死が彼らを分かつ時(1/3)
マリアンネの風邪は大したことはなかったらしい。それから三日もする頃には、彼女は見事に元気を取り戻していた。
城はすっかり快気祝いムードに湧いている。シルヴェスターも妻に健康が戻って安堵したが、その心が完全に晴れることはなかった。
たとえ病気が治ったとしても、それは目先の寿命が伸びただけのこと。彼女を真に救うためには、来るべき死の運命を覆さねばならない。
そのために、シルヴェスターは連日連夜にわたって図書室に通い詰めだった。手がかりがあるならここだろうと判断したのである。
本に囲まれながら朝食を食べ、書き物をしながら昼食に取り組み、立てた計画を頭の中で練り直しながら夕食を取る。そして、夜になってすっかり消耗した姿で部屋に戻る。
そんな生活が何日も続き、流石にマリアンネも何かがおかしいと感じ始めたらしい。ある日、彼女はこう切り出してきた。
「困り事でもあるのですか、シルヴェスター様」
寝る前の一時、ベッドに腰掛けて妻を膝枕している最中のことだった。
「最近様子が変ですよ」
調べ物ばかりで疲れ切っていたシルヴェスターにとって、マリアンネとこうして過ごす時間は癒やしだった。栗色の髪を撫でてやりながら「変?」と聞き返す。
「私はいつも通りだ。マリアンネのことを一番に考えて行動している」
「図書室に通うことがですか?」
マリアンネは身を起こした。
「最近めっきり姿を見かけなくなったと、孤児院の子どもたちが悲しんでいましたよ。それに、あの子たちだけではありません」
マリアンネはシルヴェスターの顔を両手で包み込んだ。
「あまりわたしを放っておかないでください。寂しいです」
「マリアンネ……変わったな」
シルヴェスターは自分の手のひらをマリアンネの手の上に重ね、頬ずりした。
「昔の君なら、そんなことは決して口にしなかっただろうに」
「思っていることははっきり言って欲しいと、シルヴェスター様にお願いされていますから」
シルヴェスターは妻を引き寄せ、首元に顔を埋めた。甘えてくる夫を、マリアンネは優しく抱きしめる。
「それに、前みたいに思い詰めた挙げ句、おかしな勘違いをするのは嫌ですもの。まさか図書室に愛人を囲っていらっしゃるわけではありませんよね?」
マリアンネが冗談めかして聞いてくる。シルヴェスターは「違う。私にはマリアンネがいればいい」と返した。
「ただ、死神をどうにかしたいと思っているだけだ」
「死神?」
「だが、作戦が中々固まらない。悪魔払いの本なら見つけたんだが、それと同じ方法が死神にも通用するんだろうか? もしくは、少しアレンジを加える方がいいのか……。専門家に話を聞きたいが、死神を追い払うスペシャリストというのは案外いないものなんだな」
「シルヴェスター様……一体何を言っているのですか?」
マリアンネは話について行けていないようだった。
「何故死神のことなど気になさっているのです? そんなものは物語の中にしか存在しませんよ」
「そんなことはない。ちゃんといる」
「会ったことがあるのですか?」
「まだない。だが、これから一ヶ月ほど先に対面することになるだろう」
調べてみたが、二月で満月になる日は二十四日とのことだった。マリアンネが花を摘みに行って事故に遭ったのは、翌日の二十五日だ。その日が彼女の命日となった。つまり、死神は二月二十五日に彼女の元を訪れるということである。
だが、今回はそう易々とマリアンネの命を刈り取らせる気はない。シルヴェスターは死神と直接対決をして、何が何でもマリアンネを守るつもりだった。
「絶対に君を連れて行かせない。だから安心してくれ、マリアンネ」
「死神がわたしの命を狙っているのですか?」
マリアンネは不可解そうな顔になる。
「もう風邪なら治りましたけど……。それとも、シルヴェスターはまたわたしが病気になると思っているのですか?」
「病死か……。その可能性はあるんだろうか」
そんなことは今まで想像もしていなかった。あの本には、死因については何も書いていなかった気がする。ならば、前回とは違う原因で死ぬこともあるかもしれない。
やはりマリアンネは聡明だ。自分が見落としていた事実を、こうもあっさり拾い上げてくれたのだから。
(こうしてはいられないな……。もっときちんと文献を読み込まなければ)
シルヴェスターは急いで寝室を出ようとする。けれど、マリアンネにガウンをつかまれて阻止された。
「まだお話は終わっていません」
マリアンネは頬を膨らませた。
「わたしはもう少しシルヴェスター様と過ごしたいです」
可愛らしいおねだりに、シルヴェスターの心は揺れる。そもそも、シルヴェスターもマリアンネ不足を感じていたのだ。
(本ならマリアンネを膝に乗せていても読めるか……)
シルヴェスターは片手に燭台を握り、もう片方の手でマリアンネの肩を抱くと、図書室へ向かった。
「シルヴェスター様は、何故死神がわたしの元へやって来ると思っているのですか?」
「それが運命だからだ。死の定めは変えられないそうだ」
「でも、シルヴェスター様はそれをあえてねじ曲げようとしているのですね」
「その通りだ。流石はマリアンネ。理解が早くて助かる」
マリアンネがシルヴェスターの顔を見つめた。不安そうな表情だ。シルヴェスターは「大丈夫だ」と妻の肩をさすってやる。
「そんな顔をするな。必ず何とかしてやる。君を死なせたりしない」
「わたしが心配しているのはシルヴェスター様の方です……」
マリアンネは気まずそうに言った。
「わたしが病気になったせいで、シルヴェスター様は余計な心配をするようになったのですね。その内にわたしが死んでしまうかもしれないと……」
「その内ではない。二月二十五日だ」
「日時までご自分で決めてしまったのですか……。……きっととてもお疲れなのですね。死神なんていませんよ。今のシルヴェスター様に必要なのは読書より休息です」
「いいや。いくらマリアンネの言葉でもそれは聞けない。君の命がかかっているんだ。止めてくれるな」
マリアンネはどこか気の毒そうにも見える顔になっていた。
その日のシルヴェスターたちは、明け方まで図書室で過ごした。
シルヴェスターの膝に乗ったマリアンネは、夫に構って欲しそうにナイトガウンの腰紐をいじったり、首筋に唇を這わせたりしていたが、いつの間にかすやすやと眠ってしまっている。
シルヴェスターはマリアンネの誘いに今すぐにでも応じたい気持ちでいっぱいだったので、寝てくれたのは幸いだった。
ソファーに妻を横たえ、上から膝掛け用のブランケットをかけてやる。もっと触れていたいという欲求を抑え、後ろ髪を引かれる思いで調べ物に戻った。
その日から一週間ほどが過ぎ、一月も終わりかける頃には、シルヴェスターの死神撃退作戦も徐々に形になってきた。
シルヴェスターは持てる伝手を最大限に使って、あらゆるところから必要なものを集めてくる。それらは全て、ノルトハイム城の庭園にあるプライベートチャペルに運び込まれるのだった。
「まるで戦争でも始めるみたいですね」
聖別された品々が入った大きな箱が荷馬車から降ろされ、次々と教会内の所定の位置に納められていく様を見ながら、マリアンネが目を丸くしている。
「シルヴェスター様は本気で死神と戦うおつもりなのですか?」
「当たり前だ」
シルヴェスターは計画を書き綴ったメモを見ながら唸った。
「もっとロウソクが欲しいな。後百本、追加で手配しよう。死神の召喚というのは、本当に複雑な手順を踏まないといけないんだな……」
「召喚? 追い払うのではないのですか?」
「もちろん最終的にはそうするつもりだ。だが、敵の出現時間が分かっていれば、その分有利に戦えるだろう? だからあえてこちらから呼び出すんだ。……ああ、そうだ、マリアンネ」
大事なことを言っておかなければとシルヴェスターは思い出した。
「死神の召喚は真夜中に……つまり、二十五日になった瞬間に開始する。その時間帯は、絶対にこの教会に近づくな。分かったな?」
「はあ……。シルヴェスター様はわたしの傍にいてくださいますよね?」
「いや。死神を打ち倒し、マリアンネを守るのは私の役目だ。私はこの教会で敵を迎え撃つ」
「もし……死神などというものが本当にいるとして、勝てるのですか?」
「勝てるかどうかではなく、勝たなければならないんだ。心配しなくても、もしもの時のための切り札もきちんと用意してある。マリアンネが案ずるようなことは何もない」
「そう……ですか……」
マリアンネは複雑そうな顔をしていた。シルヴェスターは妻の不安を和らげてやろうと、細身の体をそっと抱き寄せ、軽くキスをする。
「元気を出せ、マリアンネ。……そうだ、今から唇の手入れをしてやろう。このところご無沙汰だっただろう?」
シルヴェスターはマリアンネの荒れた口元に指を這わせる。マリアンネは夫の手を握り、「はい」と嬉しそうに頬を緩ませた。
妻を伴い、シルヴェスターは城に引き返す。予定外の行動だったが、これも作戦の一部ということにして構わないだろう。
なにせ全てはマリアンネのためなのだから。ただ死神を倒す準備を進めるだけでは妻の憂いが消えないというのなら、別の方法で彼女を慰めてやるだけだ。
振り向けば、道具を納め終わった使用人たちも引き上げていくところだった。
後には、人気のない教会だけが残される。ひっそりとしたその佇まいは、まるで間もなく訪れる対決の日を待っているかのように見えた。





