第97話 浅草の出会い
1916年 8月16日 大日本帝国 東京府 浅草
日本には開国以来多くの外国人が訪れていた。観光や仕事など訪れた理由は様々だったが、第一次世界大戦後にその数はさらに増えていた。
第一次世界大戦の日本の参戦が、大日本帝国の名を欧州のみならず世界中の人々に意識させたのだった。
それまで、白人に劣ると考えられていたアジア人である日本人たちが欧州最強を謳われたドイツ軍(及びその同盟軍であるオーストリア=ハンガリー軍)と戦う姿は衝撃だった。
そこからは"研究"が始まった。敵味方の双方で当時はやりの優生学的なものから、比較文化学や宗教、食事、気候、更には怪しげな神秘思想など様々な観点から日本人の事が論じられ、また実際に訪れる人間も増えていた。
大戦が終結して暫く経つとそうした研究熱はおさまっていたが、それでも、日本を訪れる人間は増えていた。
多くはイギリス、フランス、アメリカなどの船便によって太平洋を越えてきていた人間たちだった。
他にはボンベイやシンガポールを介して欧州からくる人間もいた。また、シベリア鉄道を使ってくる人間も多かった。
同じくアジアの国家である清国を訪れる人間も多かったが、比較的治安が良く、物価も安い日本はちょうどいい観光スポットだった。清国に比べると華美さにかけるところを不満に思う人間も多かったが、その素朴さが良いという人間も多かった。
「はぁ…」
そんな人で溢れかえっている浅草の街をため息をつきながら、浮かない顔で歩いている日本人がいた。
彼は岸一太。赤羽にある赤羽飛行機製作所の所長だった。
彼の赤羽飛行機製作所の経営は行き詰っており、事業を畳むべきか、本気で考えているほどだった。原因は赤羽飛行機製作所で製造している機体であるモーリス-ファルマンのコピー機体の性能がすでに陳腐化しており、大口の納入先だった帝国陸軍が発注の大幅な削減を行なった為だった。
支援者である浅野財閥の主、浅野総一郎にも泣きついてみたが、逆にこれ以上成果が上がらないのならば、支援を打ち切ると言われる始末だった。
それから長い間、岸は新たな資金調達をしようとしたり、独自に性能の良い機体を作るべく、試行錯誤を重ねていたのだが成果は上がっていなかった。
というのも、新たな資金調達に関しては大日本帝国陸海両軍の後押しと元々の民間での航空機ブームによって多くの航空会社が設立されていた事が逆に足枷となってしまった。設立された多くの会社の中にはすぐに経営に行き詰ってしまうようなものも多く銀行や投資家からは航空産業界全体が信用のおけない投資先として見られがちだった。
現状で赤羽飛行機製作所が投資を受けられているのは、浅野財閥や帝国陸軍と関わりがあるという一種の信用があってのものであり、それらが失われそうになっていると知れば、尚更投資をしてくれる人間はいなかった。
新たな機体の開発にも限界があった。元々、赤羽飛行機製作所の航空機は岸が一から設計したものではなく、モーリス-ファルマンというひな形があって初めてできたものだ、性能が陳腐化したからと言っていきなり全く新しい機体を作るというのは無理があった。こうして岸はかれこれ数カ月は頭を抱えているのだった。
『スリだ、捕まえてくれ』
岸の耳にやや訛りの強いフランス語が聞こえてきた。
見ると人波をかき分けながら小汚い男が財布を握りしめて逃げ回っている、持ち主であろうまだ若い外国人は人の多さもあってか、あるいは、歩きなれていないのか、その男に追いつけていない様子だ。
「よし」
悪人を許さないという正義感半分、中々経営改善のための良策が思いつかない鬱憤晴らし半分に岸はこの捕り物に参加する事にした。
それから、しばらくしてスリの犯人は逮捕された。といっても岸や持ち主の外国人の手ではなく巡回していた警官の手によってだが。
『いやぁ、助かりました』
『いえいえ、困ったときはお互い様ですから』
岸と外国人はそれぞれ訛りの強いフランス語で話をしていた。ドイツに留学経験のある岸はドイツ訛りで、外国人の方はロシア訛りだった。
『アレクサンドル-デ-プロフィエフ-セヴェルスキー、ロシア帝国海軍航空隊の操縦士…だった男です』
『だった?』
だったという表現に違和感を感じた岸はセヴェルスキーの姿を改めてみた。元々医者を生業としていた岸の目から見てセヴェルスキーは右足にどこか違和感があった。
『義足ですか…あ、いや、その申し訳ありません』
『謝る必要はないですよ。もう飛べないのだから』
セヴェルスキーはそう言って、身の上を話し始めた。1894年に裕福な貴族の家庭に生まれたセヴェルスキーはロシア帝国でも早くから航空機を飛ばしていた操縦士でもある父にあこがれて、ロシア帝国海軍航空隊に入隊し、、そのまま順風満帆な人生を送るかと思われていた。
しかし、去年、爆弾の投下試験を行なっていた際に爆弾が暴発し、セヴェルスキーは右足の切断を余儀なくされた。彼は義足を付ければ飛べると訴えたが、戦時でもないロシア帝国では無理に飛ばすよりは退役させて、セヴェルスキーに代わる新しい操縦士を養成した方が良いと考えたらしく、彼はそのまま飛行資格停止のまま退役となった。
落ち込むセヴェルスキーの事を心配した家族が気分転換にと今回の日本旅行をすすめたらしい。
『セヴェルスキーさん、私は小さいながらも航空機制作所を経営しています。貴方の経験の我が社で活かしませんか』
気が付くと岸の口から自然と勧誘の言葉が出ていた。
『申し出はありがたいが、いきなりそう言われても、まあ、考えるだけなら考えてみます』
セヴェルスキーの言葉は否定的だったが、それでも完全に否定しきらないあたり、航空の世界に未練があるのかもしれない。
結局、2人はその後も手紙でやり取りを続け、セヴェルスキーが岸の赤羽飛行機製作所に来るのは1年ほど後の事になるだった。




