85 殺意
骨が砕け、ぐしゃりと何かが潰れる耳障りな音。飛び散った鮮血で紅く染まった視界に………
地に伏した黒いお仕着せ
魔物の腕が屠ったのは、私の左手を抱えていたメイドさんだった。少し離れた地面に不自然な体勢で墜ちた、ピクリとも動かない身体に命がないことは明らかで…
「…おまえ」
目の前で人が殺された。
黒い感情が胸を埋めつくす――ぶわりと冷気が広がった。
突如サイラスを中心に広がった冷気に、異変を察した魔物が咆哮をあげ…
「…うるさい」
その巨軀が、胸の半ばから噛み切られた。
魔物の真下に開いた亀裂――無数の牙によって。残る上半身も、同じ奈落に消えた。奈落に飲まれる寸前、魔物の身体から小さな紅い煌めきがこぼれ落ちたが、瞬く間にサイラスの放つ魔力に呑み込まれた。
冴え冴えするほど、感覚が研ぎ澄まされている。
魔物は殺した。
けれど、感じるのはそれだけじゃない。
私たちを取り巻く微かな魔力――遠巻きに眺める人間の……普段は感じられない魔力も、手に取るようにわかる。
その中に、糸のような細い魔力を見つけた。
それは、メイドさんの遺体…そして、私の足元に倒れた男子生徒からスルスルとどこかへ逃げようとしている。まるで、ネズミが走るように…
本能的に察した。
あの魔力が二人の人間を操っていた、と。
感覚だけで、その細い魔力の糸を辿る。
そこか…!
目障りな魔力の糸の先、大元を…木の陰からこちらの様子を窺う人影に、一切の躊躇いなく魔力を叩きつけた。数十メートル後方で、雷撃が炸裂し、プツンと魔力の糸が断ち切られる。
……気配が消えた。
◆◆◆
キィ…と、瀟洒な装飾が施された扉が開く。入ってきたのは、この部屋の主で王太子のライオネル。彼は珍しく帯剣していた。
「…ノエル?」
呼びかけに返事はない。怪訝に思って、ライオネルは部屋に踏みこんだ。まだ太陽は中天にすら達していない時刻。
ふと、嫌な予感に足を速めた。
今朝がた、王宮内で強力な魔物の大捕物があったばかり。ここが安全だという確証がどこにある?
報告されている限り、現れた魔物は王宮に一匹、魔法学園も出たらしい。推量なのは、魔法学園から魔物の死骸が出ていないからだ。衛兵の戯言では、魔物は地面に喰われたとか何とか…。ともかく、王族や貴族の出入りする国内でも最も安全な場所に魔物が出た。ならば…
「ノエル!無事か!?」
飛びこんだ寝室に、彼女の姿はなかった。ただ、濃紺の絹のショールが床に打ち捨てられたようにあるだけだった。
◆◆◆
魔物を倒した私のところに、騒ぎを聞きつけた騎士たちが駆けつけてきた。
「魔物はどうした?!」
そして、辺りに残るぞっとするような魔力の気配に身を固くした。私は、勝手に狼狽する彼らを放置して、犠牲になったメイドさんの傍にしゃがみこんだ。地に叩きつけられたままの遺体を仰向けに寝かせ、開いたままの目をそっと閉じた。
「ごめん…。助けてあげられなくて」
私が彼女に纏わり付く糸みたいな魔力を見つけたのは、彼女が事切れた後だった。もう少し早く気づいて、コソコソとこちらを窺っていた術者を叩きのめせていたら、彼女は死なずに済んだのに。
恐る恐る近づいてきた、メイド仲間だろう数人に遺体を任せ、私は後方で黒い煙が燻る木に目をやった。あるのは縦に真っ二つにされて焼け焦げた木の残骸……術者の死体はなかった。
「おい…おまえ!魔物はどうした?!」
乱暴に肩を掴んできた騎士に、冷えきった眼差しを向け。
「…喰われた」
端的に答え、私はくるりと踵を返した。
魔物は死に、術者は取り逃がした。なら、もうここに用はない。アナベル様の待つ、女子寮へと戻って…
「サイラス…!」
バフッと、ネグリジェにガウンを羽織っただけのアナベル様に抱きしめられた。ああ…怖かったのかな。目の前で魔物が暴れたから…
「貴女…泣いているわ」
「え…?」
指摘されて思わず目を瞬いて……頬を伝う雫に自分でも驚いた。立ち竦む私の背をアナベル様は無言でそっと撫でた。
彼女の手が優しい。でも……。
「……少し、頭を冷やしてきます」
今の私は、きっと怖い顔をしているだろう。知った顔の人が目の前で殺されて――憎しみでついさっき、一切の躊躇いなく術者を殺そうとしたヤツになど、本当なら近づきたくもないよな…。
なのに、寄り添ってくださるアナベル様は、本当にできた方だ。私はやんわりと、アナベル様から身体を離した。
「ロイ、ごめんな。もうしばらく、アナベル様を頼むよ。念のためレオを置いて行くから」
戸惑う彼らに背を向け、私は今一度物言わぬ遺体を振り返った。
知り合いが死んだのに、あまりに心が凪いでいる。あるのは、湖の冷たい冷気と研ぎ澄まされた感覚の名残。悲しみより、憎しみが心を塗りつぶしている。何か些細なことでも、暴走してしまいそうで……。
「…ッ」
手の平に爪が食いこむ。
私は……悔しかったんだ。こんな小手先のことも見抜けなかった自分が。私は数少ない『戦える人間』だったのに。『守る側の人間』だったのに。目の前にいた一人を、死なせてしまった。
「ノエル!ノエル、どこだー!」
暗い瞳で歩き去るサイラスの真横を、この国の王太子が一人の少女を探して駆け抜けていった。
◆◆◆
薄暗い部屋で、少女は目を開けた。固い床、少し古めかしい手摺――魔法学園教室棟の階段の踊り場だ。どうやら土壇場の転移魔法は成功したらしい。
「ふふ…。あぁ~、ドキドキしたぁ」
つい先ほど雷撃で死ぬところだった人間とは思えない呑気な感想を吐いて、少女は己の状況をざっと確認した。
魔力は転移魔法を使ったためにほぼ空っぽ。幻惑魔法も使えず、本来の姿を晒してしまっている。けれど、特に大きな怪我はしていない。僥倖だ。
「魔力が回復していないし、もう少し寝ていようかしら」
ここは階段……しかも幅の狭い急な階段だ。ドレスの女性はもちろん、男子生徒も寄りつかないここは、身を隠すにはもってこいの場所だ。言い訳も考えてあるし…
ふと、仄暗い笑みを浮かべる。
(いいモノを見たわ)
一部始終を見ていた少女は、女子寮でのアナベルと『ロイ』の様子に気づいていた。分かりやすく頬を染め、傍らの少年をみつめる女――
「まあ!大変!そちらのお嬢様の衣服が乱れたままでしてよ?ふふ。証拠隠滅はもっとお上手になさいましね?」
忘れもしない。少女を地下牢へ突き落としたあの言葉――少女の口元がきゅうっと上がり、愛らしい唇から栗鼠のような歯がちら見えた。
「あの夜の私はさしずめ、繁みに隠れたところを暴かれた名医の娘かしら?でも……」
ふふふ…と忍び笑いが階段に響く。
「今度は私がプルチネッラよ?」




