17.ノアールの不安
浅い眠りから引き上げたのは、扉を開ける音と、続けて響く足音だった。
鳴らさないように殺しているはずのそれも、ノアールが反応するには十分なほどに大きく。そうでなくても、聞き慣れた重い靴音を聞き逃すことはなかっただろう。
シーツから顔をあげれば、暗闇に浮かび上がる巨体を見つけ。少し強張った蒼に、ぱち、と瞬く。
「う゛ぁる、つ、さま?」
「……起こしたか」
いつの間に眠ってしまったのか。起きようとしたノアールを止めたヴァルツがベッドに腰掛け、その姿を見上げる。
思い出すのは、頭の中に巡り続けていた思考の欠片。
ピルツ様。前にいた仲介所。お仕事のこと。朝食のお誘い。……そして、聞こえてしまった言葉。
思い出せば胸の奥がぐるぐると渦巻いて、握りしめた手はシーツと一緒に。
「すまない、少し顔を見たかっただけで……」
「おかえり、なさいませ。……お仕事は、大丈夫、でしたか?」
寝起きのせいか呂律が回らず、声もふわふわとおぼつかない。
くぁ、とあくびが漏れれば笑う音がふってきて、柔らかな瞳に見つめられる。
「ああ、何も問題ない。……お前の方は、何もなかったか?」
問われたのは、毎晩交わしているのと同じ言葉だ。
今日は何があって、何を教えてもらって、何に気付いたのか。それを伝えることも、こうして過ごせること自体が嬉しくて温かいはずなのに、今は胸の辺りがぎゅうと痛んでしまう。
兎は、嘘をついてはいけない。それは今の先生からの教えではなく、仲介所にいたときに盗み聞いた記憶から。
掃除をしている時や、洗濯や皿洗いの水仕事の間。屋敷の中で働いている間、微かにでも聞こえていた兎としての心得。
自分が兎として扱われないとわかっていても、思わず耳を澄ませ、覚えてしまうほどには聞いてきたのだ。
ご主人様の命令には逆らわないこと。常に笑顔でいること。お客様には、許可があってからお話しすること。挨拶をきちんとすること。愛らしく振る舞うこと。そして、嘘をつかないこと。
それは全て、兎がご主人様に愛されるために必要なのだと。何度も何度も、ノアールは耳にしてきた。
だから、本当はヴァルツに正直に伝えるべきとも分かっていて……それでも首を振るのは、本当に何もなかったからだ。
これは、ノアールの心の中だけの話。だから、嘘は吐いていない。
「ピルツ様のお仕事も大丈夫でしたか?」
「問題ない。大丈夫でなくても、あいつの行動の結果だ」
少し苛立ちが含まれたのは、昼間のことを思い出したからだろう。
本当にピルツの仕事が増えたのかは定かではないが、どこか柔らかい雰囲気は彼との仲がいいことも示している。
「ピルツ様とは、昔からのお知り合いだと」
「子どもの頃からの、いわゆる幼馴染みというやつでな。小さい頃は一緒にセバスから怒られていたものだ」
「ヴァルツ様が、ですか?」
ヴァルツの子どもの頃も想像できないが、セバスに怒られていたのなんてもっと考えられない。
ノアールのように集中できなかったのだろうかと目を瞬かせれば、肩をすくめられる。
「私にも生意気だった頃があったということだ。そうだな、学校に通い始めた頃は……ちょうどお前ぐらいの背だったか」
「ヴァルツ様が、私と同じぐらい……」
「どうした?」
信じられないが、ヴァルツが言うのならそうなのだろう。
一体どんな風だったのかと考えて顔を綻ばせれば、今度はヴァルツが不思議そうに覗き込む。
「いえ、その頃のヴァルツ様も、きっと温かくて優しかったんだと思いまして」
「……そう言うのはお前ぐらいだろう」
背丈は変わらなくても。その手が今より小さかったとしても。きっと、感じる温かさも柔らかさも変わらなかったのだろう。
素直に口にすれば、同じようにヴァルツの表情も緩む。
だが、その目元には疲れがにじんでいるし、うっすらと隈も見える。
何事もないように見せているが、やはり疲れているのだ。
「お仕事が忙しいのは、私がいた仲介所が関係しているんですよね……?」
「なぜそう思った?」
「ピルツ様とのお話が聞こえて……あ、でも、少しだけなので、詳しいことはなにも……」
勉強に戻ってから暫くして、聞こえてしまった二人の会話。
聞き取れたのは端的な言葉だけだが、あの仲介所が関係していると理解するには十分なほど。
ノアールがここで保護されてから、もう数週間は経っている。
あのオーナーたちがどうなったかノアールは知らないが、問題はまだ片付いていないのだろう。
「無関係ではないが、他の仲介所の処理も重なって、この時期は特に忙しい。お前もあの場所については思い出したくないだろうと伏せていたが……」
頭の奥で聞こえる大声に、指先に力が入る。
長年呼ばれ続けてきた名前。暗く冷たい場所。汚いと嗤う声と、ずっと抱き続けてきた憧れ。
思い出したくない、といえば嘘になってしまう。今でも夢に見てしまうし、叩かれた痛みだって思い出せる。
骨を貫くような冷たさも、それ以上に冷たかった胸の奥も。
それでもと、ヴァルツを見上げる瞳は光は強く。まるで、星が瞬くように。
「あの……私が話すことで、何かヴァルツ様のお役に立てますか?」
「え?」
「書類についてはわかりませんが……そうしたら、ヴァルツ様も早く休めるようになるのではないかと思って」
毎晩話をしたくて、起きて待っていた自分が言えたことではないだろう。
自分が知っていることなんて、ヴァルツ様なら全部知っていることも分かっている。
それでも、何かお役に立てるのではないかと。望むのならどんな些細なことでも思い出せると。そう伝えた言葉も嘘ではないのに、ヴァルツは首を振るだけ。
「いや、もう調べはついている。お前を傷付けてまで知りたいことはない」
「そう、ですか……」
「……あ、いや……そうだな」
頭の代わりに視線を落として、痛みを誤魔化す。
やっぱり役に立てなかったと落ち込んで。否定の言葉に、耳が僅かに跳ねる。
「お前を保護する数日前、誰か客人が尋ねてこなかったか?」
「ヴァルツ様の前に、ですか?」
「ああ。あるいは、普段と何か違うことがあった記憶は?」
はた、と瞬き、首を傾げたのは心当たりがないからだ。
お客様が来ていいのは、本来はお披露目の間だけ。時折、オーナーを訪ねて来る人もいたが……いつも物置に閉じ込められていたので、どんな人が来ていたかもノアールは知らない。
あの日だって、もしお客様が来ていたなら外に出ないよう言われていただろう。
「お客様は、多分来なかったと思います。……聞き慣れない声なら、しましたが」
「聞き慣れない声?」
「仲介所にいる人の声は全部覚えていたんですが……オーナーに言われて外の掃除をしている時に、話し声を聞いたんです。でも、お客様だったら外に出ないよう言われるので、多分お客様ではなかったと……」
お前がサボらないように見張ると言われて、外で掃除をするように言いつけられたのは覚えている。
普段は見張る、なんてわざわざ言われないので珍しいとは思っていたが……。
「会話の内容は覚えているか?」
「アルビノを褒めていたのと、一緒に迎えたい兎がいるという話も……お客様じゃないのにお迎えできるのかな、と不思議には思っていたんですが……お役に立てなくて、すみません……」
「いや、十分助かった。……お前が気に病むことはない」
何度も、何度も。撫でられる頭が心地良くて、触れる指先が柔らかくて。褒められて嬉しいのに、それでもやっぱり、胸の奥が痛い。
ヴァルツ様は、本当に優しい。
純粋な兎ではない自分を保護して、名前までくださって。こうして毎日お話をしてくれて。
暖かい場所も、おいしいご飯も、柔らかい寝床も、綺麗な服も。全部全部、用意してくれて。
こんな自分を兎だと言ってくれて。優しくしてくれて――だけど、愛してはくださらない。
本当に、ノアールは聞くつもりはなかったのだ。誰か扉を開けていなければ、届かなかったはずの一言。
最初から繰り返し伝えられていたことだ。
ノアールがここにいるのは、ただ保護をしているだけ。愛することはないとヴァルツにも最初から言われている。
だから、ピルツにそう答えているのを聞いても、傷付く理由はないはずだ。
そう、最初から全部わかっていたはずだ。
ヴァルツが兎を嫌いなことも。保護したのも、監視官の仕事のためであることも。
嫌いなのに、優しくしてくれる理由こそずっとわからなかったが……毎晩ノアールに話しかけてくれるのも、頭を撫でてくれるのも、全部仕事のためだったと思えば理解できた。
ノアールが兎としての教育を終えて、他の人へ引き取られていくまでの間だけ。
ピルツはもう、次の引き取り手も決まっているといっていた。だから、ここで下働きとして働くこともできない。
保護の期間が終われば、ヴァルツとはもう、会えない。
「ノアール」
呼ばれるほどに嬉しくて、それ以上に胸が痛む。
見上げた顔は苦笑とも怒りともいえない、なんとも言えない顔。
「ヴァルツ様?」
「……いや、起こして悪かった。さ、もう眠りなさい」
起きてしまった自分が悪いのにと訂正する間も与えられず、シーツをかけられて、もう話は続けられない。
「おやすみなさい。……ヴァルツ様」
「おやすみ、ノアール」
最後に頭を撫でられて。あっという間に遠ざかってしまった後ろ姿を、扉が閉まったあとも見続ける。
足音が遠ざかり、何も聞こえなくなって……そうして、ズキズキと痛む胸が鼓膜を叩く。
ヴァルツのことを考えると、嬉しくて、温かくて、柔らかくて。なのに、こんなにも苦しい。
もう十分与えられたはずなのに。これ以上なんて、求めてはいけないのに。
暖かい場所も、兎として扱われる喜びも、名前も、優しい感情も。全部。
もし明日、全部失ったとしても、これから先ずっと生きていけるほどには与えられたはずなのに。
愛されないことは、わかっているのに。
それでもいいから、ここにいたいと思ってしまうのは。兎ではなくてもいいから、ここに残り続けたいと願ってしまうのは。
たとえ、いつか、他の兎をヴァルツが迎えるとして。それでもいいから、この場所にいたいと。あの人のそばにいたいと願ってしまうのは……どうして、なのか。
わからない。わからないのだ、何も。
自分のことも、ヴァルツのことも。どうして、あんなにも辛そうな顔をするのかも、全部、全部。
自分の欲深さに目を強く閉じて、首を振って縮こまる。
幸せなはずだ。幸せだ。あの場所にいたときよりもずっと、もっと。
……だから、欲しがってはいけないのだと。自分に言い聞かせるノアールに、穏やかな眠りが来ることはなかった。
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