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そうして、『兎』は愛を知る【BL】  作者: 池家乃あひる


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12/28

12.長い夢

 ひたり、ひたり。

 耳を澄ませても聞こえるのは、自分の足と床が触れ合う音だけ。

 隙間から吹き込む風の音も、闇夜に紛れる獣の声も、寒さに震えて軋む骨の音だって聞こえない。

 窓から見える景色は真っ暗で、まだ朝が遠いことも、今起きているのはドブだけだということも分かっている。

 トイレの位置はセバスに教えてもらったが、そこから与えられた部屋に戻る道を思い出せず。こうして彷徨い、何分経っただろう。

 人の気配がしたなら教えてもらえたが、眠っているのを起こせたかと言えば否定するしかなく。朧気な記憶を辿り、冷えた素足が繰り返し地面に触れる。

 動かす足も、壁に触れる腕も、全身がいつも以上に重たくて怠い。どんなに仕事を言いつけられた時でも、ここまでではなかったのに。

 それでも頭の中だけは痛いほどに鮮明で、どれだけ目を閉じても眠れず。そうして、今はこうして歩き続けている。

 薄暗い天井も、柔らかなベッドも、寒くない部屋も。何もかもが信じられなくて、落ち着かない。

『お食事』と言って渡された白いモノだって。あんなに温かくて、柔らかい食べ物があるなんて知らなかった。

 パンかゆ(・・)です、とセバスには教えられたが、固くて冷たい、叩くと痛いパンしか知らないドブには衝撃でしかなかった。

 ご飯だけではない。お風呂も、服も、見えるもの聞くもの全部、ドブにとっては初めてのものばかり。

 まるで夢のようで……でも、実際に夢なのだろうと。心の奥に広がるモヤモヤとした気分から解放されない。

 そう。眠れないのではなく、ドブは眠りたくないのだ。

 触感も、嗅覚も、聞こえるものも。全部が現実に近いのに、どうしても受け止めきれない。


 物心ついた時からずっと、ドブは混血だと蔑まれてきた。

 醜く、汚い。兎としての価値などない。みっともなく縋り付いて生きるしかできない、なり損ない。

 重なり合うのは、怒鳴り声と、自分を嗤う声。可哀想にと蔑んで、最後には決まって混血だからと言われて。

 それがドブにとっての日常で、慣れているから傷付いていないと言い聞かせて。そうして、本当にそうなってしまったほどに繰り返してきた。

 それが突然、混血でも価値があるのだと言われ、本当は保護されるべきだったと言われて。そうして、今ここにいることも。やっぱり、ドブには夢としか思えなかったのだ。

 夢ならば、いつかは醒める。

 どれだけ続いてほしいと思っても、どれだけ起きたくないと思っても。朝になって、誰かがドブを起こしに来てしまえば、もう夢の中には戻れない。

 温かいと思うほどにその瞬間が怖くなって、眠らなければ起きないのではないかと、そんな希望に縋って。

 あり得ないことはわかっているのに、眠るのが怖くて。また一つ音が響く。

 ……いや、ドブに届いたのはもう一つ。


 ピクリと揺れた耳が捉えたのは、何かを書くような音。紙とペン。オーナーが、書類というものを書くときと同じ音。

 誰かが、まだ起きているのだ。メイドと呼ばれた彼女たちか、それともセバスさんか。これだけでは分からなくても、人がいるのなら聞くことができる。

 夢の中でも、勝手に出歩くべきではないだろう。

 見つかれば怒られてしまうかもしれないが、このまま部屋が分からずに歩き続けていれば結局は一緒。

 音を辿り、辿り着いた部屋を確かめて。扉を開けるときのマナーを知らないと、伸ばした手が固まる。

 外から声をかければ、他の人を起こしてしまうかもしれない。でも、もし忙しいのに邪魔をしてしまったら?

 悩み、考え。立ち去ることはできずに、小さく扉を開けて中を窺う。

 音を立てないようにと思ったのに、微かに軋む音に心臓が跳ねて。中途半端に開いた隙間は、中を見るには狭すぎるもの。

 閉じるか、開くか。混乱するドブの頭は、腕が軽く引っ張られたことで真っ白になってしまった。

 正しくは引っ張られたのではなく、掴んだままのノブが扉と共に動いたせい。


「――ぁ、」


 見開いたのは、蒼と黒の双方とも。そのどちらも、いると思わなかった相手に対して。

 片方は硬直し、片方は見開いたまま。見上げ、見下ろし。

 先に動いたのは、中から出てきたヴァルツの方だった。


「……どう、した?」


 掠れた声に耳だけでなく、肩も心臓も跳ねて。思わず押さえた胸元は、早鐘を打ったまま戻らない。

 覗き込むヴァルツの後ろ。見えた机と、紙が積まれた様に邪魔をしたと理解し、謝罪しなければならない口を動かせずに、指先だけに力が籠もる。

 焦るほどに真っ白になるドブに向けられるのは、呆れでも怒りでもなく、少し緩んだ蒼い光。


「起きたのか。……身体の調子は? 苦しいところや、痛いところは」

「あ……だ、いじょうぶ、です。……お邪魔をして、申し訳ありません」


 下げようとした頭は、肩に触れられて動かず。絡む蒼から目を下げてしまったのは、せめてもの謝罪の現れ。

 伝わる温度に少しずつ力が抜けて、小さな深呼吸も、静かなこの空間ではよく響いてしまう。


「トイレに、行ったら……部屋に、戻れなく、なって……」

「ああ、無理もない。……こっちだ」


 離れた熱を惜しむ間もなく、部屋からでたヴァルツが廊下へ進む。

 そのまま後ろをついていこうとして、重々しい足音が数歩進んだところでピタリ、止まる。


「……そうだった。まだ靴を用意できていなかったな」

「? あの……」


 視線は足元に。冷たい床に触れ、赤くなった肌に残るのは無数の小さな傷。

 ずっと素足で暮らしてきたのを考えれば、冷たいのはドブにとって当たり前のこと。

 尖った石で傷付かないだけ、仲介所よりはずっといいと思っているが。そう思っているのはドブだけらしい。

 狭まった眉は不快を現し、見たくなかったのかと隠そうとして……それよりも先に、足が地面から離れる。


「うわっぁ……!?」

「冷えているな。……すまない。明日にはいくつか用意させる」


 抱き上げられたと気付いたのは、その逞しい腕に包まれてから。膝裏を支えられ、進む足取りはドブよりも強く早い。

 どうして抱き上げられたかわからず、でも降ろしてほしいとも言えず。トクトクと響く鼓動が聞こえてしまえば、思わず耳を傾けてしまう。

 温かくて、心地良くて。……ずっと、忘れたくない音。

 大人しく抱かれるドブを男はどう思ったか。その間も迷い無く進んだ足は、あっという間に与えられた部屋の元へ。

 出てきたままで乱れたベッドに降ろされ、背中に与えられるのは慣れない柔らかさ。


「申し訳、ありません」

「謝ることはない、部屋の位置は過ごしているうちに覚えていくだろう。……寒くはないか」

「大丈夫、です。ありがとうございました」


 部屋を出たのは大分前。シーツに残っていた体温も冷め切って、温かいとは言えない。

 それでも、あの物置にいたころに比べればマシだと首を振る。なにより、これ以上ヴァルツに迷惑をかけたくはなかった。

 上からシーツをかけられ、また見慣れない天井と向き合う時間が始まると思ったが、覗き込む蒼はドブの視界に入ったまま。


「あの……?」

「……眠れないのか」


 問いかけではない。確信をもった響きに耳が揺れる。

 シーツに隠れた指をぎゅっと握り込んで、咄嗟に出たのは謝罪の言葉。


「あ……も、うしわけ……」

「謝るな、責めてはいない。……お前にとって、今日はあまりにたくさんのことが起きた。眠れなくて同然だろう」


 身体が一段と沈んだのは、ヴァルツがベッドに腰掛けたからだ。

 それだけで感じていた冷たさがなくなったように思えて、再び合わせた蒼は、思っていた通り温かなもの。

 だが、込みあげるのは温かいばかりではなく。彼の手を煩わせているという罪悪感も。


「……すみ、ません」

「謝る必要はないと……」

「違うんです。……眠りたく、ない、んです」


 そう思っているから眠れないのだと。諦めてしまえば眠れるのだと。だから、悪いのは自分なのだと。

 打ち明けた言葉に眉は寄らず、蒼は一つ瞬くだけ。


「なぜ?」

「……眠ったら、夢が、終わるから」


 口にすれば、本当にそうだと思えて。より目蓋を閉じる恐怖が込みあげる。

 何もかもが都合のいい夢で、やっぱり自分はあの冷たい、狭い、物置に一人きりで。

 兎と言われることはなくて。愛されるわけがなくて。

 本当のことなのに。それが現実のはずなのに。やっぱり夢から覚めたくないと願ってしまう。


「ここが夢だと?」

「すいません、でも、そうとしか……思えなくて……」


 馬鹿馬鹿しいと言われるだろうか。それとも、夢ではないと慰められるのだろうか。

 どちらも、ドブが想像できること。何を言われたって、夢からは覚めてしまうのに。いつか、朝は来てしまうのに。


「夢だと思うなら、したいことを言ってみるといい」

「……え?」

「夢なら好きにできるだろう。お前にも叶えたいことがあるんじゃないのか」


 だが、実際に聞こえたのは、ドブの予想していなかったこと。

 叶えたいこと、なんて。もう既に叶えられているのに。

 温かいご飯も、寒くない場所も、兎と呼ばれることも。全部。


「どこかへ行ったり、何かを食べるのは今からだと難しいが……言うだけなら自由だし、夢が続けば叶えることもできる。何か望みはあるか」


 行きたい場所も、食べたいものも、思い浮かばない。もう十分、ドブは与えられている。

 でも、もしもらえるのなら。本当に夢で、願ってもいいのなら。


「な……まえを……」

「名前?」

「私の、名前を……ヴァルツ様に、つけてほしいです」


 呼吸が乱れる音が鼓膜を叩いて、やっぱり、願ってはいけなかったのだと突きつけられる。


「……それは」

「ご主人様ではないことは理解しています。でも、僕を受け入れてくれる人はいないと分かっているので……す、みません、ご迷惑、ですよね」


 シーツを手繰り寄せ、顔まで覆う。もう一度、あの蒼を見上げる勇気はなかった。

 最後の最後に、現実を突きつけられて夢から覚めたくはない。

 分かっていても。分かっていたとしても。……ここが、夢だからこそ。


「お時間をとらせて申し訳ありませんでした。ちゃんと眠りますので、ヴァルツ様は――」

「ノアール」


 隠しきれなかった耳が跳ねる。耳慣れない響きは、でも、特別な意味をもつ言葉には聞こえなかった。

 それはまるで、人の名前のようで。


「のあー、る?」

「美しい黒という意味だ。お前のその毛色は、醜くも汚くもない。……お前の瞳と同じ、綺麗な色だ。安直に与えられた名なら、同じく安直な意味で塗り替えればいい」


 チカチカと、目の前で光が散る。蒼が煌めいて、温かくて、眩しくて。

 名前。自分の、名前。

 与えられると思っていなかった、自分の。自分だけの、名前。


「の、あーる」

「……言っておくが、私に名付けのセンスはない。気に入らないのなら他に考えるが――」

「のあーる。のあーる。……ノアール」


 何度も何度も繰り返して、その響きを忘れないように刻み込む。

 兎にとって、名前を与えられることは特別なことだ。主人に迎えられ、愛される資格を得た兎だけが与えられる、唯一のもの。

 ヴァルツは飼い主ではない。保護しているだけで、いつかその元を離れなくてはいけない。そうでなくてもこれは夢で、現実ではなくて。

 そうだと分かっていても、込みあげる感情を抑えられない。

 名前。自分の。自分だけの。この人がつけてくれた、一つだけの。

 みすぼらしいと、哀れだと、汚いと。そう呼ばれ続けていた自分に、この人は……こんなにも、綺麗な響きを与えてくれた。

 美しいのだと、言ってくれた。


「ぼ、くの、なまえ……っ」


 視界が涙でにじんで、息が苦しくて。だけど、嬉しくて、温かくて。

 かき集めたシーツを頭に押しつけてもしゃっくりが止まらず、ようやく出せた言葉だって、歪なもの。


「あ、りが、とっ……ご、ざいます……!」


 ああ、もし夢が覚めて。全部が夢で。やっぱり、何も変わっていなくたって。

 自分はこの感情だけで生きていける。この名前を与えられた喜びだけで、きっと生きていける。

 だって……それこそが、ドブが。ノアールが欲しかった、たった一つの物だったのだから。


「……気に入ったのならいい」


 肩に触れる手が。かけられる声が。温かくて、優しくて、柔らかくて。

 苦しいのに、嬉しくて。やっぱり、覚めたくないと、願ってしまう。


「怖がらずに眠りなさい。……眠っても、お前が思うよりこの夢は長く続くだろうから」


 怖くなくなるまで傍にいると、そう囁く声は、泣き続けるノアールの耳にも確かに届いていた。


◇ ◇ ◇


 小鳥が朝を唄い、新しい一日の始まりを告げる中。身だしなみを整えた男がそっと、扉を開く。

 ノックをしないのは、まだ起こすには早すぎる時間であるからこそ。

 昨日医者に言われたとおり、熱が出ていないかを確認するだけだったが……そこに、思わぬ影を見つけたセバスの目が瞬く。


「……おやおや」


 安らかに眠る、兎の青年の隣。見守っている間に寝落ちたのだろう主人を見るセバスの顔は、幼い子どもを見守るように微笑ましいものだった。

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