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そうして、『兎』は愛を知る【BL】  作者: 池家乃あひる


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11.暗雲の気配(ヴァルツ)

 ヴァルツが屋敷に帰ってきたのは、日付が変わる数時間前のことだった。

 厳しい試験と、信頼にたり得る者のみが就ける監視官の業務は、どれ一つとっても重要である。

 違法薬物、禁制品。特別保護法が適用される兎に関連する事項の精査。そして、それらの取り締まりと処罰。

 監視官の中でも、それらを取りまとめるヴァルツには、深夜の帰宅などそう珍しいことではない。

 特に近年は兎の需要と共に関係する犯罪も増加した。

 確かに明け透けもなく言えば国公認の奴隷ではあるが、あくまで奴隷であって物ではない。

 他の獣人に比べ、権利が無いことは否定しない。だが、傷付ければ罰せられるし、殺したなら処刑もされる。暗黙の了解という面もあるが、細やかな規則も存在している。

 貴族というものは、珍しい物に価値を見出し、流行を作り、己の顕示欲に当て嵌めようとする。

 それに振り回される側にすればたまったものではないが、兎を保護するには今の状態が限界。

 成人しても幼い体格のまま。総じて病弱であるせいで、まともに働くことも困難。国の補助にも限度がある。

 ならば、その外見と希少性に価値を見出した貴族に身請けさせるのが、今は理にかなっているのだ。

 しかし、兎に関することには金が絡む。そして、金が絡めば犯罪も増える。

 だからこそ、ヴァルツのような監視官の存在が必要であり、その業務が減ることはないのだ。


「おかりなさいませ」


 出迎えたセバスに荷物を預けるヴァルツに滲むのは、隠しきれない疲労の色。

 それだけで今日の一連がいかに大きかったか計り知れるが、その足先が向かうのは自室の方向ではない。


「お食事は」

「書斎へ。軽いものを」

「お気持ちもわかりますが、一応は休暇中となっております。仕事もほどほどになさいませんと」

「ここまで大事にならなければ、そうしていただろうな」


 あっという間に辿り着いた書斎の、馴染んだ椅子の上。腰をかけ、深く吐いた息は苛立ちと疲労の滲むもの。

 そう、ある程度の規模は覚悟していた。だからこそ部下を編成し、騙し討ちで監査に入ったというのに……想定以上であったとは。

 少なく見積もっても十五年以上に及ぶ兎への虐待。

 混血ならば何をしてもいいのだと、他の保護対象へ差別意識を認識させたこと。

 その他、補助金の着服に、報告を偽るために行った役人の買収。

 裏の帳簿を見た限り、他の兎の引き渡し金も上乗せしている。あんな杜撰なものが、よくここまで露見しなかったものだ。

 おかげで金銭関係の後処理は容易だろうが、兎たちに関してはそうはいかない。

 混血の兎が仲介所で嫌悪されることは分かっていたことだ。

 その分、引き受けた仲介所に対しては補助金も多く支払っていたが……まさか、その義務すら果たしていないとは。

 確かに純血に比べれば価値は下がるが、それでも兎だ。過去にも、引き取り手のいなかった例はない。

 制度の見直しに、仲介所への新たな人員配置。保護した兎の引受先探しに、それらの報告。やることはあまりに多すぎる。

 先月、ようやく市井に出回っていた違法薬品の尻尾を掴んだというのに、こうも問題ばかりでは休んでもいられない。

 ……まぁ、兎を迎えると噂を流し、監査の警戒を弱められたところはよかったと言える。

 そもそも、休暇も上から無理矢理与えられたものだ。元々休むつもりもなかったが、彼を案ずる執事はそうはいかないらしい。

 互いに分かっているが、言わずにはいられないのだろう。その気持ちを理解しているからこそ苛立つことなく、吐き出されるのは息だけ。


「彼の様子は」

「旦那様が向かわれた後も、静かにお過ごしでした。食事は胃に優しい物を。医師の診察では打撲、栄養失調、睡眠不足と、今後は長期的に与えられてきた精神的苦痛による症状と、近日中に発熱する可能性も高いとのこと」

「……そうか」


 概ね、ヴァルツの想定していた通りだ。他に怪我がなかったことに安心し、それで済んでいたことに驚きもする。

 本当に、あまりにもひどい姿だった。

 皮と骨しかないと思うほどにやつれた姿。一年を通して寒さに見舞われるこの地域で、布とも言えぬモノしか纏わず。見える素肌に痛々しく残った痣。

 抱き上げた身体はあまりに軽く、少しでも加減を間違えれば折れていただろう。あり得ない、と言えないほどにその身体は弱り切っていた。

 混血だから、兎ではないから。その受け答え一つとっても、彼がどれだけ不適切な扱いを受けてきたかが分かる。

 他の仲介所でも、せいぜい冷たくあしらわれる程度だ。それなのに、自ら地に頭を擦り、願わせるなど。

 本当に、よく今まで生きていられた。半分とはいえ兎の血が流れているのならば、その身体のつくりも丈夫ではないのに。


「医師の診察も大人しく受けてました。今は一番奥の客室を用意しております」

「次が決まるまで暫くかかる。その間、兎としての扱われ方に慣らす必要があるだろう。教育係と、専属のメイドの選定はお前に任せる」


 兎は無垢で純粋であることを好まれるが、それでも最低限の知識を受けることになっている。

 テーブルマナーや、保護主への接し方を含め、兎としての振る舞い方を教わった後に迎え入れられるのだ。

 いつか希望者が現れた時に備え、彼にも正しい教育を受けさせなければならない。


「既にメイドについては確定しております。教育係も整い次第ご報告を。……しかし」

「なんだ」


 仕事の速さは相変わらず。だが、言いよどんだセバスの顔には、その言葉に合わず柔らかな笑みが。


「いえ、旦那様が兎をお迎えした事実を噛み締めておりまして」

「……セバス」


 それは今日一番の溜め息だっただろう。隠すつもりもないし、もはやその気力もない。


「何度も言わせるな。彼は保護しただけで迎えたわけではない。本人にもそう伝えたことはお前も聞いていただろう」

「ただ保護するだけでしたら、規定通りに行えばよろしかったのでは? わざわざ屋敷にお連れしたので、てっきりそうかと……」


 まるで孫を見守っているかのように、どこまでも朗らかなもの。

 一瞬言葉に詰まりそうになるのは、それが本来の流れだからだ。

 今回の件に限らず、やむを得ぬ事情により保護する兎の数は少なくない。その場合は、一時的に国の管轄する保護施設に移送することになっている。

 重要事件に関係しているときは、監視局で預かる場合もある。今回ならば、監視局に預けるのが妥当であっただろう。

 それはヴァルツも分かっている。分かっていて、ここまで連れてきたのだ。


「今回は状況が特殊だ。虐げてきた兎と同じ空間に置いておくわけにはいかない。成人している以上、仲介所の保護義務外だ」


「個室で十分対応できたと思われますが。まさか空き部屋が一つもないと?」

「……保護を優先させた結果だ。お前もあの姿を見ただろう」

「ええ、もちろん。そして、より劣悪な環境に置かれていた兎の姿も、私は知っております」


 言い繕うほどに苦しくなっている。言われているのはどれも正論だ。

 保護に伴い用意している部屋は少なくとも数室。今回保護した兎の数を考えても、個室を与えても問題はなかった。

 保護を優先させるのなら、それこそ一時的とはいえ隔離するので十分。あの場でこの屋敷で保護することを決めるだけの材料はなかった。

 今にも死にそうな兎なんて、それこそ何度見てきたことか。それも例外なく、規定通りに保護してきたというのに。

 ピルツにも散々揶揄われたことだ。思い返すほどに、自分の行動の矛盾が際立つ。


「……セバス、もう一度言う。あくまでも彼がここにいるのは、保護のためだ」


 だが、それを認めるわけにはいかないと。反論することを止め、念を押すのに留める。

 彼が期待していることは一切起こらないし、起こるはずがない。

 ……が、やはりその深い皺は戻ることなく、細めた灰色は不機嫌な蒼を見つめる。


「分かっております。そのうえで、彼がいることで旦那様に良い刺激をもたらすのではないかと……」

「私は、兎として彼を迎えたわけではない」

「それにしては、あれだけ頑なに現場に出るといいながら指揮をピルツ様に任せ、抱えて連れ帰るなり浴室で愛でていたのは……」

「違うっ! 兎があんなに敏感とは思っていなかったんだ!」


 思わず立ち上がり、声を張って否定する。誓って、本当にそんなつもりではなかったのだ。

 どの獣人も種族に関係なく、断りなく他人の耳と尾に触れるのは褒められた行為ではない。

 情事の際、感覚が高まっている時に触れるのは別ではあるが、そうでなければ不快感を抱くだけ。

 だから、ヴァルツが彼を洗う時もそうだと思っていたのだ。

 兎は、他の種族と比較しても敏感で。それは聴覚に限った話ではないことは、ヴァルツもよくよく分かっていたはずだ。

 ただ、知識として知っているのと、実際に目にするのとでは、その理解度は大きく異なる。

 まさか、あの程度であんな声を出すとは。本当に思ってもみなかったのだ。


「分かっていたのなら最初からっ……」

「おや、私が申し上げているのは、自ら洗うと仰ったことに対してですが」


 どこをお触りになったのでしょう。と、トドメに笑われれば、己の失言に項垂れるしかなく。再び椅子に沈んだヴァルツへ、いつの間にか用意された紅茶が差し出される。


「よいではありませんか。兎の教育がされていないということは、これから伸びしろがあるということ。素質はあるようですし、時間さえかければ、他の兎より聡明に育つことでしょう」

「まて、育てると言ったのはそういう意味ではなく……」

「彼に惹かれる何かがあったのでしょう? そうでなければ、あれだけ個人的な接触を避けていた兎に対し、ここまでするとは思えません」


 ピルツ相手なら騙せた言い訳も、長年付き従ってきた執事にはとっくに見透かされていたのだろう。

 ヴァルツ自身、なぜその衝動にかられてしまったかを理解できていない。

 理解はしていたはずだ。求められた理想像とはかけ離れた風貌でも、それは兎であると。本来ならば保護されるべき存在であったと。

 ゆえに、声をかけたのは業務の範囲として。その安全を確かめる以外に、理由はなかったはずだ。


『き、れい』


 ……それなのに。甘く掠れた声が耳から離れない。

 自分を見上げる、透き通った大きな黒い瞳が、ずっと頭の隅に残り続けている。

 恐ろしいかと問いかけた相手へ、温かいと答えて微笑んだあの顔を。

 触れた手から伝わった、あの柔らかな感触を。ヴァルツは、あの時の衝動からまだ、抜け出せないでいるのだ。

 兎に求められるのは、愛らしく、純粋で、無垢なこと。ならば、間違いなく。あの中にいる兎の中で、彼が最も兎の素質があった。

 セバスの言う通り、保護するだけなら連れ帰る必要はなかった。規定通りに処理を進めるべきだった。

 ましてや、自ら風呂に入れる必要などは……。


 パシ、と響くのは己の背後。無意識に椅子を叩いた尾の僅かな痛みは、思い出してしまった一連を忘れさせるには足らない。

 ……まだ、名を教えていなくてよかった。もしあの時呼ばれていたなら、それこそ、何をしていたか分からない。

 赤く上気した肌と、トロリと蕩けた黒い瞳。

 甘く、熱く。囁くあの声が、まだ鼓膜の奥でヴァルツを惑わしている。

 そんな目的で迎えたのではないと、今でもハッキリとそう言えるのに……その決意が、容易に揺さぶられるだけの、甘美な誘惑。

 兎は、己の生存のために愛らしさを求め、自分を養う者を誘惑し、愛されることを願う。

 己の価値を理解し、そう振る舞う兎もいるが、大半は仲介者たちによる教育の結果といえる。

 だが……その根本にある資質は彼らの兎としての本能だ。全ては愛されるため。

 その自覚が本人になくとも……否、ないからこそ、よりその愛らしさが強調される。

 混血であろうとも、その本能は紛れもなく備わっているのだ。

 もし、正しく保護され、教育を受けていたなら、市場の価値が覆っていただろう。

 そうでなければ、こんなにも心が乱されるはずがない。

 ……だが、

 


「……彼は愛される意味を理解していると思うか?」

「教育を受けていなくとも、兎ですからな。他の兎から知識を得た可能性は十分にございます」


 カップを傾け、匂いも楽しめないままに飲みこんだのは、言うまでもない言葉と共に。

 ……兎は、愛されるために愛らしくある。それは、どの仲介所でも、どの場所でも共通とされる認識だ。

 だが、どのように愛されるかについては、実際に迎えられるまで理解していない。

 彼らは愛されなければ捨てられると教え込まれ、だからこそ愛されることを望む。だが、その実情を兎たちはわかっていない。

 抱かれることで愛されると、そう育てられた彼らにとって、性的行為以外の接触はそれに該当しない。

 抱かれなければ価値がないと。愛されてはいないのだと。だからこそ、彼らはそれを望むのだ。

 生きる為に。愛されるために。そうでなければ、価値がないと言われ続けてきたせいで。

 抱かれさえすれば、兎自身はそこになんの感情もなくていいのだ。

 だからこそ、兎は純粋で、無垢で……そうして、歪むことを望まれている。

 彼ら自身に罪はない。そう仕向けてきた長い歴史のせいだ。そうだと分かっていても、ヴァルツは受け入れられない。

 光が散り、甲高い悲鳴が飛び込む。明滅の中に浮かぶのは、赤く染まったシーツと自分の腕。その中に溺れる、恐怖に揺れた瞳。

 もう繰り返してはならない、忌々しい過去。


「お前たちが喜ぶのは勝手だが、私は兎を愛せない。彼には同情するが、それ以上の感情はない。それに、結局は俺が預かることになっていただろう」

「……と、いいますと?」

「あの仲介所で成人を迎えた兎と彼に関して、引き渡しの仮契約書が見つかった」


 その理由は、自分の次に知っているはずだと改めて言い聞かせ。ヴァルツの意思に関係なく、こうなっていた可能性を語る。

 他の仲介所と公平にするため、定められた期間よりも先に取引するのは違法とされている。

 価値の高い兎を狙い、金に物を言わせた者が抜け駆けすることはよくある事例だ。

 アルビノの書類は、それで納得もした。だが……価値がない、と言われている混血にそこまでするのは異常。


「契約主はそれぞれ別名だが、筆跡が酷似していることから同一人物と断定。目的こそ不明だが、なんらかの事件に関係しているなら、安全のためにも誰かが仮受人になる必要がある」

「なるほど。であれば、他の監視官の皆様では少々負担が大きいですな。我々も手配を?」

「必要があれば。今は彼の心身を優先に。……くれぐれも、この件は彼の耳に入らないように」


 それこそ、あの子に負担をかけるだけだと。紅茶からペンへ移った視界の端には、静かに頭を下げるセバスの姿が映っていた。

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