20.植物園
蹄が石畳から土を蹴る音に変わってから数十分。
この屋敷に来て最初の外出は、準備の時点で初めてのことばかりだった。
新しい服。耳をすっぽりと覆う帽子。仕事に行く時とは異なるヴァルツの姿。
最初に馬車に乗ったときはヴァルツの膝の上だったが、乗るときに手を引かれたのも、座席に座ったのも今回が初めてのこと。
窓から見た街の景色も。そして今、ヴァルツと二人で見て回った植物園だって。何もかもが新鮮で、ずっと飛び上がりそうなのを我慢していたほど。
ノアールの背丈ほどもある巨大な葉や、風に揺れると音が鳴る花。水を与えることで色の変わる草や、触れるとお辞儀をするものまで。見たことのない草花ばかり。
ヴァルツの言う通り他にも人はいたが、この植物園が国の管理下にあることと、爵位を持つ者しか入れないこと。そして、街から離れた場所に位置していることから、その数も多くはなく。
姿を見かけて囁くことはあったが、ヴァルツに話しかけてくる者も、ノアールが兎だと気付く者もいなかった。
帽子で耳を隠していたのもあり、聞こえる音もほとんど気にすることなく、ここまで無事に見終えることができたのだ。
「疲れていないか」
植物園の最奥。温室の隅に設置されたベンチで隣り合ったヴァルツが声をかける。
馬車に乗ってから今に至るまで、ずっとノアールの体調を気遣ってくれている。
移動の時は腕を組み、今は手を握られて。片時も離れることなく、ずっと一緒。
普段、頭を撫でられることは度々あるが、こうして触れ合っていることはなくて。もう、自分が何で喜んでいるのか一つずつ挙げることも難しいほど。
今日感じた全てが、与えられた何もかもが、嬉しい。
それこそ、今日まで感じていた苦しささえも忘れてしまうほどに。
「大丈夫です。ヴァルツ様はお疲れではありませんか?」
「私は慣れている、心配しなくてもいい。……ここは、楽しかったか?」
「はい! あっ……すみません。でも、とても楽しかったです」
いくら人が少ないとはいえ、大声を出すのはいけないと。慌てて謝りながらも、楽しかったことはしっかりと伝える。
「入り口にあった大きい葉っぱも、小さい花がたくさんついていた木も、蝶々みたいな花も、全部凄かったです……!」
もっと勉強をしていれば、この嬉しさをもっと適切に伝えることができたのだろう。
いや、やっぱり同じような言葉しか使えなかったかもしれない。
興奮のあまり毛はずっと膨れていたし、身体はふわふわと落ち着かなくて、頬はずっとポカポカしている。
本当に、夢のような一日だった。あるいは、今度こそ本当に夢を見ているのかもしれない。
そんな言葉にできない感情も、ヴァルツには伝わったのだろう。
彼の表情も今日は一段と柔らかく、穏やかな笑みをこれだけ見つめていられるのも初めて。
「気に入ったのなら、ここの図鑑を買って帰ろうか」
「だ、大丈夫です! 服も帽子もくださったのに、これ以上なんて……!」
服や帽子だけではない。ヴァルツとの時間だって、これだけもらってしまったのだ。
その上に、まだ何かを頂くなんて、このままでは両手から溢れてしまいそう。
「お前が喜んでくれるのなら、かまわない」
「ですが、」
「私がそうしたいんだ。……嫌か?」
「そんなことありません!」
だからもう十分だと首を振ったのに、そう聞かれてしまえば嘘は吐けない。
ヴァルツからもらえるのなら、服でも本でも、形の無いものだったとしても、なんだって嬉しい。
だって、その言葉だけでもノアールはこんなにも満たされているのだから。
「嬉しい、です。本当に……ありがとうございます、ヴァルツ様」
この気持ちを、正しく言い表す言葉をまだ知らず。同じ言葉を繰り返してしまうのは、それでもヴァルツに伝えたいからだ。
嘘ではなく、本当に。心の底から、嬉しいのだと。
純粋な兎ではない自分に。それでも兎と呼んでくれるこの人に。
ただ保護しているだけで、仕事のためだと分かっていても優しくしてくれるこの人に。
どうすれば伝えきれるのかと悩んでも、答えはノアールの中にはなく。今は、笑って見上げることだけが、彼にできる最大限。
煌めく黒に見つめられた蒼が緩み、同じように微笑んで。……それから、ふと影が差す。
「……ノアール」
柔らかさの中に、ほんの少しの固いもの。怒りではなく、悲しみでもない響きに、ノアールの耳が揺れる。
大切な話だと理解できても、どんな話かを予想することはできなくて。瞬いた黒は、見つめる蒼を見上げるだけ。
「お前が来てからもうじき一か月になる。屋敷の生活には慣れたか?」
「? えっと……もう迷子になることは、なくなりました……?」
「あぁ、そういえば。そんなこともあったな」
ヴァルツも思い出したのだろう。笑う息が鼓膜をくすぐり、耳が反応し続けて擽ったい。
「セバスやメイドたちとはどうだ?」
「セバスさんも、他のメイドの皆さんも私に優しくしてくれています。あ、えっと、もちろんヴァルツ様もです!」
本当に、皆が優しくて、温かくて。だけど、一番はやっぱりヴァルツ様だと声を張れば、クツクツと笑われて胸の奥がじわりと温かい。
「セバスも先生も、お前が優秀だと褒めていた。よく頑張っている」
「あ……ありがとう、ございます」
セバスに褒められることは確かに増えている。それだって嬉しいけれど、ヴァルツから褒められると顔がだらしなく緩んでしまいそうになる。
なんとか我慢できても、無意識に動く尻尾までは抑えきれず。くにゃくにゃと動く先を見られているとは気付かないまま。
「……だからこそ、お前が無理をしていないか心配している」
「無理、ですか? でも、勉強は楽しいですし、えっと……身体の調子も、本当になんともなくて……」
「だが、お前を不安にさせていただろう」
見開いてしまった目は、口よりも多弁である。
揺れてしまった黒と、確信をもった蒼。先に逸れたのは見上げていたノアールで、落ちた先は自分の手元。
指先を強く掴む手に重なるのは、ノアールよりも大きく、いつだって温かい手。
「食事をとれなかったのは、そのせいだろう?」
「それ、は……」
兎は、嘘を吐いてはいけない。だから、その言葉を否定できず、噛み締めた唇から漏れる音は何もない。
「ノアール」
「……ヴァルツ、様」
「お前も知っている通り、私はあまり話すのが得意ではない。そのせいで、お前に話すべき事を、お前が不安になっていると分かっているのにずっと話せずにいる」
強張った身体も、跳ねてしまった肩も、触れた肌から全て伝わってしまう。
脳裏を駆け巡るのは、ピルツとの会話。愛することはないと断言したあの言葉が蘇る。
忘れかけていた痛みが呼び起こされて、強く唇を閉じて。聞きたくないのに、耳を塞ぐことはできない。
できたとしても、ヴァルツの声を聞かないことは、きっとできなかった。
「お前が何かを不安に思っていたことは知っていた。それが私に関係することも、お前の心を晴らせるのも私だけということも分かっていながら、何もしてこなかった。……すまない、ノアール」
「違います! ヴァルツ様が謝ることは、なにもありません!」
必死に違うと訴えても、首を振るヴァルツに、ノアールの顔が歪む。
違う。本当に、違うのだ。ヴァルツ様は悪くはない。
だって、ヴァルツは最初から伝えていたではないか。
愛することはないと。これは、ただの保護で、それ以上の意味はないのだと。
それなのに、それを望んだ自分が。
もう十分、与えて貰った自分が。愛されたがっている自分こそが、悪いのに。
「わ、私が、純粋な兎では、ないから……」
「昨日も言った通り、混血も純血も兎であることに変わりない。誰からか混血であることを責められたのか」
「違います!」
首が取れてしまいそうな程に否定して、本当に違うのだと、全身で伝える。
違う、そんなこと誰からも言われていない。セバスさんにも、メイドの人たちにも、誰にだって。
「本当に、誰にも言われていません! し……信じて、ください」
「……そうだな。お前は嘘を言わない。そこまで言うのなら、本当なんだろう」
信じると言われ、ようやく身体の力が抜ける。まだ心臓はけたたましいが、勘違いでセバスたちが怒られることがなくてよかった。
だって、これは他の誰でもなく。ノアールだけが悪いのだから。
「なら、前にいた場所で言われたことを気にしているのか?」
気にしていない、と言えば嘘になる。だが、そうだと肯定するには少し違って、頷けない。
答えられずに沈黙していれば、ノアールの手を握る指に力がこもる。
そうして小さく。本当に小さく吐いた息は、それでもノアールの耳には十分過ぎるほどに、大きい。
「……ノアール」
静寂を破ったのはヴァルツから。
背から肩に、そうして頬へと手が移り、導かれるように再び合わさった蒼が揺らぐ。
「お前に伝えなければならないことを言えずにいる私は、お前にとって信頼できる存在ではないのだろう。お前の不安を取り除けるだけの行為をしてきたとも思っていない。それでも、」
否定も、言葉の続きも。どちらも出なかったのは、ヴァルツを呼ぶ声が聞こえたからだ。
振り返った先に見えたのは、セバスと一緒に待っているはずのメイドの姿。
その表情は、ノアールでもよくないことが起きたことが分かるほどに固い。
「失礼致します。至急、お伝えしたいことが……」
「何があった」
問いかけても答えず、代わりにノアールに視線を移される。
自分に聞かせたくない内容だと気付けば、次に取るべき行動は早い。
「あの、大丈夫です。私はここで待っています」
「……すまない、すぐに戻る」
一瞬迷ったが、他に人影もいないことから大丈夫と判断したのだろう。
二人が離れた所で止まったのを見て、会話を聞かないようにと意識を逸らす。
それでも聞こえてしまう二人の声に、もう少し離れた方がいいのかと考えて……ふと、聞き慣れない音に耳が揺れる。
一定のリズムで繰り返されるのは、誰かの呼吸。どこか具合が悪いのか、僅かに荒いそれに誘われるまま、道を外れて草陰の中へ。
そうして覗き込んだ先で――真っ先に目に入ったのは、長い耳だった。
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