43 水蜘蛛との戦い
水蜘蛛は光が苦手――。けれど、ダメージを受けたかというとそうではなさそうだ。ただ明るいのが嫌いなだけだろう。
柱の陰で必死で気配を探りながら、アルフレッドは先程の襲撃を振り返った。
それから――、ふと己の手に目を落とす。
さっきこの手は確かに水蜘蛛に触れた。しかし、擦り傷だけで済んだ。相手は全身に濃い瘴気を纏っているのに。本来なら、触れるだけでも皮膚が焼け爛れてしまうはずだ。しかし……
これはどういうことだろうか。
「…ッ!魔を祓う腕輪か!」
魔物の瘴気だけ弾いたのか。だから、触れたのに擦り傷で済んだ。
アルフレッドは理解した。
本当、俺は阿呆だな。アルフレッドは嗤った。父とディルクに散々言われて、渋々厭々身につけた魔道具に救われるとは。
安堵する反面、身にしみてわかった。
魔道具は物理攻撃までは防げない。
サイラスの魔除けのイヤリングは、蜘蛛の牙という物理攻撃までは防げなかった。当たり前だが、魔道具はあくまでも魔法による攻撃や瘴気を防ぐためのものなのだ。物理攻撃や毒などは防いではくれない。魔を祓う腕輪は、瘴気は祓えても鋭利な牙や毒までは防げない。
(くそっ!結界魔法をちゃんと覚えていれば…!)
結界魔法ならば、物理攻撃も防ぐことができる。しかし、アルフレッドは地味な割に難しい結界魔法を覚えなかった。必要がないと思ったのだ。刺客を差し向けられても、剣や攻撃魔法で立ち向かえば良いと思っていたし、いざとなれば転移魔法もあった。
(できもしないことを後悔したって時間の無駄だ。考えろ…どうしたらあの蜘蛛を斃せる…?)
魔法攻撃は、転移魔法で魔力をほとんど使い切ってしまったから無理だ。下手に魔力切れなんか起こしたら、それこそあの蜘蛛の餌食。
かといって、リーチの短い護身用の短刀ではよほど接近しなければ攻撃が当たらないし、素早く動く相手の急所を一発で突ける自信もない。万が一毒牙に掠るか、攻撃を外しでもすれば、アルフレッドの方が死んでしまう。
(くっ…!せめて相手が急所を晒して停まってくれれば…!)
と、そこまで考えて、アルフレッドは思いついた。
(いや…できるんじゃないか?)
指輪を使えば。
(よし…!)
アルフレッドは、思いつきを実行に移すべく、首に下げていたネックレスをはずした。
◆◆◆
「ねえ、母さん。私、お花を摘みに行きたいの。いい?」
遠い遠い昔、そんな嘘をついた。
母は目が見えない。でも、エリクサーの泉の水を目にかけると見えるようになるんだって。そんなことを聞いたのはいつだったか――
もうずっと泉を探していて、嘘をつくにも慣れた頃。
「お花?いいわよ。気をつけていってらっしゃい」
それが母さんの穏やかな声を聞いた最後。
私が花摘みと偽って、エリクサーの泉を森に探しに行った夕方。結局その日も泉は見つからなくて、家の近くで摘んだ花を持って帰ってきた。母さんはね…決まって歌を口ずさんでる。その声を聞くと安心するの。
けど、その日。
いつもの歌は聞こえなかった。
代わりに戸口が僅かに開いていて。不思議に思って、家の中をのぞいたの。そうしたら…薄汚い格好の男に、母さんが殴られていて―。血に汚れた髪を振り乱し、怯えて泣く母が…苦痛に歪んだ顔が…
恐ろしくなって、私は逃げ出した。
そしてたちまちもっと恐ろしくなった。
母さんが男に殺されちゃう!
早く、早く、エリクサーの泉の水さえあれば、どんな傷でも治るんでしょ?母さんを助けることができるんでしょ?
はやる気持ちに押されて、夜の森に駆けこんだ。泉を探して――
◆◆◆
魔物の急所?虫なら胸だな。頭と腹に挟まれた真ん中だよ。そこは一番殻が固くて、半端な攻撃は入らないよ。
以前、サイラスが教えてくれた。といっても、それはキラービーの急所だが。でも、賭けるしかない。
チャンスは一度だけ。
己の右腕を見下ろして、アルフレッドはもう一度己に言い聞かせた。右腕には、腕輪はそのままに、イヤリングとネックレスを絡めて巻きつけてある。指にはあの目くらまし用の指輪、そして短刀を持つ。柱の陰に隠れ、深く息を吸い込むと、
「ここにいるぞ!出てこいバケモノぉ!!!」
大声で叫んだ。
いくらも待たないうちに蜘蛛が現れる。
(三、二、一……今だ!!)
柱の陰から躍り出たアルフレッドは、蜘蛛の目に向けて指輪を発動させた。眩い光に蜘蛛が前脚を蹴り上げたその隙に、腕輪をした左手で毛むくじゃらの脚を掴むと、勢いをつけてその懐に――急所目がけて力いっぱい、短刀を握った右腕ごと蜘蛛を突き刺した。
アアァァァァ!!!
光が弾け、蜘蛛の胸部をアルフレッドの右腕が突き破る。
八つの赤い目がチカチカと瞬き、やがて光を失い、巨体がアルフレッドを巻き込んで崩れ落ちた。
◆◆◆
一人の時を停めた少女の身体が横たわる空間。
そこに、血に汚れた半身を引きずり、片目を閉じた少年が戻ってきた。台座の椅子にはやはり女が腰かけているようだ。淡い水色の波打つように広がる裾が見える。幼女は、見当たらない。毒蜘蛛の体液を浴び、満身創痍故に顔を上げられないアルフレッドは、女の方に傷だらけの右腕を差し出した。
「討伐……証明だ…」
言うや、腕を突き出した体勢のまま、そこに力尽き、頽れた。その渇いた唇が微かに「エ…リク、サー」と動いた。
不思議な空間に静寂が落ちた。
衣擦れの音さえたてずに、椅子に座っていた女が立ち上がった。紗のような裾がゆっくりと石の階段を滑る。そして、裸足のつま先が斃れたアルフレッドの前で止まった。
「やれやれ…愚かなことよの」
二十歳に届かないくらいの寒々しいほど美しい少女が、無表情にアルフレッドを見下ろした。
多少耐性はあるようだが、全身に毒を浴びたこの少年の命が潰えるのは、時間の問題だろう。
「しかし…偽りを言い、守れぬ約束をしたのは我らか。なんとも皮肉なことよ」
それも、ありもしない不老不死の泉…エリクサーとは。
「どれ。見てやるか」
白い指先で、器用にアルフレッドの手を開いて、血の塊の中から取り出したものは、透明な光を湛える小さな涙型の石。
「『女神の涙』、か…。まあ、」
今一度、斃れたアルフレッドを見下ろす。
あの水蜘蛛相手に、この少年はよくやった。実のところ、あの穢れた闖入者には女とて不快感を覚えていたわけだし。言い訳ばかりだな……女は独りごちた。
「褒美だ」
涙型の石――『女神の涙』を、女は少年の口に押しこんだ。途端に、アルフレッドの身体中についた傷が癒え、消えてゆく。
それを見届け、女は「さて」と振り返った。視線の先には、こちらに背を向け踞る幼女――ティナがいる。
「おまえは嘘を吐いた。贖う覚悟はできているな?」
死にゆく少女を蘇生させるには、それなりの代償が要る。例えば、人間の魂とか。材料さえあれば、作業自体は難しくない。女がティナを贄にして、蘇生を実行しようとした時だ。服の裾を引かれて下を見た。
「やめ…ろ、その、子は…アイツの、大事、な……贄…なら……俺、を、」
少年――アルフレッドが女の足を掴んで止めた。
「……。」
眉をひそめた。触れられた足首が、ミルクを流したように溶け始めている。『女神の涙』が何かしらの副作用をもたらしたようだ。少年の右腕から手の甲にかけて、つい先程まではなかった呪印が刻まれている。
「生意気な」
足を払い、少年の手を振りほどくと、女の足は元の傷一つないそれに戻った。
「望むというなら叶えてやろ」
女にとっては、贄などどちらでもよいのだ。術をやり直そうとアルフレッドの前に屈みこむ。すると、そこへふわりと風が纏わり付いてきた。
「おまえには何の非もなかろう、ソルヴェイグ」
顔を上げ、女はソレに言った。ソルヴェイグ――憐れな盲目の母。娘の嘘を疑うことなく信じて待ち続けた挙げ句、戦に巻き込まれて湖に飲まれた女――。その娘も、名を新たにした故に、もはや娘ではなくなった。母は娘を永遠に失ったのだ。
「…そうか、」
しばらくやり取りした女は、「皮肉よの」とひと言呟くと、蘇生魔法を台座の少女の上に展開した。




