14.夜のお迎え
ホールの扉が開く音に、兎ほど長くはない耳がピクリと揺れる。
続いて聞こえる重い足音に確信を得て、ベッドの中からそっと抜け出す身体は今まで横たわっていたとは思えないほどに軽い。
室内靴を履くことも忘れ、ふわふわの絨毯を素足で踏みしめて。自分の音を少しでも小さくしようと努力するのは、扉越しの音を少しでも聞き取りたいからこそ。
出迎えるセバスの声と、それに返事をするヴァルツの声。聞こえていてもよくわからないのは、まだノアールがその言葉をセバスたちから教えてもらっていないから。
ホールから扉、そうして階段へ。近づいてくるのを感じても出迎えに行けないのは、本当は眠っていなければいけないから。
でも、姿だけでも見たいと捻ったノブの隙間。薄暗い世界に目を凝らしても、ノアールの目はその影を捕らえることができない。
まだ見えるところまで来ていないのだと、その瞬間を待ちわびて――先ほどよりも鮮明に聞こえる靴の音に、違っていたことを知る。
「ノアール」
「……あ」
気付けば、黒い影は目の前に。隙間は完全に開かれて、見上げた先あるのは見たかった蒼い光。
「お……おかえり、なさいませ」
ようやく言えた出迎えの言葉に対し、細まった蒼を見たノアールが無意識に服を握り締める。
ノアールが保護されてから二週間。初めは夢だと思い込んでいた世界が、本当に現実だと認識するまでに一週間はかかっただろう。
そのうちの三日は、熱で寝込んでいたから、実際の体感は四日から五日。
初めて飲んだお薬というのが苦い味で、口直しと称して与えられた果物が甘酸っぱい味だというのを知って。
卵やベーコン、スープに、お肉。体調が良くなるにつれて与えられる食事も、柔らかい物から固形物へと変わり。その度に、新しい味を知って、驚いて。
驚くと言えば、運動を兼ねて、とノアールに付いてくれるメイドと一緒に見て回った屋敷の中もそうだ。
どこまでも続いていそうな廊下や、ノアールの足では登り切れないほどの階段。食事を作る厨房に、仲介所にはなかった庭というところも。
見える物全てに、まるで赤子のように興味を示すノアールに対し。
メイドもセバスも、嫌がることなく一つずつノアールに教えてくれる。
他にも、兎として必要な教育は外から来る先生に教えてもらっているところだ。
仲介所にいたときは、朝から寝るまではずっと仕事の時間で。ご飯は眠る前にだけ食べられていた。
今は、朝起きたら支度を調え、先生が来る日は授業を受けて、来ない日は渡された本で勉強をして。
そうして、日が沈んだらご飯を食べて、お風呂に入って、眠る。
あまりにも違いすぎる生活も、二週間もすれば慣れてしまったもので。読める文字も、聞いて分かる言葉も増えて、毎日がとても新鮮で眩しい。
今はもう眠るのも怖くはない。……のに、こうして眠れずにいたのは、また違う理由から。
ヴァルツ様はノアールが起きるよりも早く屋敷を出て、帰ってくるのも深夜。
飼い主ではないと理解している。ただ、ヴァルツ様は仕事として自分を保護しているだけとも、分かっている。
それでも、ノアールがヴァルツの姿を見られるとしたら、帰ってきたこの瞬間だけ。
期待するせいで目が醒めて眠れず、そうしているうちに音が聞こえて……それを、もう一週間以上も続けてしまっている。
「…………ただいま」
やや長い沈黙の後、返された言葉が低いのは仕事の疲れか、起きていたノアールへの怒りか。
わずかに落ちたため息に、反応してしまった耳を蒼が掠め見る。
「前にも伝えたが、私が帰ってくるまで起きている必要はない」
「あ……す、みません」
「責めているのではない。……無理を、しなくていいということだ。調子が良くともこんな時間だ。眠たいのなら寝ていていい」
「ねむれ、なかったので」
出迎える必要がないことは、ヴァルツからもセバスからも言われている。
言われたとおり、寝ることを望まれているのだって、理解している。
もう眠ることは怖くないし、ここが夢ではないことも……まだ信じられないが、それでも、突然醒めるものではないことも、ノアールは分かっている。
前はどれだけ寒くても、どれだけお腹がすいていても、いつの間にか眠っていたのに。
聞こえる音は確かに多くて。でも、仲介所にいたときはもっとうるさい時もあったから、眠れないわけではなくて。
それでも起きてしまうのは、ヴァルツが帰ってくるのを待ち望んでしまっているから。
その姿を見たいと。そう、望んでしまうから。
「まだ眠るのが怖いか」
首を振り、否定し。でも、正しい理由も言えず。沈む視線が捉えたのは、差し出された手の平。
「おいで」
はた、と瞬き。手を繋いで。ベッドまで連れて行かれるのも毎晩のこと。
外の空気に晒されていた肌は冷たく。それでも温かい手に少しだけ鼓動が強まる。
誘導されたベッドに横たわり、その端に腰掛けたヴァルツを見上げれば、柔らかな蒼が降り注ぐ。
「今日はなにをしていた?」
「あ……先生が来られていたので、授業を……それと、お庭で花の名前を教えてもらいました」
ノアールが帰りを待ってしまうのは、こうして話をすることが多いのもある。
最初からこうだったわけではない。帰りを待ちわび、繰り返しているうちに、いつの間にか習慣となったのだ。
仕事で疲れているヴァルツを長く引き止めたくはないと、ノアールも初めのうちは断ったが、その度に気にしなくてもいいと言われ。何を学んだかを直接聞くのも仕事のうちだと言われてからは、ノアールも素直に話をするようになったのだ。
監視官の仕事について、ノアールも理解しているわけではない。
この国で禁止されているものや、危ない物を取り締まること。兎に関する法を管理していること。
仲介所にいたときに、他の兎やオーナーの会話でそれは知っているが……この屋敷に来てから、その知識量はほとんど変わっていない。
ノアールが思っている以上に大変で、重要な仕事であることは、間違いないだろう。
仕事だけではない。こうして今も話を聞いてくれるヴァルツについても、ノアールはほとんど分かっていない。
監視官の中でも、特別に偉い人。獅子と呼ばれる種族で、とても優秀だということ。
だから、そんなヴァルツ様に選ばれた仲介所ははくというのがついて、だからオーナーもアルビノも喜んでいたということ。
そして……本当は兎が、嫌いだということ。
直接聞いたのはアルビノが嗤いにきた一度だけ。
でも、ここに保護された最初の日にも、飼い主ではないから愛さないと告げられている。それを忘れたわけではない。
今は、兎として学ぶべき内容を覚えながら、身体の調子を戻すのがノアールの役目だとも分かっている。
……だからこそ、ノアールはこの人のことがわからない。
兎が嫌いなのは本当だろう。保護のために仕方なく屋敷に連れてきたのも、嘘ではない。
監視官の仕事がどれだけ凄いかだって、ノアールの頭ではちゃんと理解できていない。
それでも、仕事だというだけで、こんなに優しくしてくれるのだろうか。
ノアールは、確かに兎らしくはない。長い耳も、短い尻尾もない。少年のような外見でもない。
そんなノアールに、こうして話しかけてくれるのは……一緒に過ごしてくれるのは、本当に仕事だけであるのか。
「どうした」
声をかけられ、考え込んでしまったと慌てて顔をあげる。
どこまでお話したかも忘れてしまって、首を振ったのは、気まずさと少しの恐れから。
「な、なんでもありません。あの……ヴァルツ様のお仕事はどうでしたか?」
「特に変わりはない。確認をして、他の者に仕事を割り振っただけだ」
「わり、ふる」
「……その仕事ができそうな者に、お願いをしたという意味だ」
わからない言葉を繰り返せば、すぐ言い直してくれるのはセバスも同じ。
だが、より嬉しく思うのも、困惑するのも、ヴァルツに説明される方が強く感じる。
これまでいくつも質問してきたが、それでも、嫌いなはずなのにここまでしてくれる理由だけは、やはり聞けない。
「ヴァルツ様にしかできないお仕事だと、セバスさんは言っていました」
「必ずしもそういう訳ではない。あくまでも組織の……いや、私がいなくても大丈夫なようにはなっている」
ヴァルツにしかできないのに、ヴァルツでなくてもできる。言い直されても、難しいときは難しい。
先生の授業を受けて、もっと多くのことを知れば、ノアールにも理解できるようになるのだろうか。
でも、兎としての知識を身に着けた時にはもう、ノアールはヴァルツのそばにいないということ。
……そして、どれだけ学ぼうとも、ノアールを兎として受け入れてくれる人は、いない。
本当の兎が正式に迎えられた後に何をするか、正確に知っているわけではない。だが、皆決まって愛されるのだと言う。
名を頂いて、居場所を与えられて。そうして、愛してもらうのが兎にとっての幸せなのだと。
そのためにも、自分たち兎が何をしなければならないか。何をしてはいけないか。どうすれば愛されるのか。
方法こそ教えてもらえても、愛される意味をノアールは知らないのだ。
小さくて、愛らしくて、純粋であるほどに愛されることは知っている。ならば、やはりノアールはそうではない。
どれだけ兎と言われようとも、この大きすぎる身体は求められることはないのだ。
もし、保護する期間が終わって。思っていた通り、誰にも引き取られなかったら……自分は、どうなるのだろうか。
兎として求められないのなら、雑用をして生きていくしかないだろう。
……そして、こんな自分を雇ってくれる場所なんて。どこにあるのか。
「……あ、の。ヴァルツ、様」
「なんだ」
「私にも、何かお役に立てることは、ありますか?」
瞬く蒼を見つめ、被せられたシーツを握り締める。
そもそも、最初からノアールは雑用として置いてもらうつもりだった。今は保護として扱われているが、それもずっとという訳ではない。
兎としての価値がなくても、それ以外のことはできるはずだ。仲介所にいたときも、ずっとそうしてきたのだから。
使えると判断されれば、その時が来ても死ぬことはないはずだと、一縷の望みをかけて訴える。
「お掃除も、お皿洗いも。じゃがいもの皮むきもできます。煙突の掃除も――」
「煙突だと? アレはそんなことまでさせていたのか?」
「あ、いえ! 身体が入らなかったので、見えるところまでしか……」
言いつけられたのだって、今よりもまだ身体が小さかった頃の話だ。
それでも兎に比べれば大きかったし、肩がつかえて入れなかったので、届く範囲しかできなかった。
「で、でも、ここのは大きいから、きっと僕でも」
「ダメだ!」
身体が跳ね、耳が伏せる。そうしたところで鼓膜に残る余韻は引かず、ビリビリとした痛みに目の前がにじむ。
否。痛いのは耳ではなく、強く打ちつけた心臓の方。
「も……もうしわけ、ありません」
「違う、お前に怒ったわけではない。ダメだと言ったのは……煙突掃除は、その危険性から専用の業者が行う決まりだからだ」
「きけんせい」
「中にこびりついた汚れのせいで息ができなくなったり、後に病気となって最悪は死んでしまうことがある。だから、特別な技術を持つ者しかできないし、子どもや……ましてや兎にさせるのは重罪に値する」
さすがに時効なので罪状に加えることはできないだろうがと、付け足した言葉の意味はわからず。ただ、それもノアールがしてはいけないこととは理解できた。
「今のお前の仕事はよく眠り、よく学ぶことだ。掃除も洗濯も、お前が手伝うことはない」
「ですが……」
「……今の生活が不安か?」
顔を見てしまい、嘘は吐けず。でも頷くこともできず。沈黙が何よりの答えであることを、ノアールは気付かない。
目を逸らすノアールに対し、落ちてくる息は柔らかなもの。
「今日は花を見たと言ったな。花がどうやって育つか教えてもらったか?」
「……? え、っと……種を土に植えて、毎日お水をあげて……太陽の光が当たって……」
「そう、あっている。種だけでは花は開かないし、土に植えただけでも芽は開かない。たとえるなら、今のお前は種で、土は眠る場所。水は食べもので、太陽は知ることだ」
今日の昼にも教えてもらったことだ。花だけではなく、木や野菜もそうやって育つのだと。
でも、自分と重ねようとすれば混乱し、理解していないのを分かっているヴァルツが笑う。
「花が開くためには、時間も栄養もたくさん必要になる。周りは花ばかりなのに、お前は種のままでいたから不安になっているんだろう。焦らなくても、お前はこれから育っていく。そのためには、たくさん眠り、たくさん食べて、先生やセバスからいろいろなことを教えてもらいなさい」
だから安心しなさいと、そう言われても不安が拭えないのは、見えている先が違うからなのだろう。
兎として迎えられると信じているヴァルツと、兎として受け入れられないと分かっているノアール。
きゅ、と結んだ唇はその内を伝えることなく。じわりと、重い感情が広がっていく。
「そうすれば、ヴァルツ様のお役にたてますか?」
「……ああ、そうだな」
間を置いた答えは、何かを考えた末に出されたもの。その感情の正体を知る前に頭を撫でられ、思考がほどけていく。
耳の間を行き交う温度に目を細め……ふと、聞き慣れない音に耳が反応する。
地響きのようで、それよりも軽い。ゴロゴロという音が自分の喉から鳴っていると気付いて、慌てて押さえても止まってくれない。
「す、すみません、変な音が……!」
慌てるノアールに対し、突然の奇行に驚いていたヴァルツも理解したらしい。
「……変な音ではない。猫科の血が流れている者は、嬉しいと喉が鳴る。お前は猫と兎の混種だから、不思議なことではない」
「そ、う……なんですか……?」
「私たちの癖のようなものだ。止める必要はない」
今まで一度だってそんなことはなかったのにと、戸惑っている間も撫でられる感覚が気持ちよくて、それだけで微睡みそうになる。
少し目蓋が閉じかけたところで、耳を叩いたのは重なる音。
思わず見上げた蒼はノアールと同じ、ほんの少し狭まったもの。
「……ヴァルツ様も、嬉しいんですか?」
「え?」
「ヴァルツ様からも喉の音がします」
ごろごろ、ぐるぐる。ノアールのとは違う、低くて小さな……でも、同じ喉から聞こえる音。
ヴァルツも嬉しいのかと問いかければ、手の動きがピタリと止まってしまう。
それどころか、口を覆ってしまったヴァルツにどうしたのかと見つめて、動きはないまま。
「ヴァルツ様?」
「……いや、なんでもない。もうこんな時間だ、寝なさい」
「は、はい。……あの、ヴァルツ様」
頭をもう一度だけ撫で、離れていく姿を最後に呼び止める。
「なんだ」
「……ヴァルツ様が嬉しいと、僕も嬉しい、です」
「…………そうか」
ふ、と聞こえる空気の音。柔らかなそれは、顔が見えなくても笑っているのだとノアールに伝えるには十分過ぎるもの。
おやすみ、の挨拶が終われば扉が閉まり、遠ざかっていく足音が聞こえなくなるまで耳を澄ませる。
胸に浮かぶのは、ふわふわとした温かい気持ちと、深く沈んだ重たい感情。
……あの人は、ご主人様ではない。自分を愛することはないし、そう求めてもいけない。
分かっていても、触れられれば嬉しくなって。話しかけられるだけで幸せで。だけど、ずっとここにはいられなくて。
もっと賢くなれば。もっともっと、多くのことを知れば、どうして自分がそう考えているかも分かるようになるのだろうか。
兎としてではなく。雑用としてでも、ここにいられるように、なるのか。
……兎嫌いであっても。一緒にいられるように、なるのだろうか。
考えてもノアールにはどうしてか分かることはなく、この疑問を言葉にすることもできない。
それでも、この温かい気持ちを。こうして与えられる物をなくしたくないと願った胸の音はトクトクと心地良く、同時にチクチクと痛いものだった。
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