22.ヴァルツの覚悟(ヴァルツ)
ノックの音に声が遮られ、顔を上げる。否、遮られたのではなく、目が醒めたのだ。
景色は応接室から執務室へ。室内を照らすのは、太陽ではなくランプの光。眺めていた資料を放し、目頭を押さえて吐き出した息は重い。
夢に見たのは、ノアールの様子がおかしかった時に医者を呼んだ時のこと。
本人には異常がないと伝えたのは、あれ以上彼を不安にさせないための嘘。
実際は原因不明……おそらく、心労であることはノアール以外の全員に周知された。
この屋敷に彼を害する者がいるのか。それとも、勉学を急がせすぎたのか。仲介所のことを引き摺っていてもおかしくはない。
様々な可能性が考えられたが、どれも確信に至らず。
「ヴァルツ様」
「……ああ、入れ」
「失礼します。ピルツ様より、調査の報告が届いております」
再び響くノック音に、現実に戻される。
入室したセバスから渡されたのは、紅茶ではなく見慣れた封筒。
仕事の速さに関しては間違いないと改めた中には、望んでいた結果が簡潔に記されている。
植物園で遭遇したコーヴァスの兎は、先日行われた夜会の参加者から譲与された兎と一致する。
元の飼い主との関係も良好で、気が変わったような兆候もなく。当人に話を聞きに行けば、まるで怯えたように対応されたと。
ただの譲与であれば、そんな反応を見せるのはおかしい。
コーヴァスとの間で取引があったと考えられる。それも、監視官に知られれば後ろめたい何かが。
それだけではない。ノアールに縋っていた兎の容体は明らかにおかしかった。
虚ろな目に、微かな震え。通り過ぎる際に感じた甘い匂いも、ヴァルツが検挙していた薬の特徴と一致している。
売人こそ押さえたが、まだ出回っている薬の回収も、裏にいる存在も掴んでいない。
断言はできないが、所持している兎たちに使用している可能性は十分に高いだろう。
今回で踏み込めるだけの証拠が掴めればいいが……今は、優先すべきことがある。
「ノアールの容体は」
「あれから夕食もとれずに臥せっております。果物も勧めましたが、食べられないと」
想像通りの答えに、今度の溜め息は呑み込む。
植物園に連れ出したのは、ノアールが少しでも喜び、気が紛れるようにと思ってのこと。
昨日の会話からも、まだ自分の血に悩んでいることは分かったが、それ以外の理由が聞けることを期待していたのもある。
外に出たこと自体は成功していたはずだ。
出かけると伝えただけであんなにも喜び、服や今日のことについて何度礼を言われたか。
溢れんばかりの笑顔も。名を呼ぶその声も。太陽の下で輝く夜色の瞳も。ノアールは心の底から喜んでいたはずだ。
……まさかあの兎と再会させてしまうだけではなく、コーヴァスにまで会わせてしまうことになるとは。
力んだ指が軋み、ほどいても怒りは収まらず。手を出したアルビノにも、何より近くにいながら止められなかった自分自身も許せずにいる。
第一、タイミングが良すぎる。
ノアールを連れ出したその日に、偶然植物園で会うなど。そもそも、アルデン家には兎用の専用の温室もあるという。わざわざ連れ出す理由はない。
なにより……ノアールを引き取るという発言は、未だに彼を狙っているということを隠しもしていない。
やはり、お披露目前に仲介所に現れたのはコーヴァスで間違いないだろう。
あの欲を孕んだ瞳を思い出すだけで、腸が煮えるように熱い。
なぜノアールを狙っていたのか。その理由こそ定かではなくとも……やはり、彼の手に渡すのだけはならない。
ピルツの選んだ候補に間違いはないだろう。だが、コーヴァスが脅迫し、無理矢理兎を譲与させた疑いがあるのなら、万全とは言い難い。
それでも、いつかは手放さなければ。
今の状態は、あくまでも保護。そして、その期間はもうじき迫っている。
「……辛い思いを、させてしまった」
コーヴァスの動向については、既に他の者に任せている。
今の時点でヴァルツに打てる対策はなく。そして、自分が向かえば無理にでも起きてしまうノアールの元に行くこともできず。
零した声も漏れた息も深く、机に跳ね返るそれは鼓膜に戻って重く重くのしかかる。
「件のアルビノも無関係ではないでしょうが、あの落ち込み様はそれだけではなさそうです」
「他の兎に会ったのも影響しているだろうが……ともかく、心労だというなら、今は休ませるしかないだろう」
「ヴァルツ様」
違う仲介所にいた兎でも、ノアールにとっては記憶を呼び起こす要因だっただろう。
外に連れ出したのは軽率だったかと、真実から目を逸らそうとする主人を咎める声は厳しい。
否、自覚しているからこそ。その声は鋭く刺さる。
「休ませるよりも、一つ確実な方法が」
「……なんだ」
「ノアール様を正式にお迎えすることです」
分かっていた通りの言葉。これまで何度も繰り返してきた問答。
いつもなら軽く流せるそれも、今はヴァルツの神経を逆撫でるだけ。
舌を打たなかっただけマシだろう。だが、その瞳は鋭く、まるで研ぎ澄まされた刃のようにセバスを睨みつける。
「セバス。何度も言っているが俺は」
「兎がこれだけ弱ることなど、主人が絡むこと以外には考えられません」
苛立ちを隠さぬ唸りが、淡々とした響きに掻き消える。有無を言わさぬそれもまた、普段の戯れとは違う響き。
睨み付けた先。深い皺の奥。モノクル越しの灰色は、普段と変わらぬ笑みを携えながら己の主人以上に鋭い。
「すでに、ノアール様はヴァルツ様が主人であると認識しているのでしょう」
「……ここで保護した初日に、そうではないことは説明している。お前もそばで聞いていただろう」
「ええ、間違いなくこの耳で聞きました。それはノアール様も同じでしょう。だからこそ、その気持ちを伝えれば迷惑になると理解し、体調を崩したのではないですかな」
反論できなかったのは、僅かでも心当たりがあったからだ。
ふとした瞬間、落ち込むような素振りを見せ始めたのは……ピルツがこの屋敷に来た時以来だ。
あの時、ノアールは会話が聞こえていたと言っていた。
その詳細までは聞こえなかったと言っていたが、屋敷の最奥にいてもホールの音が届く聴力なら、聞いていてもおかしくはない。
記憶にあるのは、ノアールを受け入れないことを念押す言葉で。
もし、それでノアールが傷付いたというのなら……他でもない、ヴァルツが原因だ。
たとえ半分血が混ざっていようとも、世間から望まれた姿ではなくとも、ノアールは紛れもなく兎。
愛されたいと願うのは、兎にとって何らおかしいことではない。
たとえその意味が歪んでいようとも、求められたいと望むのは兎にとって当然の欲求だ。
そして、その気持ちを満たせるのは受け入れた飼い主だけだ。
兎は、受け入れてくれた主人に愛されようとするために、自身もまた想いを寄せるという。
たとえヴァルツがそうではないと言い聞かせようとも、ノアールもそうであったということ。
これまで職務として見てきたあらゆる事例は参考でしかない。ヴァルツ自身が向き合わなければならないのだ。
ノアールに対してはもちろん、己を蝕む過去に対しても。
「ヴァルツ様も、最初から分かっていたのではないのですか。本当に保護するだけならば、ここまで関わる必要はなかったはずです」
今度こそ、咎める声に反論も封じられる。
守るだけなら。ただ、保護するだけなら、通常の処理で問題なかった。わざわざ屋敷に連れてきて、ここまで面倒を見る必要はなかった。
同じ猫科の血が流れているのも、これまで虐げられてきたことへの同情も、理由にはならない。
保護しているだけと、そう言い訳していたのは……他でもない、自分自身。
「確かに兎は愛らしく、そして無知であるように求められております。……ですが、全ての兎が愚かというわけではありません。そして、どの兎も主人に対しては極めて聡いものです」
分かっていると、口に出すことはもうできなかった。
これで二度目。数日前にも言われた忠告は、それこそ分かっているつもりでいただけ。
機会を与えられ、惜しみなく知識を注がれたノアールは、今でさえ兎と言われても気付かれないほどに成長した。
それは見た目だけではなく、内側からも。今でこそまだ人に怯えているが、その恐怖さえ失えばいよいよ他人には分からないだろう。
まるで乾いた土に水を与えるように、与える全てを吸収し取り込んだ美しい蕾は、もうじき開こうとしている。
それはノアールの素質か。それとも、半分である血の影響か。
……否、そうではなく。そうだとヴァルツが望んだからこそ、ノアールはここまで頑張ったのだ。
ノアールが自覚していたかはわからない。だが、あらゆる行動は、兎としての本能が無意識に行わせているのだ。
どうすれば主人が喜ぶのか。どうすれば、悲しませずにすむのか。どうすれば、気に入られるのか。
それは仲介所に教育された結果でもある。だが、全てはそこに集約されるのだ。
ヴァルツに求められるために。必要とされるために。
そうして、愛されるために。
表情、態度、声。見聞きできるあらゆる所から感じ取っているのだ。
……そう。ヴァルツがいかに隠し通そうとも。
どれだけ兎に見えなくとも。ノアールが兎である以上、彼には分かってしまうのだ。
その上で、求めないと。愛さないと言われ続けた兎の苦痛は、どれだけ酷かったか。
「ヴァルツ様。ノアール様を同情から引き取ったというのなら、お互いのためにも離れるべきでしょう。今からでも監視局の預かりにし、他の者に面倒を見させればいい。ですが、そうではないのなら……どうか、彼と真剣に話をなさってください」
それは、ヴァルツの幸せを。そして、ノアールの幸せを望むからこその願いだと。セバスの頭が深く、深く下げられる。
「兎は、主人に愛されることが全て。それは混血であろうと、兎としての教育を正しく終えていなくとも変わらぬこと。……そして、たとえあなた様が全てを乗り越え、ノアール様を抱いたとしても。あなた様の思いを伝えなければ意味がないのです」
「……セバス」
「兎の愛し方は一つではありません。ですが、その正しい形があるとするならば……それはヴァルツ様がノアール様に示すしかないのですから」
どれだけ態度で示そうとも、想いは伝わらなければ意味がないのだと。そう言われてしまえば、いよいよ溜め息は落ちず、視線は机の上へと落ちる。
されど、見えるのは紙面ではなくいつかの記憶。
血に染まる赤。響く悲鳴。怯える視線。……ヴァルツが、ノアールを想いながらも認めることのできなかった元凶。
噛み締めるように伏せた目蓋の向こう。揺らいだ蒼は、前を向いた。
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