12.長い夢
ひたり、ひたり。
耳を澄ませても聞こえるのは、自分の足と床が触れ合う音だけ。
隙間から吹き込む風の音も、闇夜に紛れる獣の声も、寒さに震えて軋む骨の音だって聞こえない。
窓から見える景色は真っ暗で、まだ朝が遠いことも、今起きているのはドブだけだということも分かっている。
トイレの位置はセバスに教えてもらったが、そこから与えられた部屋に戻る道を思い出せず。こうして彷徨い、何分経っただろう。
人の気配がしたなら教えてもらえたが、眠っているのを起こせたかと言えば否定するしかなく。朧気な記憶を辿り、冷えた素足が繰り返し地面に触れる。
動かす足も、壁に触れる腕も、全身がいつも以上に重たくて怠い。どんなに仕事を言いつけられた時でも、ここまでではなかったのに。
それでも頭の中だけは痛いほどに鮮明で、どれだけ目を閉じても眠れず。そうして、今はこうして歩き続けている。
薄暗い天井も、柔らかなベッドも、寒くない部屋も。何もかもが信じられなくて、落ち着かない。
『お食事』と言って渡された白いモノだって。あんなに温かくて、柔らかい食べ物があるなんて知らなかった。
パンかゆです、とセバスには教えられたが、固くて冷たい、叩くと痛いパンしか知らないドブには衝撃でしかなかった。
ご飯だけではない。お風呂も、服も、見えるもの聞くもの全部、ドブにとっては初めてのものばかり。
まるで夢のようで……でも、実際に夢なのだろうと。心の奥に広がるモヤモヤとした気分から解放されない。
そう。眠れないのではなく、ドブは眠りたくないのだ。
触感も、嗅覚も、聞こえるものも。全部が現実に近いのに、どうしても受け止めきれない。
物心ついた時からずっと、ドブは混血だと蔑まれてきた。
醜く、汚い。兎としての価値などない。みっともなく縋り付いて生きるしかできない、なり損ない。
重なり合うのは、怒鳴り声と、自分を嗤う声。可哀想にと蔑んで、最後には決まって混血だからと言われて。
それがドブにとっての日常で、慣れているから傷付いていないと言い聞かせて。そうして、本当にそうなってしまったほどに繰り返してきた。
それが突然、混血でも価値があるのだと言われ、本当は保護されるべきだったと言われて。そうして、今ここにいることも。やっぱり、ドブには夢としか思えなかったのだ。
夢ならば、いつかは醒める。
どれだけ続いてほしいと思っても、どれだけ起きたくないと思っても。朝になって、誰かがドブを起こしに来てしまえば、もう夢の中には戻れない。
温かいと思うほどにその瞬間が怖くなって、眠らなければ起きないのではないかと、そんな希望に縋って。
あり得ないことはわかっているのに、眠るのが怖くて。また一つ音が響く。
……いや、ドブに届いたのはもう一つ。
ピクリと揺れた耳が捉えたのは、何かを書くような音。紙とペン。オーナーが、書類というものを書くときと同じ音。
誰かが、まだ起きているのだ。メイドと呼ばれた彼女たちか、それともセバスさんか。これだけでは分からなくても、人がいるのなら聞くことができる。
夢の中でも、勝手に出歩くべきではないだろう。
見つかれば怒られてしまうかもしれないが、このまま部屋が分からずに歩き続けていれば結局は一緒。
音を辿り、辿り着いた部屋を確かめて。扉を開けるときのマナーを知らないと、伸ばした手が固まる。
外から声をかければ、他の人を起こしてしまうかもしれない。でも、もし忙しいのに邪魔をしてしまったら?
悩み、考え。立ち去ることはできずに、小さく扉を開けて中を窺う。
音を立てないようにと思ったのに、微かに軋む音に心臓が跳ねて。中途半端に開いた隙間は、中を見るには狭すぎるもの。
閉じるか、開くか。混乱するドブの頭は、腕が軽く引っ張られたことで真っ白になってしまった。
正しくは引っ張られたのではなく、掴んだままのノブが扉と共に動いたせい。
「――ぁ、」
見開いたのは、蒼と黒の双方とも。そのどちらも、いると思わなかった相手に対して。
片方は硬直し、片方は見開いたまま。見上げ、見下ろし。
先に動いたのは、中から出てきたヴァルツの方だった。
「……どう、した?」
掠れた声に耳だけでなく、肩も心臓も跳ねて。思わず押さえた胸元は、早鐘を打ったまま戻らない。
覗き込むヴァルツの後ろ。見えた机と、紙が積まれた様に邪魔をしたと理解し、謝罪しなければならない口を動かせずに、指先だけに力が籠もる。
焦るほどに真っ白になるドブに向けられるのは、呆れでも怒りでもなく、少し緩んだ蒼い光。
「起きたのか。……身体の調子は? 苦しいところや、痛いところは」
「あ……だ、いじょうぶ、です。……お邪魔をして、申し訳ありません」
下げようとした頭は、肩に触れられて動かず。絡む蒼から目を下げてしまったのは、せめてもの謝罪の現れ。
伝わる温度に少しずつ力が抜けて、小さな深呼吸も、静かなこの空間ではよく響いてしまう。
「トイレに、行ったら……部屋に、戻れなく、なって……」
「ああ、無理もない。……こっちだ」
離れた熱を惜しむ間もなく、部屋からでたヴァルツが廊下へ進む。
そのまま後ろをついていこうとして、重々しい足音が数歩進んだところでピタリ、止まる。
「……そうだった。まだ靴を用意できていなかったな」
「? あの……」
視線は足元に。冷たい床に触れ、赤くなった肌に残るのは無数の小さな傷。
ずっと素足で暮らしてきたのを考えれば、冷たいのはドブにとって当たり前のこと。
尖った石で傷付かないだけ、仲介所よりはずっといいと思っているが。そう思っているのはドブだけらしい。
狭まった眉は不快を現し、見たくなかったのかと隠そうとして……それよりも先に、足が地面から離れる。
「うわっぁ……!?」
「冷えているな。……すまない。明日にはいくつか用意させる」
抱き上げられたと気付いたのは、その逞しい腕に包まれてから。膝裏を支えられ、進む足取りはドブよりも強く早い。
どうして抱き上げられたかわからず、でも降ろしてほしいとも言えず。トクトクと響く鼓動が聞こえてしまえば、思わず耳を傾けてしまう。
温かくて、心地良くて。……ずっと、忘れたくない音。
大人しく抱かれるドブを男はどう思ったか。その間も迷い無く進んだ足は、あっという間に与えられた部屋の元へ。
出てきたままで乱れたベッドに降ろされ、背中に与えられるのは慣れない柔らかさ。
「申し訳、ありません」
「謝ることはない、部屋の位置は過ごしているうちに覚えていくだろう。……寒くはないか」
「大丈夫、です。ありがとうございました」
部屋を出たのは大分前。シーツに残っていた体温も冷め切って、温かいとは言えない。
それでも、あの物置にいたころに比べればマシだと首を振る。なにより、これ以上ヴァルツに迷惑をかけたくはなかった。
上からシーツをかけられ、また見慣れない天井と向き合う時間が始まると思ったが、覗き込む蒼はドブの視界に入ったまま。
「あの……?」
「……眠れないのか」
問いかけではない。確信をもった響きに耳が揺れる。
シーツに隠れた指をぎゅっと握り込んで、咄嗟に出たのは謝罪の言葉。
「あ……も、うしわけ……」
「謝るな、責めてはいない。……お前にとって、今日はあまりにたくさんのことが起きた。眠れなくて同然だろう」
身体が一段と沈んだのは、ヴァルツがベッドに腰掛けたからだ。
それだけで感じていた冷たさがなくなったように思えて、再び合わせた蒼は、思っていた通り温かなもの。
だが、込みあげるのは温かいばかりではなく。彼の手を煩わせているという罪悪感も。
「……すみ、ません」
「謝る必要はないと……」
「違うんです。……眠りたく、ない、んです」
そう思っているから眠れないのだと。諦めてしまえば眠れるのだと。だから、悪いのは自分なのだと。
打ち明けた言葉に眉は寄らず、蒼は一つ瞬くだけ。
「なぜ?」
「……眠ったら、夢が、終わるから」
口にすれば、本当にそうだと思えて。より目蓋を閉じる恐怖が込みあげる。
何もかもが都合のいい夢で、やっぱり自分はあの冷たい、狭い、物置に一人きりで。
兎と言われることはなくて。愛されるわけがなくて。
本当のことなのに。それが現実のはずなのに。やっぱり夢から覚めたくないと願ってしまう。
「ここが夢だと?」
「すいません、でも、そうとしか……思えなくて……」
馬鹿馬鹿しいと言われるだろうか。それとも、夢ではないと慰められるのだろうか。
どちらも、ドブが想像できること。何を言われたって、夢からは覚めてしまうのに。いつか、朝は来てしまうのに。
「夢だと思うなら、したいことを言ってみるといい」
「……え?」
「夢なら好きにできるだろう。お前にも叶えたいことがあるんじゃないのか」
だが、実際に聞こえたのは、ドブの予想していなかったこと。
叶えたいこと、なんて。もう既に叶えられているのに。
温かいご飯も、寒くない場所も、兎と呼ばれることも。全部。
「どこかへ行ったり、何かを食べるのは今からだと難しいが……言うだけなら自由だし、夢が続けば叶えることもできる。何か望みはあるか」
行きたい場所も、食べたいものも、思い浮かばない。もう十分、ドブは与えられている。
でも、もしもらえるのなら。本当に夢で、願ってもいいのなら。
「な……まえを……」
「名前?」
「私の、名前を……ヴァルツ様に、つけてほしいです」
呼吸が乱れる音が鼓膜を叩いて、やっぱり、願ってはいけなかったのだと突きつけられる。
「……それは」
「ご主人様ではないことは理解しています。でも、僕を受け入れてくれる人はいないと分かっているので……す、みません、ご迷惑、ですよね」
シーツを手繰り寄せ、顔まで覆う。もう一度、あの蒼を見上げる勇気はなかった。
最後の最後に、現実を突きつけられて夢から覚めたくはない。
分かっていても。分かっていたとしても。……ここが、夢だからこそ。
「お時間をとらせて申し訳ありませんでした。ちゃんと眠りますので、ヴァルツ様は――」
「ノアール」
隠しきれなかった耳が跳ねる。耳慣れない響きは、でも、特別な意味をもつ言葉には聞こえなかった。
それはまるで、人の名前のようで。
「のあー、る?」
「美しい黒という意味だ。お前のその毛色は、醜くも汚くもない。……お前の瞳と同じ、綺麗な色だ。安直に与えられた名なら、同じく安直な意味で塗り替えればいい」
チカチカと、目の前で光が散る。蒼が煌めいて、温かくて、眩しくて。
名前。自分の、名前。
与えられると思っていなかった、自分の。自分だけの、名前。
「の、あーる」
「……言っておくが、私に名付けのセンスはない。気に入らないのなら他に考えるが――」
「のあーる。のあーる。……ノアール」
何度も何度も繰り返して、その響きを忘れないように刻み込む。
兎にとって、名前を与えられることは特別なことだ。主人に迎えられ、愛される資格を得た兎だけが与えられる、唯一のもの。
ヴァルツは飼い主ではない。保護しているだけで、いつかその元を離れなくてはいけない。そうでなくてもこれは夢で、現実ではなくて。
そうだと分かっていても、込みあげる感情を抑えられない。
名前。自分の。自分だけの。この人がつけてくれた、一つだけの。
みすぼらしいと、哀れだと、汚いと。そう呼ばれ続けていた自分に、この人は……こんなにも、綺麗な響きを与えてくれた。
美しいのだと、言ってくれた。
「ぼ、くの、なまえ……っ」
視界が涙でにじんで、息が苦しくて。だけど、嬉しくて、温かくて。
かき集めたシーツを頭に押しつけてもしゃっくりが止まらず、ようやく出せた言葉だって、歪なもの。
「あ、りが、とっ……ご、ざいます……!」
ああ、もし夢が覚めて。全部が夢で。やっぱり、何も変わっていなくたって。
自分はこの感情だけで生きていける。この名前を与えられた喜びだけで、きっと生きていける。
だって……それこそが、ドブが。ノアールが欲しかった、たった一つの物だったのだから。
「……気に入ったのならいい」
肩に触れる手が。かけられる声が。温かくて、優しくて、柔らかくて。
苦しいのに、嬉しくて。やっぱり、覚めたくないと、願ってしまう。
「怖がらずに眠りなさい。……眠っても、お前が思うよりこの夢は長く続くだろうから」
怖くなくなるまで傍にいると、そう囁く声は、泣き続けるノアールの耳にも確かに届いていた。
◇ ◇ ◇
小鳥が朝を唄い、新しい一日の始まりを告げる中。身だしなみを整えた男がそっと、扉を開く。
ノックをしないのは、まだ起こすには早すぎる時間であるからこそ。
昨日医者に言われたとおり、熱が出ていないかを確認するだけだったが……そこに、思わぬ影を見つけたセバスの目が瞬く。
「……おやおや」
安らかに眠る、兎の青年の隣。見守っている間に寝落ちたのだろう主人を見るセバスの顔は、幼い子どもを見守るように微笑ましいものだった。
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