない声で茜が聞いて来る。情が移ってしまった私には痛い言葉だった。
「どうかしらね……怖いのかもしれないけど、いつか終わりが来るんじゃないかと思っていたのかもしれないわね、無自覚なままではいられなかったから」
茜達と出会ったこと、可憐を覚醒させたこと。後悔しても仕方ないことだけど、転機と言える出来事があったことを私は自覚していた。
「他人事じゃないって分かっていたはずなのに……。
あたし、大切な人を失う痛みを想像できていませんでした。
事実と向き合うのが怖いって感覚がきっと強くて、まるで実感が沸いてこないんです」
命の重さに差はない。そう自分に言い聞かせても、大切な人を失った時の痛みには明らかな差がある。それは経験した人にしか分からない、全く質の違う痛みだった。
「それは当然の感覚よ。喪失感に気付かされるのは、本当にふとした瞬間なのよ。だから、今は自分を見失わないように、それだけを考えなさい」
大切な人であったことに気付かされるふとした瞬間、それは一人きりの食事であったり写真を見返した時であったり、静かな家の中で寛いでいるときであったり、本当に様々だ。
人は死というものを身近に感じる機会はそうそうないが、失恋や別離などを通じて喪失感を体験していく。そうして大人になっていく過程で本来は慣れていく事で精神的痛みに耐えられる精神力を身に着けていくものだが、今はまだこの現実を消化しきることは難しいだろう。
「でもね、先生も悲しくて寂しいのよ。家庭訪問の時に茜のご両親と会って、とても素敵なお二人だと尊敬していたから。茜の事もご両親の姿を見れば納得できたわ、どんな風にこれまで成長して今の茜があるのか」
私は伝えるか迷ったが、包み隠すことなく言葉を紡いだ。これもまた、茜を信頼しているからだった。
「あたしには両親がいるのが当たり前でした。当たり前に帰る場所だったんです」
帰る場所があるから、茜は茜らしくこれまで生きられた。失ってしまった以上、これから心細い気持ちと折り合いを付けながら生きて行かなかなければならなくなる。
そのことを私は軽く受け止めるつもりはない。
茜にとって両親がどれだけ大切だったか、少しずつでも理解していくつもりだ。
「そうね……思えば怖いことが一つだけあったわ。
当たり前のように、私の近くにあるもの」
左手薬指に身に着けたシルバーの指輪。茜も私に釣られてそれを見つめて、私の考えていることを理解したようだった。
「夫婦たとえ離れていてもいつも一緒。大切なことだと思います。
先生、あたしも頑張ります。先生と凛音が大切な人にまた会えるように」
茜は照れくさくなるくらい、感情を込めて私に言った。
「ありがとう、でも大丈夫よ。夏休みの時にうんざりするくらい自分もあの人も、甘やかしてしまったばかりだから」
結婚して、凛音が高校生になるまで成長しても、久しぶりに抱き合えば昔に戻ってしまう、私と夫はそんな関係だった。
「ねぇ? この際だから聞いてほしいことがあるの、茜。
先生がずっと秘密にしてた、後悔してもしきれない罪を」
大人になることで胸の中に押し留めてしまうことが増えていく。それは仕方のないことだと思っている。
だが、今の茜にはこれから話すことを知っていてほしいと私は思った。
「あたしでよければ……先生にそんな罪があるなんて想像してませんでしたが」
私は茜の言葉を聞いて安心すると、ワイングラスを手に持ちグッと一口で残っていたワインを飲み干して、乾いていた喉を潤した。




