24.通じ合った夜
最後の言葉が、ヴァルツの肩に吸い込まれる。
抱き寄せられ、背中に回された腕は強く。瞬いた瞳に映るのは、彼の着ている服だけ。
だが、力強い鼓動と震える呼吸は、見えずともノアールに全てを伝えている。
「すまない。……すまない、ノアール」
「ヴァル、ツ、様」
「お前は……お前は何も悪くない。お前たちにとって、その言葉がどれだけ特別であるか知っていたはずなのに」
繰り返した謝罪に、同じだけ繰り返してきた否定は紡がれない。
その声に混ざる後悔を。自分自身に向ける怒りを。そうして……滲む恐怖を、ノアールの鼓膜は余さす捉える。
身体が離れ、視線が絡む。だが、一度震えた蒼は、すぐに下に落ちた。
いつだって温かくて、優しかった蒼が。まるでなにかに怯えるように。
実際の沈黙は数秒だろう。だが、それが長く思えたのは、ヴァルツの表情が、あまりにも辛そうだったから。
「……ノアール。私は兎が嫌いなわけではない。だが、お前が純粋な兎だろうと、そうでなくても、受け入れようとしなかったのには理由がある」
様々な感情が入り混ざった息がゆっくりと吐き出され、覚悟を決めた瞳がノアールと重なる。
繋いだ手は、微かに震えたまま。
「私が今より若い、青年だった頃の話だ。その時の私は禁制監視官になったばかりで……今ほどの実力はなかった」
厳格な試験と、公正なる審査に合格した者のみが就くことのできる国家機関。あらゆる不正を取り締まるため、一定の権限を付与される彼らに、ある者は羨望し、ある者は妬み、ある者は排除しようとする。
邪な意を持つ者たちにとって、彼らの存在は邪魔でしかなく。
ましてや、若くしてその頭角を現していたヴァルツを危険視する者も少なくなかった。
参加を命じられた夜会で、強要された酒に仕込まれた毒。それがただの毒なら、訓練していたヴァルツも耐えられただろう。
だが、彼に投与されたのは、当時調査していた麻薬そのもの。
幸福感と性欲を増す代わりに理性を失う……いわば、質の悪い媚薬だった。
気付いた時には、更には男の所有していた兎と共に閉じ込められていた。
酒に溺れた監視官が、他人の所有する兎へ暴行を行い。更には、調査していた薬物まで摂取していた。
監視官の席を奪うには十分過ぎる罪。その立場を利用して薬物の取引をしていたと、自身の罪を被せる目的もあったのだろう。
首謀者らの筋書きは、ほとんど抜け目がなかったと言える。
落ち度があったとすれば……ヴァルツの精神が、彼らの想定以上に強靱であったことだろう。
彼自身、覚えていることは少ない。
込みあげる熱。抑えきれない欲求。目の前の兎を喰らいたい本能と、罠と理解し理性にせめぐ苦痛。
誘惑するように命令された兎が、誘惑する甘い声は、まるで頭にへばり付く泥のように。頬に触れる指は、蝶を食らう蜘蛛のように。
不快と、快楽と、拒絶。――そうして、気付いた時には全てが終わっていた。
怯える兎の声。自身の右腕に深々と食い込んだ牙は、他でもない自分のもの。
シーツも、兎も、己までも赤く染め。痛みで取り戻した正気で捉えたのは、現場を押さえた同僚たちが首謀者らを取り押さえる姿。
ヴァルツの潔白は守られ、罪人らは裁かれた。そうして、あの一件は収束したのだ。
その腕と心に、傷を残したまま。
「……今でも、その痕が残っている」
捲った腕の下には、引き攣れた皮膚と痛々しい痕が刻まれている。当時は、おびただしい量の血が流れたことだろう。
「結果的には未然に終わったが、兎を殺していた可能性は十分にある。……薬のせいだと理解はしていたが、しばらくは本当に傷付けるのではないかと恐れて避けていた時期がある。兎嫌いと言われるのは、その頃の名残だ」
真っ赤に染まる両手。怯える瞳。甲高い悲鳴と……それでもなお、飛びそうになる正気。
いくら兎相手とはいえ……否、兎だからこそ、無理矢理身体を開けば死んでいただろう。
その小さな身体を見る度に、傷付けることを恐れていた。それでも関わらないわけにはいかず、必要以上に遠ざけていた。
そうして、それは今も同じ。
「あの日、お前のあまりの状況に、保護を急いだのは嘘ではない。……だが、ただ保護するだけなら、この屋敷に連れて来る必要はなかった」
「え……?」
「……あの時にはもう、私はお前を、愛らしいと思っていたんだ」
見上げた蒼は温かく、柔らかく。最初に与えられたのと同じ光に見つめられたノアールが、目を見開く。
誰よりも醜くて、汚くて。兎の血を引いているのに、可愛くはなれなくて。
これはまた夢なのかと、信じられずにいるノアールの頬を、優しい指が包み込む。
「お前が私を見て微笑む度に。私を見つめる度に。私の与えた名で喜び、私の名を呼ぶ度に、お前に惹かれていた。大切にしたくて、傷付けるのが怖くて、早く手放そうとさえ思っていた。……結果的に、それがお前を傷付けてしまった」
どれだけ謝っても足りないと、続く言葉も入らない。頭の中は否定を繰り返して、疑問ばかりが占めている。
「保護、していることを伝えるのも、嫌だったの、では?」
「なぜ」
「コーヴァス様にお伝えするとき、本当に嫌そうだったから。だから、やっぱり嫌われているんだと思って」
「あれは……お前ではなく、奴に見られたことが嫌だったんだ。私が迎える前日に、仲介所に来た客人のことを覚えているか?」
「アルビノを見に来た……?」
「そうだ。その男はアルビノだけではなく、お前も一緒に引き取ろうとしていた裏が取れている。そして、それが今日会ったコーヴァス卿である可能性が高い」
「……あ、」
パチ、と噛み合うのは覚えていた違和感だ。
聞き覚えがあると思っていたのは、実際に一度聞いていたからこそ。
会話こそわからなかったが、思い出せば全てが噛み合う。
「あの……あの人の声、同じです。仲介所で聞いたのと……」
「やはりな。……理由こそ定かではないが、今も奴はお前を狙っている。せめて、私のそばにいる間は奴に見られないようにしたかったんだ。こんなにも美しく、愛らしくなったお前を見れば、諦めるわけがないのだから」
夢だと疑うほどに信じられないのに、触れる手の温かさも、心臓の鼓動も、本当だと伝えてくる。
愛らしいと。可愛いと。大切にしたいと。そう言われる度に胸の奥から苦しいのが溢れて、だけどそれ以上に嬉しくて、止まらない。
「今まで拒んできた私が言える言葉ではないとは分かっている。兎の考える愛し方を、私はできないかもしれない。それでも……お前を大切にしたいし、愛させてほしいと願っている」
「……わたし、」
与えられないと思っていた。これから先ずっと、その言葉だけはもらえないと。
だから、一緒にいられるだけで。こうして過ごした記憶さえあればいいと諦めて、捨てようとして。
それでも、諦めきれなかった願いを差し出されたノアールの唇が、震える。
「わたし、は……本当の兎じゃ、ないのに」
頭に浮かぶのは、いつだって完璧な兎の姿だ。
ふわふわの毛に、小さく愛らしい姿。誰からも望まれた、愛されるべき存在。
長い耳も、短い尾も。毛色だって汚くて、兎と呼ぶには大きすぎて。愛されることはないと言われ続けた、自分の姿。
「混血も兎だ。それに、私は兎だから惹かれたのではない。……お前だからこそ、大切にしたいと思ったんだ」
そんな自分を、この人は兎だと言ってくれた。今だってそう言ってくれる。
だからこそ、ノアールはこの人と一緒にいたかった。だって、生まれて初めて、自分を愛してくれた人だったから。
だから、ずっとずっと、一緒にいたかったのだ。
諦めようとして、諦められないほどに。嫌われると思うだけで、あんなにも苦しくなるほどに。
ただ、ずっと一緒にいたいと。愛されなくてもそれでいいのだと、そう願うほどに。
「ここにいて、いいんですか? ヴァルツ様のおそばにいて、いいんですか? ……っ、あ…………っ……」
最後の疑問が、途切れる。嫌悪を、拒絶を、否定を恐れてずっと隠していた言葉。
視界に涙が滲み、喉がひくつく。そうしてまた、飲み込もうとした言葉は、手を強く握られて導かれる。
あの日と同じように。ノアールに差し出された、あの時と同じように。
「っ……愛され、たいと、願っても、いいんですか……っ……!」
こんな自分でも。純粋な兎ではない自分でも。主人に愛されたいと。あなたに愛されたいと。
あなただけに、求められたいと。
「……ノアール」
もう一度、その腕の中に閉じ込められる。伝わる鼓動は力強く、早く。包み込む温度は、温かく。
「愛している、ノアール。だから、どうか私と一緒にいてほしい。……これから先も、ずっと」
そうして、ノアールは与えられたのだ。
兎としての価値を。ずっとずっと、与えられたかった愛を。
他の誰からでもない、ヴァルツから、やっと。
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