23.秘めていた想い
静寂がノアールを包み込んでも、安らかな眠りが訪れる気配はなかった。
今も頭までシーツに隠れた瞳は、薄暗い空間を見つめたまま閉じられていない。
もう日は落ちて、今は夜。あれから何時間も経っているのに、胸の痛みはずっと薄れることなくそこにある。
目を開けていても、耳を塞いでも、頭の中で繰り返してしまう記憶に膝を抱える手に力が入る。
最初から伝えられていたことだ。
ノアールがここにいるのは、ただの保護。監視官としての仕事以上の意味はなく、どれだけ願おうと変わらない。
だけど、まるで忌々しく。公言することを憎むような声を思い出す度に、胸が痛くて辛くなる。
きっと、ヴァルツも本当は言いたくなかったのだろう。どうしたって、ノアールは本物の兎には劣ってしまう。
身長も、見た目も、愛らしさも。愛されるための教育だって、ノアールは盗み聞いた分だけしか知らない。
仲介所で一番だと褒められていたアルビノも、今日出会った兎も。これから会う他のどの兎だって、本物の兎だ。
長い耳も、小さくてフワフワな尻尾も、綺麗な毛色も。……兎として愛される要素は、ノアールにはない。
だからこそ、兎と言われて嬉しかったのに。ノアールが求めていた全てを与えてくれたことに感謝していたのに。
愛されないことは、最初から……分かっていた、はずなのに。
「っ……ひ、ぅ」
目はヒリヒリと痛んで、頭だって痛くて。だけど、それ以上に胸が苦しくて、痛くて、涙が込みあげる。
兎として求められることはないから。ヴァルツ様は兎が嫌いだから。
だから、これ以上なんて望んではいけないと、分かっていたはずなのに。
もし、自分が本当の兎だったなら。
あの兎のように、可愛い兎だったなら。……ヴァルツ様も、自分を求めてくれたのだろうか。
堂々巡りの思考。それは決まって、愛らしい姿が浮かんで終わる。
アルビノとは違う。だけど、主人に愛されるに相応しい、本当の兎の姿。
……なのに、彼は悲しそうだった。
ご主人様じゃないと、苦しそうに言っていた声が重なる。
愛されている、はずだ。
兎らしい綺麗な服を与えられて、怪我がなかったか心配されて、触れられて。なのに、どうして、幸せそうに見えなかったのか。
いや、迎えられた兎が全員望んだ形になるとは限らない。幸せにならなかった兎なんていくらでもいる。
でも、それは主人に愛されなかった結果で。主人ではないと、否定するものではない、はずで。
彼を迎えに来た男の声も、アルビノの姿も、何かが引っ掛かっている。
もし、もう一度彼に会えたら話ができるだろうか。そうすれば、この違和感の正体にも気付けるのだろうか。
そこまで考えて、瞬いた瞳から涙が落ちる。……いいや、もう外には連れて行ってもらえないだろう。
だって、自分はヴァルツ様の兎ではない。
可愛がられて、愛される存在では、ないのだから。
「――ノアール」
全身が強張り、鼓動が跳ね上がる。
扉越し、呼びかける声はいつものように優しく、だからこそ余計に混乱する。
あの時の冷たい声も、いま聞こえる声も、あの人で間違いないのに。同じはずなのに。
ヴァルツの元へ向かわなければいけないのに、身体は固まったまま動けず。そうしているうちに扉は開いてしまい、足音はゆっくりと近づいてくる。
その重たい靴の音も、息づかいも、耳に伝わる音は全部、ノアールの知っているものなのに。
「……寝ているのか」
安心するような。でも、それだけじゃないような。声だけでは、その真意を測ることは難しい。
嘘を吐きたくないのに起きているとも言えなくて。会いに来てくれて嬉しいはずなのに、今は会いたくなくて。
そう考えたのが、いけなかったのだろう。シーツ越しに肩に触れられ、体が跳ねる。
自分の鼓動に混ざるのは、ヴァルツの乱れた呼吸。
起きているとは思わなかったのか。起きていない方が、よかったのか。
どこまでも落ち込んでいく思考は、再び呼ばれても持ち上がることはなく。また、シーツから顔を出すことだって、できない。
「頬は、まだ痛むか」
叩かれただけで赤みも引いているし、痛くたって、胸に比べればずっと弱いものだ。
返事をしなくてはいけないのに、答えなくてはいけないのに。
このまま喋れば、言ってはいけない言葉まで口走ってしまいそうで、首を振るのだって精一杯。
このまま帰ってほしい気持ちと、このままここにいてほしい気持ちと。
矛盾する感情に強く身を縮込ませて。聞こえる小さな息が、ノアールをより追い詰めていく。
「すまなかった。お前に辛い思いをさせたかった訳では、」
「……ヴァルツ様は、悪く、ありません」
首を振って、否定をしてもシーツから出られない。声だって萎れていて、到底聞かせられるものではなく。
それでも、違う。ヴァルツ様は何も悪くない。これは全部、自分の我が儘でしかないのだ。
諦めきれない自分が。願ってしまう自分が。
「ノアール」
強欲だと自分を責めるノアールに、それでも触れる手は優しく。温かく。
震える背を撫でる手は、差し伸べられた時と一つだって変わることはない。
「私の考えが浅かったばかりに、お前を苦しめた。……すまなかった」
「――そんなことっ!」
心臓が強く叩かれて、身体が飛び上がる。シーツの中から出てしまったことも、泣き顔を見られてしまったことも、何も考えられなかった。
違う。違うのだ、本当に。ヴァルツが謝ることは何もない。
至らない自分が。純粋な兎ではない自分が。もっと、もっとと、望んでしまった自分が!
「っ……ちが、い……ます……違うん、です」
……それを、言葉にできない自分が。自分だけが、悪いのに。
滲む視界では、ヴァルツがどんな顔をしているか知ることはできなくて。そうでなくても、直視なんてできなかっただろう。
見開いた蒼も、その顔が自分自身を責めるように歪んだことも。その内で渦巻く感情も。その指が痛々しく腫れた目を拭っても、泣き続けるノアールに見えることはない。
固く握られた手をほどくように、上から包み込む手だって。あの時からずっと変わらない。
なのに、わからない。
ヴァルツの考えていることが。優しくしてくれる彼のことが。ノアールには何も、わからない。
「私は、口が上手いほうではない。そのせいでお前を傷付けていたんだろう。お前の心境を考えれば、私に言えないと分かっていたのに」
頬を支えられ、首を振ることはできず。言葉は喉につかえて音にもできず。震える唇は固く閉じたまま。
「気付かなかったでは済まされないことだ。うわべだけの謝罪では、お前の傷が癒えないことも分かっている。……それでも、私はお前を大切にしたいと思っている。それは、嘘ではない」
強く、重ねられた手が震えている。ノアールの震えよりも大きく、何かに怯えるように。
瞬いた瞳から大きな雫が落ち、鮮明になった黒の中に映ったのは、信じてほしいと怯え、訴える彼の姿。
「だから、何がお前を傷付けてしまったのか、私に話してくれないか。そうでなければ、私はお前に、本当の意味で謝ることができない」
「ヴァルツ、様……」
「許してほしいわけではない。だが、お前を二度と傷付けないようにするために、私はそれを知らなければならない」
だから、どうかと願われ、請われ。また、目の前が滲んで見えなくなってしまう。
主人でなくとも、兎に謝るのはいけないことだ。それは謝らせた兎が悪いと仲介所でも言っていたのに。
なのに、どうして。この人はどこまでも優しくて、温かくて。
嫌われたくないと、なおも望んでしまう自分の欲深さに、唇から漏れる息が震える。
「違う、んです。悪いのは……っ……私が、浅ましいのが、悪いんです」
「浅ましい?」
「ヴァルツ様が……兎として私を求めていないことも、愛してくださることもないと聞いたのに、望んでしまっている私が、悪いんです」
触れた指が。息を呑む音が。伝わる全てでヴァルツの動揺を感じ、喉の奥が狭まる。
知っているとは思っていなかったのだろう。知らなかったからこそ、今日まで優しくしてくれたのだろう。
それでも、これ以上ヴァルツが謝ることに耐えられず。嘘を吐くことも、できない。
「ピルツ様とお話されているのを聞きました。ヴァルツ様が兎を嫌っていることも知っています。本当は……っ、本当は、保護していることさえ伝えるのも嫌だったことも」
盗み聞くつもりはなかったと、弁明はしない。
聞かせたくなった言葉。ノアールが知らなくてよかった事実。
それを耳にしなければ、ヴァルツをこんなにも困らせることだって、なかったのに。
「あの日、私を兎だと言ってくれて。この場所に迎えてくださって。それだけでも私は嬉しかったのに。十分だと思わなければいけないのに、求めてしまった私がいけないんです」
今だって、鮮明に浮かびかがる。
あの日差し出された手を。柔らかく微笑む蒼の温かさを。包まれた温度を。こんな自分でも、兎だと言ってくれたことも。
全部全部、覚えているのに。決して忘れることはないのに。それだけで、生きていけると思っていたのに。
「兎として求められなくても、せめて、何かの役に立てないかと。純粋な兎なら、愛されなくても、求めてもらえたんじゃないかって。でも、ヴァルツ様は私を兎だと言ってくれて、優しくしてくれて、大切に、して、くださって」
これまで抱え続けてきた感情が。煮詰まっていた重く暗い全てが溢れて抑えられない。
どれだけ言葉にしても、わからない。どれだけ伝えても、知りたくなってしまう。
「わ、たし、は……っ……あなたの傍に、いられるだけで、よかったはずなのに……!」
それで満足しなければいけないのに。
たとえ兎として求められなくても。本当は、兎と思われていなかったとしても。
一緒にいられるだけで、ノアールは救われたはずなのに。
「愛されたいと思ってしまった、僕が――っ!」
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